百十八話『兄と弟』
「さて、我が目的もあらかた達成された。後はどうしてグリムソウルの奴を排除するか……」
そう独り言を漏らす白雨は、すたすたと誰もすれ違う事も無い廊下を歩いて行く。
無人の屋敷。物音一つしない家。ここで生活していた頃は何をするにしても使用人と行動を共にしていただけに、白雨にとって今の状況は実に新鮮なものだった。
まるで夜中に外へ出歩く子供のような高揚感。それに近いものを感じる。
そしてそんな快感に浸る白雨が次に足を止めたのは、広い脱衣場の鏡の前だった。
そのまま身に付けている汚れた衣服に手を伸ばす。
「あぁ、相変わらず素晴らしく美しい体だ」
上半身の服を脱いだ白雨は、自らの胸に触れて呟いた。なんとも言えない心地よい感触を両手から脳ミソに伝わってくる。
「……ぁ……はぁ」
吐息を漏らす白雨は、知らず知らずに頬を染めて息を荒くしていた。
続けて手を胸から腹部へ滑らせる。そしてそのままスカートも下着も全てを脱ぎ捨てて、洗面所の大きな鏡の前で全身を下から上へゆっくりと一瞥する。
不意に恍惚とした表現を浮かべる自分と視線が合う。それはそれは実に美しいの一言に尽きた。
太ももを辿る血液は既に凝固していたが、それも含めて芸術性を感じる。
そして他人の体を第一者視点で眺める事が、これほどに興奮する事だとは思いもしなかった。
「これは正気を保つのが困難だな。女の体とはこうも思考が鈍ってしまうものなのか……。続きは後でゆっくりと楽しむとして――」
白雨はそこで浴場に進みながら続けて呟いた。
「――先に非禁禁忌教の有無の確認を済ませておくか」
「はぁ……参ったなぁ」
ハイドラ領を抜けて、これと言った名称も無い森の中。
そこで数日過ごした時雨は、一つ木の幹に腰掛けて空を見上げる。
天気は曇り。雨は降っていないが、いつ降りだしてもおかしくない。当然、星なんて物は見えるはずもなく、辺りを薄暗く照らすのは月雲からのぼんやりとした明かりだけだった。
「ハイドラ領は兄貴が住民を操って警備を固めてるから入れないし、お金も無い僕は住む場所もいく当てもない。それに僕って……はぁ……孤独だなぁ」
そう呟いて時雨は俯く。
これほどまでに自分に人との繋がりが無かった事に落胆の思いだった。
家族を取り留めて執着していたのも、きっとそれ以外に繋がりが無かったからだろう。
時雨はそこで立ち上がると、とぼとぼと歩みだす。
「琥珀ちゃんを取り返さないと……。今の僕には彼女しか……。エルちゃんなら何か分かるかな……」
そう言って数歩進んだ所で、転んでしまう。
そうしてそこでしばらく倒れ続ける時雨。
どういう訳か、時雨は立ち上がらなかった。
「………」
いや、立ち上がれなかった。そう表現する方が適切か。
ここで夜を何度も明かした時雨は、ろくに食事も取れて居なかった。
なにもしなくてもただ、ただ積もっていく悪い思いに折り合いをつけて整理して、心を無理矢理にでも落ち着かせようとしていた……そんな時雨が少し冷静になれたと理解して動き出せたのは、単に思考回路が働かなくなるほどに衰弱していたに過ぎなかった。
本能が悟る。
「死ぬ……のかな」
死に逝く時に最後まで機能している五感は確か耳だったかな。そうんな事を考え、時雨は静かに瞼を閉じる。
なるほど。と、先程から霞んでいた視界とは異なり、音はしっかりと届いたままだった。
木々の葉がざわめく音はしっかりと聞こえる。そしてぽろぽろ、と新たな音が続いた。
冷たい。雨か。そう理解するの時間は掛からなかった。
そしてそこに、さらなる音が届く。
「なんだ旦那。死にかけなの?」
それはどこかで聞いた事のある男性の声だった。しかしそれに返事をしようにも声が出ない。
次に男性が腕を掴んで無理矢理、起こそうとする感覚があった。どこかに連れて行こうとしているのか。
しかしその感覚を最後に、時雨はその微かな意識を絶ってしまった。