十二話『ハイドラ家の面汚しに会いに来たんだよ』
「と言ってもこんな広い屋敷の中で、特徴も知らない侵入者をどうやって探せと言うのですか……!」
少女は出鱈目に廊下を走る。
どれくらい走っただろうか。
掛け時計に視線を向けると、既に少年のおやつの時間だった。
あぁ、めんどくさい。
「一度厨房におやつを取りに行って……」
立ち止まる少女は復唱するように呟く。が、そこで口ごもるように黙ってしまった。
そして何かを閃いたのか、それを体現せずにはいられない少女はその場で小さく跳ねる。
「そうよ! 主の護衛さえしてれば良いじゃない!」
「ふふっ」
そんな様子の少女を誰かが見てたのか、不意に吹き出すかのような笑みが廊下に響いた。
少女が思わず視線を声のする方へ移すと、そこにはメイド服を来た小さな女の子が角から曲がってきたところだった。
「誰ですか?」
不意にそう問いかける少女に、女の子は不思議そうな表情を浮かべた。
同じメイド服を着た者に誰ですか? は無いと思う。どう考えても仕事仲間に掛ける言葉では無かった。自分でもそう思う。
女の子もそこで察したのか、まるで揺さぶりを掛けるように甘声で尋ねた。
「嫌だなぁ。誰ですか? ……って覚えてくれて無いんですかぁ?」
女の子はそこで窓の外へ視線を移す。
しかし芝居など、もういらないだろう。だったらする事は一つ。
「覚えてるも何もあなたとは初対面です。侵入者……ですよね?」
先手必勝。少女がそう言ったのは、女の子が余所見をした隙を付いて急接近し、胸ぐらを掴んだ後だった。
「強いな。お前」
もう向こうもとぼける気は無いのだろう。睨むように少女を見上げる女の子は先程までの可愛らしい声ではなく、その年齢からはとても想像出来ないドスの聞いた声でそう言った。
少女もそれには思わず驚愕する。
「か、可愛くない声……!」
漏らすように少女がそう呟くと、女の子は勢い良く跳び跳ねながら言った。
「そりゃそうだ! だって僕は男なんだから!!」
そのまま少女の頭部へ回し蹴りをする。
その不意を突くような攻撃に、少女は咄嗟に頭を守るように腕を足と頭部の間に差し込み、蹴りの衝撃を和らげた。
しかしそれだけでは防ぎ切れず、少女は振り抜かれる蹴りによって、廊下を盛大に転がっていく。
女の子の様な可愛らしい容姿をするこの子が男だった事にも驚きが隠せないが、そんな小柄な男の子が放ったとは思えない蹴りの威力にも驚かせられた。
「あなたは何者なんですか?」
立ち上がり、汚れた衣服を払いながら問う少女。
男の子は、少女との距離を歩いて詰めながら答えた。
「時雨。僕の名前は時雨。君の力……良いなぁ」
時雨と名乗った男の子はそこで俯き、腕を組む。
そして小さな声で唸りながら考えた後、にやりと笑みを浮かべる顔を上げた。
「ちょっと分けて貰っても……良いよね?」
少女に寒気が走る。心地の悪い鳥肌が立ち、不意に流れる汗が妙に温かく感じた。
時雨の不快な笑みからは狂気を感じる。
少女がそれに戸惑っていると、先程自分がしたように、時雨は少女の目前に急接近していた。
「ちょっと痛いよ」
時雨の小さな拳が少女の腹部を強く圧迫する。
その威力に負けて少女はそのまま叩き付けられるように、床を滑っていった。
「本気だしてよ。ねぇ」
唾を吐き、咳き込む少女に時雨は笑って言う。
その表情は子供が見せる無邪気なそれとしか言いようが無く、汚れの一切混じってない純粋な狂気に、ふらふらと立ち上がる少女は心を痛めた。
きっとそこに罪悪感なんてものは無いだろう。興味本意で虫を潰すのと何ら変わらない。そんな軽い感覚、気持ちなんだろうなと少女は思う。
「もう一回行くよ!」
時雨がまた距離を詰めようと駆け出す。
それに対して少女は迫る時雨より先に距離を詰め、時雨の桃色の頭髪を掴むと、そのまま床に叩き付けた。
その衝撃で床に蜘蛛の巣のようにヒビが走り、重い音が屋敷に響く。
「無邪気であってそこに悪気が無かったとしても、あなたは侵入者です」
ぐったりとする時雨に少女は言った。
少しやり過ぎたかと時雨を見下ろしていると、不意に横腹に鋭い痛みが走り、思わず手で押さえる。
そして手の平を確認すると、真っ赤な液体がべっとりと付着していた。
「嘘……」
呟く少女の指から一滴の雫が落ちる。
それが時雨の頭部に触れるや否や、うつ伏せの時雨が嬉々として言った。
「最高だよ! おねぇちゃん!」
何事も無かったかのように立ち上がる時雨。
少女は激しい痛みに耐えながらも時雨を睨んで後退りする。
あぁ、引き受けるんじゃなかった。と少女が後悔するも遅く、次の瞬間には、飛び掛かる時雨の持つナイフで肩を切られていた。
「そのナイフ……どこで?」
新たな痛みに襲われながらも、少女は時雨の持つ凶器を見逃さなかった。この屋敷で扱われているそのナイフが切っ先を赤く染め、糸を引いていた事を。
そのまま背後に回り込む時雨を少女は振り向いて目で追いかける。
すると時雨はくるっと方向転換して少女に飛びかかった。
傷が傷んで対応出来ない。
「頂きまーす!」
何をされるのか、少女が身構える事も出来ずに居ると、そのまま時雨に抱き付かれた。
血液と凶器と床のひび割れさえこの場に無ければ、弟に飛び付かれる姉、と言ったような微笑ましい光景だっただろう。
そしてその掴めない意図に少女は怪訝そうな表情を浮かべる。
「ちょっとチクッとしまーす」
胸に顔を埋める時雨はそのまま血を流す肩に顎を乗せる。
そしてそのまま傷口にかぶりついた。
痛みの中に、歯が当たる感覚を確かに覚える。だが、それ以上の痛みは襲ってこない。
少女が戸惑い、時雨を引き離そうと時雨の腰に両手を回すが、切られた横腹が痛み、時雨を抱いたまま膝をついてしまう。
「っつ……何を……しているのですか……?」
少女は横腹を押さえ、出血を抑える事しか出来なかった。
すると時雨は少女から離れ、そのまま二三歩下がって、口の回りを真っ赤に染めた顔を少女に見せた。
「おねぇちゃんの血、美味しかったよ!」
さすがに少女も息を切らし始める。
「血……?」
時雨が何を言っているのか良く分からなかった。
そこまで思考が鈍っているのかと少女は思うが、良く良く考えれば自分がこんな状態になっているのも、全て時雨のせい。
そう思えば目前のこのガキにいたぶられて終わりと言うのは、ただただ気に食わなかった。
「血を飲んでいたのですね。その年にしては随分と気持ち悪い性癖です」
「けどこれで君は……」
時雨はそこで一度口を閉じると、少女の顎を撫でながら続けた。
「そんな気持ち悪い僕の操り人形なんだよ?」
何を馬鹿な事を……。と見た目と不釣り合いなキザな行動に出る時雨を心の中で侮辱する少女。
そのまま背を向けて去ろうとする時雨に攻撃を仕掛けようと拳を握るが、思うように力が入らない。
しかし自分の意思に反して体は動いていた。
少女に衝撃が走る。
まるで時雨の従順な僕になったかのように、自分の体は時雨の後を追い掛けていた。
「不思議でしょ?」
時雨が顔も向けず、背後の少女に尋ねる。
こんな態度の時雨を殴り飛ばしてやりたい所だったが、体の自由は完全に奪われていた。
唯一出来る事と言えば、言葉を発する事のみ。
「これがあなたの魔法ですか?」
平然な顔でそう聞くが、尋常でないほどに体は痛かった。
そこで表情すらも自由に出来ない事を知る少女。
自分の横腹を見れば絶えず鮮血が流れている。
せめて痛みや苦痛までも奪ってくれればどんなに楽だった事か。と少女は今も身体中を走る痛みに耐えながら思う。
そしてそんな少女の心境などいざ知らず、時雨は楽しそうに答えた。
「うん、血をもって契約を交わす。これが僕に与えられた魔法……」
時雨はそこで何かを思い出したかの仕草をして続けた。
「あ、そうそう。今日はお兄ちゃんに会いに来たんだ」
「お兄ちゃん……?」
「そう。ハイドラ家の面汚しに会いに来たんだんだよ」
さくさく進みます。
展開展開展開。