断章『これさ。鍵なんだけど――』
時は少し遡る。
腐敗臭のする地下を抜けて、地上の廃れた屋敷で少女が与えられた物は、数枚のタオルと埃臭いメイド服だった。
その月明かりが天井の穴から無造作に届く廃墟と化した部屋で、これまた綺麗とは言い難いベッドに腰掛ける少女は、男性の前にも関わらず平然と体をタオルで拭いていく。
「約束通り会いに来たよ。言葉くらいは話せるよね?」
「約……束……?」
「ついさっき約束したんだけどなぁ。君が死んだら会いに来るって。……だから今日は君の命日であり、誕生日でもあるんだよ」
少女は体を拭く手を一旦止めて、目前で退屈そうに答える男性を見上げた。
「私は……だれ? ここはどこ……?」
「君の名前は琥珀。ここはハイドラの別荘……とでも言えば良いのかな? そしてここで君は作られ、生まれた。魂だけは既存の物だけど」
「こ……はく……」
名前は聞いた少女の目に光が宿っていく。
そこで初めて男性は楽しげに言った。
「お? もしかして何か思い出した? やっぱ魂にも記憶する機能が――」
興味津々。と言った様子の男性の話を遮ったのは、男性の手首を掴んで立ち上がる少女だった。
「――助けて……! お願い! 助けてあげて!」
「誰を……?」
「それは……」
少女はそこで表情を曇らせて俯く。
そしてすぐに男性の目を見つめて続けた。
「分からないの! 分からない……。なんで……」
少女はまた考え込むように言葉を詰まらせる。
そして必死に捻り出すように続けた。
「たぶん……男の子……。そう、男の子なの! それ以外何も分からない……けど……それに……」
「それに?」
「分からない……。もう何も思い出せない……。今……私があなたになんて言ったかも……。だけど……何かを伝えたかった」
少女の瞳から光が失われていく。
そうしてぺたんとベッドに座り込んで黙ってしまう少女に、男性は何かを手渡して言った。
「これさ。鍵なんだけど――」
新たな物語は幕を開ける。
契約によって生まれた舞台は、契約によって生まれた少女によって、動き出す。