アマリの信仰
ヒムカが舟を出した後、アマリはしばらくその後ろ姿を追っていた。舟が遠のき波間に紛れてしまうまでずっと。
そうして見えなくなると、何度か振り返りながら村へ引き返した。そのころになると家々の前や庭には、洗濯物がたなびき、あちこちで人の生活する気配がした。村の一日はすっかり動き出していた。
「アマリ、あんた朝っぱらからどこ行ってたんだい?」
家の近くで声をかけてきたのは向かい筋のおばさんだった。
「ヒムカの見送りに行ってたの。みんな薄情ね、初めて一人で運び番をするのに、誰も来てなかった」
「そりゃ、荷物持ってった時に声はかけたさ。がんばんなよって」
「それだけ?だって…」
「大丈夫だよ、あの子はずっとカムリについて舟に乗ってたんだから。それにね、あんまり大勢で送り出すと逆によくないだろ」
「どうして?」
「舞い上がっちまう」
そう言うとおばさんはニッと笑った。日焼けした顔に白い歯がよく似合う。
「私も一緒に行きたかった」
「そりゃ駄目だ、竜神様怒っちまう。よく聞かされてるだろ?」
そうだけど……、と言葉が継げないでいると、おばさんはにっこり笑って「大丈夫よ」とアマリの肩を叩いた。
海の真ん中にある塔。その底には祠があって、大昔に海を荒らした竜神を鎮めているという。その竜神の見張りをしているのが「守り人」であり、今はその役目をセロが担っていた。女を塔に連れていけないのは、竜神が守り人に近づく女に嫉妬するからだという。言い伝えでは嫉妬に狂った竜神は津波を引き起こしたそうだ。津波が襲えば島はひとたまりもない。それでなくとも、海が荒れて漁に出られなければ生活していけないだろう。だから塔に、はっきり言えば守り人に、女を近づけてはならないということらしい。
なぜ月に二度、荷物を集めて舟を出すのか。初めてその理由を聞いたのは十歳になったときだった。それまでは海の上に住んでいる人のために食べ物を持って行ってあげているんだと思っていた。実質供物として集めた荷物は守り人の食料となるので間違いではない。しかし、まさか自分たちがそんな神を祀っているとは思ってもいなかったし、急に竜神だのなんだのと言われても、見たこともない存在を恐れることへの違和感を生むだけだった。
最近になってこの違和感は確信へと変わり、もはや竜神なんてものの存在は信じられない。だから余計に、異様だと感じるのだ。
本当に存在するのかどうかも分からない竜神への信仰。その信仰のために集められる、限りのある食料。村は決して貧しいわけではないが、裕福でもない。食料が豊富な季節はまだいいが、冬など作物の育ちにくい季節では厳しい時もある。どうしても無理に供物を出せという風習ではないが、当番の月にはほとんどの人が何かしら食べ物や荷物を用意する。中には竜神のためなどではなく「守り人の暇つぶしにでもなれば」と言って書物を用意する人までいた。
あの時の言葉にわずかな後ろめたさを感じ取ったのは、気のせいではない。みんな、後ろめたいのだ。
島の生活を守るために人間を差し出して、人々はその後ろめたさに、欠かさず荷物を用意する。守り人は集められた供物によって生かされる。海の上で一人、喜びも悲しみも奪われて、ただただ、その日が過ぎるのを待つ。その繰り返し。守り人を思うと不憫でならなかった。
守り人などと取り繕っても、これはただの生贄だ。
すべては、不確かな竜神様をお祀りするため。
なのに人々が供物を用意するのは、生贄のため。なんて歪なんだろう。
守り人のことをそんなふうに思っていると、他の誰にも言った事はない。もちろんヒムカにも。
ヒムカはよくセロの話をする。セロに会ったことはないが、ヒムカから聞く話でずいぶんセロの事を知った。いつも帽子をかぶっていること。飽きずに同じ本を読んでいること。流れ着いたガラクタ集めが好きなこと。そんな話を聞いていれば、口に出さなくてもヒムカがセロを慕っているのは分かる。また自分も、話を聞いていたせいでセロが身近に感じられ、一層不憫だと思うようになった。
ヒムカはどう思っているのだろう?
セロを島のせいで縛りつけていることに、ヒムカは何も感じないのだろうか。それとも、使命だから仕方のない事と諦めているのだろうか。
ぼんやりしたまま家に戻ると、母親が台所から顔をのぞかせた。
「あんた、ヒムカの見送りに行ってたの?」
頷くと、「心配性ねぇ」と言ってくすくす笑う。テーブルに着くと、用意してあったのかフルーツとミルクを出してきた。
「ねぇ、カムリおじさんの具合はどう?」思いついて聞く。
「そうね…熱は下がったんだけど、視力がまだ戻ってこないのよ。薬が効けばいいのだけれど」
両親は夫婦で医者をしている。自分もいずれは、この島の医者になろうと考えていた。
「おじさんが早く良くなってくれれば、私もこんなにヒムカの心配をしなくてもいいんだけどな」
「まずはおじさんの心配をしてあげなさい」
困った顔で言う母親に「はぁい」と気の抜けた返事をした。今日は何も手に付かないだろうな、とどこか客観的に自分を見ていた。海の上にいるヒムカを思いながら、ミルクにゆっくり口を付けた。