「キミに三つの質問をします」
不意に彼女の薄茶色の髪が、僕の肩にかかる。
気づけばすぐそばに彼女の薄い笑みがあった。どうしたんだ、と尋ねても返事がない。赤らんだ瞳にじぃと覗きこまれ、僕は戸惑う。唇のルージュがとても近かった。
「少し、飲み過ぎたんじゃないか」
そう言ってやると、彼女はそのままの体勢で「先が気になるんだ」と僕を急かした。軽く身をひき、ビールを手にとって傾ける。ジョッキ一つ分の距離がなんとか平静を保ってくれる。
「どこまで話したっけな」
「猫の声が聞こえる、ってところまで」
「ああ、そうだった」
確かに今、猫が鳴いたのだと深泥は主張してやまなかった。
しかし、皆がどれだけ見まわしても、そこには形を崩した墓しかなかった。暗くなってきていたとはいえ、辺りの草は短く刈りこまれていて、あの人懐こい猫がいれば見逃すような場所ではなった。それでも深泥はかたくなに訴えて譲らず、風がまた強くなってきていた。
心霊写真が教室に掲示されたのち、クラスメイトの誰もが幽霊なんているはずないと言った。尋ねた僕が恥ずかしい思いをするくらいに、皆一様に笑って答えた。
なら、猫の鳴き声だって、深泥の幻聴だと言ってすませられたはずなのだ。
でも、あのオンコの下で笑える者など、魔女をのぞき、誰ひとりしていなかった。
「クラスメイトの一人がどこかの部活からスコップを持ちだしてきた。掘って、なにもないのを確認して、墓なんて嘘だったと収めてしまいたかったんだ。そうすれば深泥が言う猫の声も、気のせいだったということになる。スコップを受けとったのはレオだった」
レオが不安な目で僕を見たことを覚えている。
いつしか日は完全に暮れて、遠くの外灯とわずかな月の光のみが僕らを照らしていた。お互いの顔を判別するのも難しくなる時間帯だ。ざく、ざく、と土を掘る音だけが夜に響いていた。
「すると突然、魔女が声をあげた。『あの猫がここを動かなかったのには、理由があった』と」
周囲の女子が一歩後ずさるのが見えた。魔女が発したのは、先ほどまでとは異なり喉を痛めつけたような声で、とても十代の少女のものとは思えなかったからだ。
「『昔の話よ』とクロエは言った。僕らが生まれるよりもずっと前の話、御堂山高校に、ある生徒がいた。彼は人と話すのが苦手で、クラスにも友達がおらず、よくひとりでオンコの樹の下を訪れた。周りには不思議と野良猫が集まったという。彼は人と触れあう機会が少なかった分、その優しさを猫たちに与えていたんだろう」
そんなある日、彼の両親が死ぬ。
残されたのは多額の借金と、すまないとだけ書かれた一通の遺書。
「親戚は誰も助けてくれなかった。学校では奨学金を勧められたが、それ以上に声をかけてくれることはなかった。僕らが捨て猫を拾わないのと同じように、大人たちは面倒にはかかわりたくないと見て見ぬふりをしたんだ。そして、教室には元より彼に話しかける者も……」
この幹には大きな切り口があるでしょう?とクロエは大樹に寄りそった。
最後に彼はここにぶらさがったのよ、と彼女は言う。両親が死んで、三月ほど経った頃だった。見つけたのは朝練にきた女子生徒であったそうだ。そこには無数の野良猫が群がり、風に揺れる骸を見あげていた。辺りには猫たちの鳴き声だけが響いていた。
「よく、動物は私たちには見えないモノを見ている、と聞くけれど」
バーボンを舐めながら隣の彼女が囁く。
「くだんの子猫も、その彼の元にやってきていたと?」
「少なくとも、クロエはそう言っていたよ。彼が首を吊った枝は切られてもうないけれど、それでも彼はまだそこにいる。足を宙に浮かして、まだ留まっている。猫たちは彼の優しさを語り継ぎ、代わる代わるオンコの下に集った」
子猫がそこに居つづけた理由なんて考えもしなかった。これまで餌にありついた日も少なく、家に連れ帰ってくれる者もいなかったのに、彼が去らなかった理由は確かに気になった。
だが、それが。――いや、まさか。
「証拠はあるのか、と深泥が詰め寄った。なければ、ただの子どもだましだとも。すると、クロエは黙って胸元からあるものをとりだした。僕の位置からじゃ、深泥の手に渡されたそれの正体はつかめなかったが、彼女は暗闇でもわかるほど、ぶるぶると震えだしていた」
「……なるほど、そいつは」
「ああ、あの写真だったんだ。クロエは言う。猫たちに慕われる一方で、彼は人間を恨んでいた。誰も手を差し伸べてくれなかったという無念により、今でも成仏せずにいる。その証拠が、生首がぶらさがる写真なのだと」
もしも本当に幽霊なんてものがいるのなら。
あの猫は、彼にとって唯一の話し相手だったのかもしれない。
『それなのに、怖いじゃない』と魔女は囁く。『猫を殺したあなたたちには、どんな未来が待っているのでしょうね?』
その時、つんとなにかが鼻をついた。
「初めは、どこかの家で夕飯の準備でもしているのかと思ったよ。馬鹿な感想だった。すぐに口を覆って吐き気をこらえる羽目になった。間違いなく肉が腐った臭いだった。やがて皆は、それがレオが掘る穴から漂ってきていると気がついた」
見つけたぞ……と、レオがスコップをとめた。
彼を中心にクラスメイトが集まる。オンコの樹の根本、人ひとりが埋められるほど掘られた穴の中から、地獄の釜の底のごとき臭気が立ちのぼってくる。
そこで魔女がぽつりと呟いた。
『いや……』
どうにも様子がおかしい。黒目がちな瞳が大きく見開かれていた。
『おかしい、わたしはこんなに深く掘ってない……』
おそるおそるレオがそれに手を伸ばす。
ずた袋だった。土まみれでとりだされたそれから、一層濃い臭いが放たれた。しゃがみこんでしまう女子までいたくらいだ。深泥も耐えきれずに顔を背けている。そして。
にゃああ、と。
「今度こそ、その場にいた全員が耳にした。苦しみ叫ぶ、猫の鳴き声を――」
いつのまにか隣の彼女は煙草にまた火をつけていて、紫煙のむこうから静かに僕を見ている。それは夜道ででくわした猫が通りすがる者を注意深く窺う姿を彷彿とさせる。
「レオが一瞬だけ袋の中を覗き、即座にそれを地面に放った。手を伸ばしかけた深泥に、彼が『見るな!』と叫んだ。『ここにはなにもなかった。いいか、なにもなかったんだ』すると、もう一度、猫のようなものの呻き声が聞こえた。女子生徒が深泥に抱きついて叫び、他のクラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように逃げだした。レオだけが必死で得体の知れない恐怖を地中に帰そうとしていた」
「……それから、どうなったんだい」
「どうにもならなかったさ。レオはもとのとおりスコップで墓を戻した。僕はそこに枯れ枝を差し直した。姿なき猫の亡霊はもう鳴くこともなく、深泥はもう一人の女子生徒に支えられて、よろよろと去っていった。四月の夜の生暖かい風が、ざわざわと枝葉を鳴らしていた」
不意に彼女が吐息を漏らした。
煙草を灰皿におき、くす、くすくすくす、と胃をひきつらせる。
なぜそこで笑う? 僕が問うと、だって、だってと涙を浮かべてみせた。
「キミに三つの質問をします」
目尻をぬぐい、顔をあげた彼女の赤い唇がとても近い。吐息までかかりそうな距離だ。
やがて額にむけて指がさされる。彼女の死体のように白い指は、あの日のクロエを思い起こさせた。それは僕の鼻筋を撫で、口元に達したところで名残惜しく離れていった。
「一つ、キミやレオが恐れたのは、本当は、消えた猫じゃあないでしょう」
「さて」
楽しい会話だ。僕も微笑む。
「一つ、あなたはもう一度、オンコの下へやってきたでしょう」
「想像に任せるよ」
もう彼女にはバレているのだろう。僕らがその後、どうして魔女の住処を訪ねたのか。
「一つ、あそこに役者は何人いたの?」
「はは」
さて、そろそろ最後の思い出を語ろう。
あれは魔女の夜から一ヶ月も経ってしまった日のことだった――。