「猫の声が聞こえる……」
――以降、あの子猫に構う者はいなくなった。
それもそうだ。彼はいつもオンコの樹の下にいた。あんな事件があれば、とてもじゃないが、頭を撫でに行く気にはなれないだろう。そのうちにクラスでも話題にのぼらなくなった。あの日の騒ぎについては、誰もがなかったことにしたいと望んでいるようであった。
ところが何事にも例外はあるようで、僕はある日の夕方、木陰にしゃがみこむクラスメイトの姿を見かける。
「……委員長?」
うしろ姿でもわかったのは、高校生にもなって珍しい三つ編みが遠目に見えたからだ。それを首元に手をやって垂れないように押さえている少女。そこまで社交的な性格ではなかったはずだが、つい声をかけてしまった。
「委員長。なにしてるの、こんなところで」
「なんにも」
振りむかれもせず、なかなかに厳しい反応だった。いつぞやはジャングルであんなことやこんなことを教えてくれた仲なのに、今日はつれないじゃないか委員長。なぁ、委員長?
「……あんたねぇ。もしかして、卒業までその呼び名で通す気?」
「駄目かな」
「だめ。人にあだ名をつけてまわるのが趣味なら、あんたを〝レオ〟って呼んでやるわよ」
「それは嫌だな」と、僕は悪びれもせず言う。「ところで、スカートが土についちゃってるけど」
「む」
気づいていなかったらしい。深泥は慌てた様子で立ちあがり、うしろ手で裾を払った。すると、その足元から、黒い毛むくじゃらがひょっこり顔を覗かせる。
にゃあ、と彼は人懐こく鳴いた。
「――別に、この子をなでるのに夢中になってたわけじゃないわ」
照れ隠しか、深泥はそんなことを言う。
僕は腰をかがめ、子猫に手を伸ばした。彼は怯える様子もなく頭をこすりつけてくる。
「これは……」
「……それ以上は危険よ」
「洗い立ての毛布のような触り心地、いや、それ以上か……ずっとなでていたくなる……」
「わかるわ、この私でさえ、抗いがたい」
思わずこんな小芝居を打ってしまうほどのものであった。
彼は一通りなでられて満足すると、するりと手の中を抜けだし、深泥の元に戻った。靴紐にじゃれつく姿にも愛らしさを感じる。
「猫もいいもんだな」
「そうでしょ? 私もマンションじゃなければ、とっくに連れて帰ってるのだけど……」
訴えるような視線の意味に気づき、僕は慌てて両手を振った。
「いや悪い。妹がアレルギーなんだよ。動物の毛の」
そう、と彼女はうつむき加減に相槌を打った。
意外な感じがした。まだつきあいが浅いながらも、深泥はこういうことはクールに済ませる畑の人だとばかり思っていた。ところがどうだ。この人は顔に似合わず、おそらく連日猫の相手をしているに違いない。
「顔に似合わなくて悪かったわね。それに毎日はきてないわよ。部活もあるし」
「え、深泥、もう部活入ったの? どこの部活?」
「テニス部だけど」
「て、テニス……テニス部だと? そこに委員長的な仕事はあるのか?!」
「てめぇ、いい加減にしろよ」
もの凄く低い声で怒られてしまったので、僕はいい加減、自重しようと思う。
「そうか、深泥のミニスカート姿か……」
すまない、思っただけだった。
頭をはたかれたのに少し嬉しいのは、なにかに目覚めてしまったのか。あんたって本当に馬鹿ねぇ、とまで言われてしまう。その足下で、黒猫がきょとんとした顔で深泥を見あげている。
「あんたみたいなやつが、他にもいればよかったのに。……まぁ、あんたほど馬鹿だったら困るけど、でも最近は誰もこなくなっちゃって」
この話しぶりだと、僕以外にも声をかけてきたのだろう。でも、結果として彼はまだ学校にいる。普通はそこである程度、線をひくものだ。そういうことをしないと、なんというか、しんどいんじゃなかろうか。意外性を通り越して、この委員長が心配になってくる。
ましてや、あの写真の騒動のあとでは、しばらくここに生徒が集まることはないものと思われた。なんせ、いつのまにかクラスの中どころか、全校で噂になっているのだ。
オンコの樹の下には幽霊がでる、と――。
「深泥はおばけなんて信じないか」
「冗談でしょ。あんないたずら、信じる方がおかしい。……みんな、どうかしてるのよ」
そんなこと言って自分も驚いてたくせに。そう茶化してやると、深泥は不機嫌そうに僕のすねを蹴った。痛い痛いと声をあげてやる。
「ふん。あんなの魔女の思うつぼじゃない」
不意に彼女は顔を背け、小さな声でぼそぼそと言った。
「魔女って……黒田のことか」
「他に誰がいるってのよ。あいつね、中学の頃からこういうことはすごく上手いの。証拠は絶対に残さない。でも、いつだって事件はあいつのそばで起こる」
見えなくても、深泥がどんな表情をしているかがわかってしまう。
「みんなが写真を見て騒いでる間、あいつがひとり笑っていたのを、見たでしょ?」
「いいや」
嘘をついてしまったのは、なぜだろうか。
それから、いくらか言葉を交わして僕らは別れた。去り際、肩越しに見れば、彼女はまた猫を触りだしたようだった。三つ編みが風にさらわれて、まるで重さなどないようにふわりとはためく。僕は思案をめぐらせる。それでも、その後のことについては予想だにしていなかった。
何日かのちの放課後。
僕はレオともう一人のクラスメイトと共に教室でだらだらと机を囲んでいた。レオの強引な勧めで、部活の見学をしてきた帰りだった。いつのまにか、そんな仲になっていた。
「おれが思うに、囲碁将棋部ってやつはあれだな。ルールを知らないやつにはとても厳しい」
「今さら気づいたのか……」
深泥は僕を馬鹿と言うけれど、まさかこれと同列に扱われてるなんてことは……ないよな?
「ああ、そういえば委員長はテニス部に入ったらしいね。高校からはじめるなら、ああいう体を動かすやつの方が楽しいのかも」
「そうかねぇ」
「っていうか、レオは中学でなにかやってなかったの? 見るからに運動できそうだけど」
「あー……まぁ、そうだなぁ」
と、話していたところに当の深泥がやってきた。こんな時間に会うとは彼女も部活帰りなのだろう。ちょうどいい、初心者むけのスポーツでも訊いてみようと、そう思ったのだが――。
「どうした、深泥」
その様子を見て、レオが尋ねた。
彼女は室内をゆっくりと見まわし、短く、静かに唇を震わせた。
「魔女はどこ」
すぐには答えられなかった。黒田の席は近くにあり、そこに姿がないということは、すでに帰ったものと思われた。たったそれだけの話なのに、僕らの舌は動こうとしてくれない。
「どこって……」
「答えて」
傍目からはレオと委員長がいつもどおりの掛けあいをはじめたと見えたかもしれない。だが、そばにいれば温度の違いを感じられたはずだ。僕らは彼女に射すくめられてしまっていた。
その氷のように凍てついた目。
「な、なぁ、おれたちもさっき、帰ってきたところなんだ。今日は御厨と――」
「そう」
僕らが知らないとなると、深泥はそのまま教室の奥へと視線をやった。彼女と同じく入りたての部活から帰ってきたクラスメイトたちが、いくつかのグループをつくって談笑していた。そこへ一歩、足が踏みだされる。まだ誰も事態に気がついていない。
「みんな」
その一声で、ようやく静けさが訪れた。あたかも、私語にうつつを抜かしていた生徒たちが、教師の咳払いで慌てて口をつぐむ場面のようであった。
「私についてきてくれない? 見せたいモノがあるの」
否応なしに僕らは委員長の命に従わざるをえなかった。
彼女を先頭に廊下をぞろぞろと歩く一団は、さながらどこぞの笛吹きだ。皆、不安げに視線を交わすのみで一言も発しようとしない。玄関で外靴に履きかえる時ですら、衣擦れの音しかしなかった。いったいなにがはじまるのか。たどりついたそこは、あの百年大樹の下だった。
「これを見て」
深泥の言葉に、僕らの視線はオンコの根本に注がれた。あの子猫の根城であったはずの場所。
今、そこには一つの墓がある。
土を盛り、枯れ枝を差しただけの簡素な代物だが、それは確かに墓のように見えた。
「誰がやったかわかる……?」
地獄から響く、怨嗟の声だった。
深泥はぐるりと振りむくと、集まったクラスメイトたちを睨みつけた。僕らは恐る恐る互いに目配せをする。もちろん、誰もが知らないと視線で囁く。
「あの猫、どうしたんだよ……」と、ようやく男子の一人が声にした。
「それがわかってたら、みんなを連れてこないわ。さっき、ここにきたらこうなってたの。ねぇ、本当に誰がやったのか知らないっていうの?」
日が暮れはじていた。闇が次第に深みを増していく。赤から黒へと校庭の色を変えていく。風がまだ寒く、背筋を撫でていく風がぞくりと体を震わせる。
「嘘よね。こういうことをする人間が、クラスに一人だけいるって、みんなも知ってるでしょ」
ざわめきが広まる。一斉にその名を挙げだすクラスメイトたち。「……魔女」十数人いる中でその単語が端々に聞こえた。「魔女?」「知らないのか? おれたちのクラスにいる……」「中学の頃は有名だったんだぜ」「わたしも、あの子に言われて……」
どうにもよくない方向にむかいつつあった。いや、半ば予想された展開であったが、しかしこれでは――。暗闇が迫るオンコの樹の下で、高鳴る胸を押さえながら、今なにをすべきかをめまぐるしく考える。
「黒田がやったなんて、証拠もなにもないじゃないか」と僕は言った。
深泥は堪えきれないといった風に口元を隠した。
「証拠? 証拠って言った? 御厨くんってほんと馬鹿ねぇ。私、教えてあげたでしょう。あの魔女はいつだって、証拠を残さずにやってきたのよ。口にするのもおぞましいことをね」
「そういう話は好きじゃないって言ったはずだぜ、深泥」
「私だってあんなやつの話をするのは嫌なの。でも、むこうから仕掛けてくるなら別よ。魔女を避けて歩くのも今日で終わり。あの猫を……かえしてもらわなきゃ」
教室に現れた時ともまた異なる爛々と燃える瞳。まっすぐに見据えられ、かえすべき言葉は喉奥で消えてしまう。後悔を感じていた。彼女がこんな顔をするなんて考えもしなかったのに。
――と、その時だった。
「これはなんの騒ぎかしら」
振りむく前からわかっていた。感情の起伏が少なく、眠たげにも聞こえるその声は。
夜に溶けこんでしまうほど真っ黒な髪。長い影をつくる枯れ木のような手足。ぼんやりと浮かぶ異様に白い肌。赤い唇。この世のことなどまるで興味がないとでも言いたげな暗い瞳。
僕らの教室の魔女。
「奇遇ねえ。ちょうどあなたの話をしていたのよ、黒田さん」
「あら、わたしのことは魔女って呼んでたのではないの、委員長?」
怒気を発する深泥に臆することなく、彼女は僕らギャラリーを割ってやってきた。大樹の下で二人の女が相対する。手を伸ばせば、もう触れてしまう距離にまで。
「委員長、わたしを探してたんでしょう? 教室で聞いたわ」
「それを教えた子には、魔女にかかわるなってあとで言ってきかせないとね。ふん、てっきり帰ってたものと思ってた」
深泥は彼女から視線を外さぬまま、足下を指し示した。
「……この墓をつくったのは、あんたでしょ」
無言は肯定の意味ととれた。黒田はいつものつまらなそうな表情を、目の前の怒れる少女にむけている。
「なんとか言いなさいよ。あのね、まだ写真の時は許せたわ。思えば、たわいのないいたずらだった。でも、あんたの病気にあの子をつきあわせるのは……ねぇ、猫をどうしたのよ。こんなことをしてなにが楽しいのよ!」
「ふふ」と黒田は声を漏らした。そして、影が伸びるように、水に絵の具が広がっていくように、いつのまにか口元に浮かべられていた笑みが少しずつ深まっていく。
「写真ねぇ。先生はいたずらだと言っていたけれど……はは、思いだして? あの日、彼は朝のホームルームで写真を壁に貼った。終わったあとはすぐに皆がそれを見に集まった。わたしは確か最後にやってきたはず。それなのに、どうやって写真にいたずらをするのかしら?」
「それは……っ」
魔女。ああ、どうしてそう呼ばれるのか、ようやく理解できた気がする。
今や黒田は口が裂けるほどの笑みを浮かべていた。あの写真を見つめていた時よりももっと深く、深泥を、クラスメイトたちを、嗤っていた。
「まぁ、でも。その猫に関しては――埋めたのは、わたしよ」
そして静寂が訪れる。
誰もが魔女を前にして、身じろぎ一つできないでいる。とうとう牙を剥いた獣を、僕らはただただ凝視する他ない。蛇に睨まれた蛙でも、もう少し逃げる努力をするだろう。
一陣の風が吹いた。オンコの枝葉がしなり、擦れ、ざわざわと耳障りな音を立てる。寒気はますます強くなっていた。暗闇は深くなるばかり。
深泥が呟いた。
「まさか……あんた」
最後まで言えずとも、その台詞は皆に通じた。
深泥の震える声に、魔女はくふくふと再び含み嗤いを漏らす。
「よしてよ。何日か前にね、気になってここにきたら、死んでいたのよ。可哀想だから埋めてあげたわ。オンコの樹の下に」
「嘘……。嘘よ、あの子は元気だった! この前だって、部活の帰りに――」
「元気だった? それはいつの話? まさか五日も六日も前じゃないでしょうねぇ」
「どういう意味よ……」
「わからないなら試してみればいい。あなたは飲まず食わずで、何日耐えられるのかしら」
深泥の目が大きく見開かれる。息を飲む音さえもはっきりと僕らの耳に届いた。
「ようやく気づいたの? あなたたちは猫をなでるだけでなにもしてこなかった。まさか都合のいい時だけ触らせてくれるお人形さんとでも思ってたのかしら。あんなに痩せ細っていたのだから時間の問題だったのかもしれないけど――でも、あれを殺したのは、あなたたちなのよ」
「そんな……。だって、私は……あの日だって……」
「なるほど。あなただけは餌をやってたの。でも、それは五日前に? それとも六日前に?」
「う、うう、ううううう……!」
その嗚咽は、二人の均衡が崩れた音だった。深泥は涙こそ浮かべていなかったが、今にも膝が折れかねないほど安定を損ねていた。いやしかし、それは僕らも同じだ。魔女と同じ空気を吸っているだけで肺に霜が降りたがごとく、痛い。
「……に決まってる」深泥が呆然の体で漏らす。「あんたの言うことなんて嘘に決まってる」
「現実は受けとめないといけないわ」
「嘘よ!」
その瞬間、転がるように深泥が走った。枯れ枝が差された墓にすがりつく。
がりがり。ざりざり。音が聞こえはじめた。
彼女は掘っていたのだ。一度盛られたものとはいえ、固く踏みしめられた赤土を、素手で。
「あ、あ、あいつの言うことなんて信じないんだから。ここには、なにも、ないんだから」
異様な光景であった。魔女は長い黒髪をなびかせながら、這いつくばる深泥を打って変わって静かに見おろしていた。一方で、地面をかく深泥の手は暗闇の中でもわかるほど真っ黒になってしまっていた。僕らはおぞましいものから目を離せないでいる。
「ここにはない……」
深泥が呟く。
「猫なんていない……」
「もうよせ、深泥!」
初めに呪縛から逃れられたのはレオだった。彼は深泥に駆け寄り、肩を抱き寄せて、無理矢理に行為をやめさせた。それでもなお、彼女の手は宙をかく。
「離して! ここを掘ったってなにもでてこないに決まってる。魔女の嘘を暴いてやるのよ!」
あがく手を押さえようとしてバランスを崩したレオを、もう一人の女子生徒が飛びだして支えた。今日、一緒に部活をまわったあの子だ。深泥とも仲がいいと言っていたのを思いだす。
「椎子ちゃん……」と彼女が泣きそうな瞳で訴える。「やめて。お願い、もうやめてよ」
「うるさい!」
振りまわされた腕が顔にあたり、レオは思わず後ずさってしまう。その隙を深泥は見逃さなかった。転げるように飛びだし、また墓へとむかった。
いや、むかおうとしたのだ。その足がとまっていた。両手は中途半端な位置で静止し、瞳は虚空を見ていた。口元はおかしな具合に歪んでいる。「どうした、深泥……?」「シイちゃん……」背後から二人がおそるおそる尋ねかけた。
「猫が……」
彼女は油を差し忘れたブリキ人形のような動きで、ぎこちなく顔を覆った。やや水気をもった土がその頬にへばりつく。漏れでた声は、夜風と枝葉の動きにかき消されそうになるほど小さく、とても震えていたが、それでも僕らの心臓をつかむには十分であった。
「猫の声が聞こえる……」