第一話 ログイン
最初に感じるのは電子体の構築だ。電脳世界の法則にしたがって意識が脳から直前までの姿の情報を読み取り、それが電脳世界の法則に合わせてブートされる。肉体の存在しない意識だけの状態から、電脳世界で活動するためにふさわしい、電子体としての肉体が用意される。現実の肉体と一切違いのない肉体が形成される頃には、電子の海へのダイブは完了しており、落下の浮遊感は完全に喪失、足元には鋼で出来たプレートと、そして幾つかの扉が虚空に浮かび上がっている空間に到着する。
―――ローカルエリアだ。
かつてはパソコンからアクセスするものだったが、電子体である今はこうやって、各所へとつながる場所を視認し、自分の足で到達することができるようになっている。今、自分がいるのはアパートのローカルエリア内のパーソナルスペース、つまりは個人で保有している空間だ。インストールしたプログラムや保有している電脳座標を通して様々な場所へと瞬時にアクセスできるのだが、今はNew Edenへとログインするために、近くの木製の扉のノブに触れ、アクセスキーを使用する。
音もなく扉のロックが外れ、New Edenへと繋がる扉が解放される。それを開けて向こう側へと抜けた瞬間、全身が一瞬の浮遊感を得ながら風景がすべて風に流されてゆくようにバラバラに砕け、そして風に乗って流れてくる様に新たに風景が流れて構築される。鋼の床、デジタルな風景は一瞬で青空と草原の大地へと変貌した。New EdenというVRMMOを遊ぶためのネットワーク構造体へと到着したのだ。
更に前へと踏み出せば背後でいつも通り扉が虚空に溶けるように消える。その代わりに正面にホロウィンドウが表示される。所持しているアクセスキーを通してアカウントの認証を行うと、即座に新たなウィンドウが表示される。そこには自分のアカウントに登録されているキャラクター―――つまりはNew EdenというVRMMOにおける自分のアバターが表示されていた。現実の自分と違って、そのアバターはもっと威圧感がある顔をしている。
鼻の上を横切るように横一線の傷跡、鋭い目つきの蒼穹色の瞳、両側で一房だけ残して首の裏で尻尾の様に伸ばし纏められている灰から毛先が黒になるグラデーションロングヘア。服装も同様、現実ではまず見えない黒に赤の装飾の入った軍服姿、ただしコートには袖を通さず、体に張り付くインナースーツを下に、コートはマントの様に肩から羽織り、最後には軍帽を被っている。その鋭い目つきと恰好から連想されるイメージはまさに”悪の幹部”か、或いは”凶悪な軍人”というものだろう―――実際、間違ってはいない。
このキャラクターはそういうロールプレイをする為に作成されたキャラクターなのだから。
そもそもNew Edenは利用規約でサブキャラクターや複数のアカウントの所持が禁止されているから、これのみが自分の保有するアバターとなる。”ハイドラ・アリゥ”と書かれ、姿が表示されてホロウィンドウにタッチすれば、展開されていたホロウィンドウがすべて消失し、その代わりにログインカウントのホロウィンドウが出現する。紫フレームに白い背景のホロウィンドウの中に10から始まるログインカウントが開始し、
0になるのと同時に再び、世界が溶ける。草原が消え、蒼穹が消えて行く。前へと向かって歩いてゆけば自分の姿が、そして景色が変わって行く。普通の日本人の男の姿が、東洋人だとは分かるが独特な格好をした軍人風の男の姿へ、そして草原は木の床へと変わり、蒼穹の空は茶色の天井へ、無限に続く地平線は白く塗られた壁へと変わって行く。
そんな急速に変化してゆく風景と、そして己の肉体を理解し、足を止めれば、世界の変化と自身の変化が完全に完了する。視線を正面へと向ければ、自分が住んでいるアパートの部屋よりも広いベッドルーム、そのベッドの横に立っていた。視線を足もとへと向ければ、コンバットブーツに包まれている足が柔らかそうなカーペットを踏んでいた。そこから数歩前へ、足の調子を確かめるように木の床へと踏み出し、両手の調子を確かめるように拳を作り、それを開く。
最後に右手でかぶっている軍帽を取り、左手でさっと前髪を後ろへと流したら素早く軍帽を被り直し良し、と呟く。体に違和感はなく、しっかりと手先まで認識できる。
―――当たり前と言ってしまえば当たり前なのだが。
何せ、”現在の法律だと性別違いのアバター、そしてリアルから大きく逸脱するアバターの作成は禁止されている”からだ。
だからこのキャラクター、ハイドラ・アリゥは此方の方が鍛えられた肉体を持っている事以外はリアルの自分と同じ身長や体格をしているし、顔だってそう大きく変わっているわけではない。リアルを知っている人間がいるとすれば、親戚か兄弟ぐらいは納得できる、そういうレベルの変化になっている。まぁ、それでもクリエイトには見えているところも、見えていないところもかなり気合を入れている。当たり前だがVRMMOはゲームだ、楽しむことが大前提だ。
「さて、行くか」
リアルで喋る時よりも少し強く、キャラクターを作るように呟く。
―――ロールプレイ、即ち自分ではない誰かを役割を演じ、遊ぶ。
それがこのゲームジャンルの醍醐味なのだから。
◆
廊下に出る。ホロウィンドウを軽く表示させて確認する此方の時間はまだ早朝近い時間になっている。当たり前の話だが、電脳世界と現実世界での時間の流れは違う。ある程度揃える事もできるのだが―――逆に思いっきり外し、ワールドクロックを加速させる事で現実との間に三倍差の時間の流れを生み出すこともできる。ここ、New Edenもその手段をとっているゲームの一つだ。New Edenでの三日が現実の一日になるようにワールドクロックは調整されている。その為、昼間や夜中にログインしても、こっちの世界だと普通に朝だったりする場合がある。ゆえに、窓の外を見て、まだ早い朝の時間となっていることに違和感はなく、扉の向こうからは眠っている人の気配等も感じる。
別に、足音程度では起きることはないと分かりつつも、少しだけ足音を殺すように柔らかく足を前へと運んでゆけば、廊下の突当りに階段を見る。そのままそれを三階下へと向かって降りて行けば、宿屋の一階部分へと降りる事ができる。左側へと向かえばそのまま食堂として機能している酒場へと迎えるのだが、そんな気分でもなかった。ズボンのポケットの中から鍵を取り出し、右側へ、宿の入り口がある方へと足を向け、視線をそらすこともなく、手の中に握っていた鍵をカウンターの方へと投げる。
「またのご利用をお待ちしていまぁーす」
カウンターの裏にいたアルバイトらしき青年が若干やる気に欠けた声で鍵を受け取り、そのまま宿の外へと出る。
宿の外へと出れば既に活動を始めている王都の活気が目に入る。時刻は六時を過ぎたあたりだが、兵士からすれば既に早朝鍛錬の時間に入りつつある。客商売も朝帰りの冒険者向けに軽い朝食を準備し始めており、通りからは肉の焼ける匂いや香ばしいパンの匂いが漂ってくる。ちらほらと見える通りを歩く姿から視線を外し、空へと視線を向ければ、どこまでも綺麗に澄み渡る空が見える。どうやら今日は良い天気に恵まれているらしい。そう思いながら、空を注視すると、保有しているスキルが発動し、空にある風の流れと、そして”エーテル”の流れが見える。
少しだけ青く揺らいでいるエーテルの流れを見れば、午後から少しだけ、雨が降るかもしれない。そんな事を考えながら通りを歩き始める。最初は通りで売っているものを無視し、身内にタカろうかと思ったが―――歩いている間に、食欲が刺激され、適当に買い食いすることを決意する。現実はともあく、此方ではお腹が空いているし、金は腐るほど存在する。悩むのはキャラではない。直観に任せて適当な店へと視線を向ける。どこかの食堂なのだろうが、中に入らなくても購入できるように売店が外に設置されているところを見つける。朝食はここで買おう、そう決めて近づき、
「なんか適当に幾つか頼む」
売店、カウンターの向こう側へとそう声を放ってもすぐに返答は帰ってこない。だから数秒程カウンターに寄り掛かるように待っていると、奥の方から声が響いてくる。
「はーい! 今伺いますー!」
「来なくていいから適当に歩きながらつまめるもの!」
「はいはーい! 今お持ちしますねー!」
溜息を吐きながら忙しいのかねぇ、なんて事を小さく呟きながら左手のスワイプの動きでホロウィンドウを表示させ、インベントリへとアクセスする。そこからこの世界の通貨であるG硬貨を幾つか取り出し、手のひらの中で転がすように軽く硬貨の音を響かせる。チリンチリン、と音を鳴らす硬貨から視線を外し、通りの方へと視線を向ける。
こうやって朝食を取ろうとしている間にも、世界は動いている。
二本足で立ち、黄色の鱗で覆われた小型の竜、地走竜が引く竜車が通りを進んで行く。竜車の荷台から聞こえてくるのは金属の擦れる音、おそらくは武器か、或いはその類を運んでいるのだろう、どこかの商会で売るか、或いは……なんて、通り過ぎる人々を見て、その活動をぼーっと眺める。プレイし始めて九年間、もはや見慣れた光景だ。特に感慨があるわけでもないが―――そう、あるとしたら達成感だ。昔は小さかったこの街も、九年の間に良く発展したなぁ、という。
「はい、お待ちどう! ごたごたしていて悪かったな!」
「んや、問題はない」
支払いを済ませつつ紙袋に包まれた料理を受け取る。売店から離れながら紙袋の中を確かめてみれば、その中に入っていたのは焼きサンドタイプのサンドイッチだった。軽く開けて中を確かめてみればポテト、エッグ、ソーセージにマヨネーズ、後は見てわかるのはレタスだろうか? それを挟んだ上でプレスして焼いた物だった。そりゃあ作り立ての状態じゃないとパンが固くなってまずくなるから忙しいよな、なんてことを考えつつ朝食に被りつく。
普通に美味しい。仮想世界で豪勢な食事に慣れてしまった結果、リアルでは食が細くなってしまった人が存在する。それを考えると美味しすぎるのも問題かもしれない。
「ま、今は関係ないな」
贅沢は余計な欲を生むというのは重々承知している。だからある程度の節制、或いは抑制は求められている。そんなことさえできない奴はそもそもネットに触れるな、という話だ。
「ん……うめぇ」
口の中でとろり、と溶けだした卵の黄身がポテトやソーセージと混ざり、味覚を刺激してくる。今日はアタリだったな、と味に満足しながら目的地へと向けて、迷うこともなくまっすぐ歩き進んで行く。ただ自分の恰好は、普通の街並みに合わないどころか、基本的に中世末期クラスの景観を持っているこの世界観から大きく外れている事もあり、歩いていると此方へと向けられる視線はそれなりに多い。とはいえ、そこに煩わしさは感じないし、悪い意味も感じない。時折、視線に交じって挨拶をしてくる者もいるが、それに対して軽く片手をあげて返答しつつ、まっすぐ歩きなれた王都の街並みを歩いて行く。
その目的地は王都西側に存在する商業区だ。
此方は宿があった方の区画とは違い、朝早くから活動を開始しているため、竜車を引く竜の足音や、車輪が整備された道路の上を走る音が聞こえ、ほかにも鉄を打つ鍛冶の音や、錬金術に失敗した爆発音も聞こえてくる。おそらく、この王都という街の中でも最も平穏という言葉からほど遠い場所、それがこの商業区になってくるだろう。そんな商業区を進んで行けば、それぞれの商会が保有する商館を見つける事ができる。そのうち、その権威を見せるように大きく土地を保有している商館へと正面のゲートを抜けて敷地内に入る。
「あっ―――」
敷地内へと入れば、商館の入り口付近を箒で掃き掃除している数人のスリーブと本体が分離しているタイプのロングエプロンドレス―――つまりはメイド服姿の女性達が見える。性別の偽装が極限まで難しいこの世界で、女性のプレイヤーというのはリアルも女性であるという事もあり、男性との割合を比べると大きくその数は減る。そこから今、掃除をしているメイド達の様に可愛い、綺麗、或いはかっこいいと表現出来る様な整った容姿の持ち主達はさらに希少になってくる。その為、今こうやって掃除している彼女達は全員がプレイヤーな訳ではない。
「―――おはようございます副長!」
「おう、おはよう。そのままでいいから。それよりも総帥見てない?」
片手を上げながら言葉を続けると、掃き掃除に戻りながらメイドの一人が答える。
「あ、総帥でしたら少し前に納品予定だったバイクパクってどこかへと行きましたよ。なんか街中で爆発音が聞こえたのでたぶんまた事故ったんだろうなぁ、って」
「会計さんが泣くなぁ……まぁ、待ってりゃあ勝手に戻ってくるか。ありがとよ」
「いえいえ、それでは良い一日を」
メイド達から視線を外し、食べ終わった焼きサンドの包み紙を軽く握りつぶしてインベントリの中へと押し込みつつ、商館の正面玄関から館内へと侵入する。襲撃された場合、すぐに壊し、そして建築し直すのが楽になるように木造の商館は広く、ロビーに入ったところで一般用、そして一部のコネを持っている人用に、と別れてカウンターが並んでいる。その向こう側では全身黒タイツ、所謂”典型的な悪の組織の下っ端”とも言える姿で業務をこなす男社員と、そしてメイド姿で業務をこなす女社員の姿がある。
そう、社員。狂っているように見えるが、これが下っ端社員達の正装となっている。少なくとも商会として活動する以上、そこに組み込まれたルールとして存在している。
なお全てはこの商会―――ギルドを設立した馬鹿の考えである。
「ネーデ商会へようこ―――って副長じゃないっすか」
「副長おはようございまーす!」
全身黒タイツ、つまりは男性社員がカウンターの向こう側から声をかけてくる。片手で軽く軍帽の鍔を抑え、少しだけ深めに被りながら応える。
「うい、おはようお前ら。総帥を誰か見なかったか」
「さっきバイクで事故死して今デスペナ食らってるらしいっすわー」
「何やってんだか……総帥が戻ってくるまで奥にいるぞ」
「了解ですー」
総帥の馬鹿は今に始まったことではない。だから呆れの溜息を吐きながら、九年という長期間をプレイしながらも未だに引退せずに遊んでいるのは、あの男が飽きさせずに楽しませてくれるから、という面も大きいのかもしれない。そんな事を考えながらカウンターの横にあるスタッフ専用扉から反対側へと抜け、そのまま社員用に用意された休憩室の方へと向かう。適当に掲示板でも読んでいれば時間も潰せるだろう。そんな事を考えながら商館の二階へとつながる階段を上がり、その先にある扉を開けようとして、
扉の向こう側から感じる強い酒の匂い足を止める。
嫌な予感を感じつつも、こんなことをする奴は限られているよな、という諦めを感じ、扉をそのまま勢いよく開け放つ。それとともに一気に溢れ出してくる酒の匂いに鼻を撮みながら、
大量の酒瓶が転がる、無残な休憩室の姿を見た。
―――その中央ではメイドと老人が一人、完全に出来上がった様子で顔面から床に倒れて寝ていた。
九年間というロングランな環境のおかげで、基本的にプレイヤーはカンストしてたり、土地に基盤を持っていたり、と結構安定している環境になっているような感じです。本作の序章は読者さん達にまずはゆっくり、少しずつ世界観や法則を学んで覚えてもらう章になっています。
まだ最初の数話は気になるワードが出たり、どういう背景か等気になるかもしれませんが、そういうのは徐々に説明されて行くので、ゆっくり付き合ってくれると楽しめるかと。




