百九話『お腹減ったー』
祖母を送り出して暫く。その祖母が帰ってくる気配は一向に無かった。
「……」
琥珀と時雨が無言のまま椅子に腰掛けている。その様子はリラックスしていると言うよりは、緊張によって硬直していると言った方が適切だった。
思えばここが祖母の家とは言え、見知らぬ土地である事には違いなく、そんな心落ち着かない場所で目上の人間と居るのだから緊張してしまっても仕方がないと言うもの。また自分の故郷なのだから、自分が導かなければならない。と言った思いが、琥珀をより苦しめていた。
時雨は時雨で、目が覚めたかと思えば見知らぬ土地で看病されていたのだ。状況が上手く理解できず、どう振る舞うべきかもまだ判断がついていないのだろう。
そんな沈黙の均衡をどう打ち破るか、琥珀が脳裏で考えを張り巡らせていると、思わぬ所から救済の手が差し伸べられた。
「お腹減ったー……」
時雨と並んで座る琥珀の向かいでだらしなくテーブルに突っ伏してそう呟いたのは、禁足地の魔女である雨芽エルだった。
こうなってしまっては魔女の威厳なんて物は無かった。そもそもエルは魔女と呼ばれる事に対して良くは思っていない様子だったが、今のエルを見ればそれも実に納得がいく。今のエルはお腹を空かせたただの少女。しかし、そんなエルが今の琥珀にとっては救いの魔女である事には変わりが無かった。
「お腹、空きましたね!」
琥珀はすぐさまエルの発言に乗っかる。エルがマイペースな性格で良かったと感謝の念を抱く。
そしてそこに、エルは食い付いた。
「だよねっ! この村、食べ物屋さんとか無いかな?」
「え? あ……どうだろう。あるのでしょうか……?」
発想の方向性の違いに、琥珀は思わず困惑する。
こんな小さな集落に食べ物屋さんがあるとは思えない。と言うよりは、その食べ物屋さんとやらが、八百屋等を差して言っているのであればその可能性も無くは無いが、ファミレスやレストランのような物を差して言っているのであれば、まず期待はできないだろう。
はたしてどちらか。琥珀がその事を追及する前に、エルは言った。「ボクちょっとお外みてくるねっ!」
そう言ってエルは颯爽とこの場を去って行く。
「え、あ、ちょっとエルさん!?」
と琥珀が腕を伸ばすが、その言葉はエルには届かなかった。
そうして残される琥珀と時雨。状況はより悪化したと言わざるを得ない。
別にこの空間が不愉快だとは言わない。が、それでも不思議な程に気まずい空気が流れているように感じる。
そしてその時だった。
「ふっ……」
どこからか漏れ出すような笑い声がする。驚く琥珀がその声がした方向へ視線を向けるとそこには、口を手で押さえて笑みを堪える時雨がいた。
「弟……様?」
怪訝そうに琥珀は尋ねる。すると時雨は笑顔のまま頬杖を付いて答えた。
「ごめんごめん。二人のやり取りを見てると思わず笑っちゃった。ほんとは黙って琥珀ちゃんを困らせてやろうと思ってたのになー」
「え?! ……わざと黙ってたんですか……ひどいのです」
「だからごめーんってー」
「あーもー」
そこで二人はまた面映ゆそうに見つめ合うと、微笑みあった。
「さて、じゃあお手洗いでも借りようかな」
時雨は机に手を付いて立ち上がる。
「あ、でしたらその角を曲がった所にありましたよ」
琥珀は部屋から半身を出して、フローリングの廊下の先を指差し言った。
「はーい」
時雨は上機嫌に答えながら琥珀の隣を過ぎて行く。
そして言われた角を、曲がった所で壁に背を付けて呟いた。
「あーもう。なんで僕まで緊張するかなー……」