「さあ、事件のつづきだ」
「うちの高校には一際古い樹があってさ。確かオンコっていう種類で、北海道には馴染みのやつだった。でっかくてねぇ。百年以上前の開校時に植えられたとか聞いたよ。うちのシンボルだった。夏にはクセのある匂いの実をいっぱい落とすから、ちょっとここでははばかられる、品のない愛称でも呼ばれてたな。そこに一匹の黒猫が棲みついていた」
いつのまにか店内には奏者が増え、金管と木管が音を添えていた。曲目は確か、ムーンライト・セレナーデ。クラシック以外は門外漢だった僕でもわかるくらい、人々に愛されつづけているジャズのナンバーだ。客の視線も自然と彼らにむかう。しかし、僕と赤いルージュの彼女だけは、悪いことを企むようにお互いを覗き見て、くすくすと笑い、再び小声で囁きはじめた。
「ようやく猫の話だね」
金色のジッポーの縁をなぞる彼女を、僕は見るともなしに見ている。
「クラス写真をね、撮ったんだ。ほら、高校に入った時、君も撮らなかったか? 親のために初々しい制服姿を記録に、ってやつだよ。伝統的に入学後の写真はオンコの樹の下で撮ることになっていた。クラスの皆が猫の存在に気がついたのはその時だった」
彼は生まれてすぐに親とはぐれてしまったらしく、一目見てわかるほどに痩せていた。その割に人慣れしていて、根城がバレたあとも誰か見かける度に、ぴんと尾を立ててにゃあにゃあ鳴いた。でも、僕らは彼を撫でたりはするけれど、決してそれ以上のことはしなかった。
「それは、なぜ?」
「もしもの話だけど、今日の帰り道、道端で子猫を見かけたとして、拾って帰るかな」
「……キミ、ちょっと性格悪くないかい」
「ごめんごめん。でも、そういうことだよ。みんな高校生にもなれば、家で生き物を飼う大変さは理解していた。それに……北海道の野良猫はなかなか冬を越せなくてね。誰もがそんな理由から、一線は越えないようにと気をつけていたんだ」
ただ、彼の愛らしさは放っておくには難しいものがあった。
僕は天井を見あげ、あの頃を思いだす。おぼろげに何人かの顔が浮かんだ。たとえば委員長、あのおさげの女の子はしばしばオンコの樹の下で見かけた。日によっては彼女を中心に、小さな輪ができていたと思う。その中にはたまに僕も混じり、あとから聞けばレオのやつも遠巻きに眺めていたらしい。そして、そこに最後にやってきたのが魔女の彼女だった。
「奇妙な距離感だったよ。つかず離れずと言うには、周りに人が多すぎた。クラス写真もね、彼を囲んで撮ったんだ。写真の中では皆、笑顔だったよ。でも――」
「クロエ?」
「そうだ」
彼女だけが違った。なにもかも、僕らとは違っているように見えた。
魔女とはなんぞや? どんなイメージが浮かぶだろう?
でっかい鍋に緑色の液体、中にはヤモリの尻尾にネズミの内蔵、それらをぐるぐるとかき混ぜている姿か。または黒猫を従えて夜を歩く姿か。あるいは? 箒にまたがって空を飛ぶとか?
彼女、黒田絵里子は、必要とあらばそれらすべてをやってみせる女だった。
まぁ、さすがに空は飛べないだろうが……いやいや、僕らには想像もつかない方法でやってのけたかもしれない。少なくともそう思わせるだけのなにかを彼女は持ちあわせていたんだ。
「写真の中のクロエは本当につまらなさそうな顔をしてたよ。それを見る本人とは対照的にね」
「なるほど」と彼女が微笑む。「そのクラス写真になにかあったわけだ」
「ああ。それは猫を見つけてから二週間か、もう少し経ってからのことだった。担任が教室に写真を持ってきた。何枚欲しいか親に聞いてきたよなと言って、彼はそれを壁に貼った。普段は明るい先生だったのに、その日は随分そっけない調子だったのを憶えてる。当時は、嫌なことでもあったのかなってくらいに考えていた。でも、あれは違うな。言うならば――」
「釈然としない?」
「そう」
先ほどから彼女が上手い具合に言葉を足してくれる。
まるで彼女自身もあの教室にいたみたいだ、と妙な錯覚を感じてしまう。
「その時、先生にとってはおかしなことが起きていたんだよ。でも、それがなんであるかは本人にもまだわかっていなかったんだろう」
「キミがそれに気づいたのはいつだったのかな」
「確かその日の夜だったか。裏をとるまでは結局、一ヶ月ほどかかったよ」
「ふぅん。なら、私も今夜のうちに正解にたどりつかないと沽券にかかわるじゃないか」
なんの沽券だ、とつっこめば彼女は「おやおやワトソン君」と煙草に火をつける。ジッポーの金属音。薄い紫煙。JPSの黒い箱。あの日々が遠い世界のように感じられる。
いや、本当にもう遠いのか。あれから何年が経った?
「ねぇ、早くつづきを話して」
「ん。ああ」
口元からジョッキを離して、ビールの泡をぬぐった。
「写真が貼られたあとの休み時間は、壁際に人だかりができた。みんな自分がどう映ってるのか確かめたくて仕方がなかったんだろう。そこに魔女の彼女がやってきたのさ。彼女はいつのまにか写真のすぐそばに立っていて、隣のクラスメイトに何事かを囁いた。そのクラスメイトは写真に顔を寄せると、少し間見つめて、急に床にへたりこんだ」
その女の子は顔を伏せて、震えながら指だけを写真にむけていた。どうしたのと彼女の肩を揺すった友人も、やがてそれを見てしまう。「ひっ」と声にならない悲鳴が響いた。
「病が伝染するかのごとく、教室にざわめきが広がった。男子ですら、うわあ!って叫びだしてね。いったい皆がなにを見ているのか、どうしても気になって僕も近づいたんだ。すると背後から声をかけられた。委員長の深泥だった」
あの気が強そうに見えた深泥ですら口を押さえて「見ない方がいいわよ」と呟いた。その台詞も震えていた。でも、好奇心には抗えなかったのだ。僕は写真の前に立った。すると、初めて話すクラスメイトが僕の顔を見て「これ、見てみろよ……」と、それを教えてくれた。
「さっき話したくだりを憶えてるか。クラス写真は猫を中心に撮ったんだ。あのオンコの下で」
初めはただの集合写真だと思っていた。でも、隣から指を差され、はたと気がついた。写真の中央、ちょうど黒猫の頭上にあたる位置で、百年大樹のうろにあたる暗がりが――。
「確かに人の顔に見えたんだ」
そうすると不思議なものだ。木の幹がつくる陰影までが別なものとして映りはじめた。
「それはロープで首を吊り、苦悶する男の顔だった。一度、捉えてしまえば、もう見紛うことのない生首の心霊写真だった」
その時、クロエを振りかえって確かめたのは、予感めいたものを感じたからだ。
彼女はうっすらと笑みを浮かべていた。普段、誰とも群れず、あまり声を発することなく、まるで植物のように感情を見せない彼女を思えば、それは恍惚の表情とさえ言いかえてもよかったかもしれない。写真の中で静かに佇む少女とは、明らかに様相が異なっていた。
教室に悲鳴が連鎖していく中で、僕は呆然とそんな彼女を見つめていた。
「ところで」
バーカウンターに頬杖をつき、隣の様子を窺ってみる。
彼女の持つ煙草は、今にも落ちそうなほど灰を長くしていた。
「君は幽霊を信じるか?」と僕は囁く。
「……さて、どうだろうね」
熱の近さに気づいたのか、指先に目をやり、慌てて灰を落とす彼女。その仕草のおかげで、ビールが少し美味くなる。
「いないよりは、いた方が面白いと思うよ。私はね」
「僕もだ。今ならそう思える。だけど高校の時の君ならどうだい。同じ台詞を言えたかな」
彼女は思案げな表情でグラスを手にとり、「これが年をとるってことか」と呟いた。琥珀色の液体が、その唇に触れる。
「子どもの心なんて大抵、ゼロか百かだ。ことに幽霊なんて話になれば、誰もが口をそろえて『いるはずない』と言って僕を笑った。ところがどうだ、実際にあの写真を見たあとには、子猫を触りにオンコの樹を訪れる生徒はほとんどいなくなった」
「そりゃ怖いよね……。口ではなんとでも言えても、生首の首吊り? そんなおばけが映った日には、私だって近づこうとは思わなかったろうさ」
と、そこで彼女はいたずらな子どもを思わせる顔つきになる。
「でも、それが本当の心霊写真だったかっていうと、話は別だよね」
ふふ、と赤い唇から含み声が漏れた。
「純粋に信じるには、年をとりすぎたよ。それに御厨くん。キミね、ヒントが多すぎる」
「話し下手だったかな」
「いやいや、そうは言ってない」
煙草を灰皿に押しつぶす彼女。にやにやと肩を揺らして、指を一本、唇の前に立てる。いつぞやのクラスメイトを彷彿とさせた。
「仮に、ね。それが本当の心霊写真で、キミの魔女も、ただのそういったマニアさんだったとしよう。そりゃあ楽しかっただろうさ。教室は阿鼻叫喚、悲鳴はあがるわ、泣きだす女の子だっていたかもしれない。そういうのが好きな人間には、たまらないシチュエーションだよ。でも――」そこでウィンクを一つ。「それじゃあ、あわないパズルのピースが一つ。担任の先生は、釈然としない顔で写真を持ってきたんだっけ?」
「そうだね」
僕も自然と口元が緩む。彼女と話していると、自分が大層な噺家にでもなった気分にさせられる。意を汲んでくれる相手と飲むのは、やはり楽しい。
「なら、もう一方の可能性を考えてみようか、御厨くん。写真はクロエが仕込んだとした場合」
「まずは、どうつくったのかを僕は考えた」
「モノがデジカメだったなら話は早いんだけどね、当時はまだ主流じゃなかったと思う。それに学校にくるようなプロのカメラマンなら、やっぱりフィルムかな。実際はどうだった?」
「あとからね。デジカメなら楽だったのに、ってぼやかれたよ」
とうとうこらえきれなくなって、彼女は声をあげて笑いだした。ツボにはまってしまったらしく、ひとしきりカウンターに顔を突っ伏したのち、恥ずかしそうに目尻をぬぐう。
「なら、現像した写真をスキャナーでパソコンにとりこんだんだね。それで悪いことをしたあと、専用紙に印刷し直して、それらしく見せたわけだ」
「本当に悪い魔女だよな」と僕はうそぶく。
「やれやれ。ただ、まぁ、問題があるよね。……もし、私が同じように企んだとして、一番の障害になるのは、どうやって写真を入手するかだ」
あの日の僕も、その点を繰りかえし考えた。写真はすりかえられた可能性が高かった。だけど、犯人がクロエなら、いつ、どこで、チャンスがあった? 担任は朝のホームルームであれを掲示した。ところが、彼女がやってきたのは休み時間、それも他の皆より遅かった。
「私が思うにポイントは二つかな。写真が現像されてから教師の元に届くまでの間、そしてもう一つは教室に掲示されるまでの間。どっちが正解だろう? たとえば、写真は郵送で届いたものとして、四六時中ポストの前で張れば横どりは可能だと考えるけど」
「まぁ、そうだな。あるいは、たまたまポストを覗いた時に写真が入っていたと考えるか」
「ふふ。だけど、それじゃ〝担任の釈然としない顔〟には、まだ足りないよね。クロエは写真を家に持ち帰り、悪いことをして、またポストに戻すだけ。担任には郵送が一日、二日遅れたくらいにしか思われないでしょ」
彼女は手元の小皿からチョコレートを一つ手にとり、口に含んだ。
ちろりと舌が見えたところで、僕は慌てて目を逸らした。どうにもビールを飲み過ぎたようで、暖炉のそばにいるみたいに顔に火照りを感じる。一方で彼女の顔色は会った時からさほど変わらない。これだけ飲んでいるのに、まったく恐れいるよ。
バーテンに水を頼んだところで、彼女が再びきりだした。
「なら、答えは教室に掲示するまでの間、か。担任の元に届いた写真をクロエは」一呼吸はさんで呟かれる。「――彼女は盗んだんだ」
「たまたま担任が廊下に落としたとは考えにくかった」
「確かに届いたはずのものが、しまった場所から見つからない。そうと思いきや、覚えのないところからでてくる……なんてことがあれば、もやもやした気持ちにもなるよねぇ。でも、どうやって盗んだのかな。写真は職員室の机で保管されていたんだろうし」
「その点については補足するよ。前日、帰りのホームルームで担任が言ってたんだ。クラス写真が届いたから親に必要な枚数を訊いてきてくれ、写真は明日の朝に掲示するからって。クロエはたぶん、それで計画を実行に移したんだ」
「計画と言ったね、御厨くん」
彼女がにんまりと微笑んだ。それはまるで、うかつな獲物を追い詰める猫の表情で。
「クロエは以前から、虎視眈々とそういった機会を狙っていたわけだね。スキャナーやプリンタなんかも、それが実行できると確信してそろえたのかも。なるほどねぇ。その時、運がよかったのは、クラスメイトの目に触れる前に写真を盗めたってことか。つまり彼女は――」
とん、と彼女の指がテーブルを叩き、終局を告げた。
「――魔女クロエはあらかじめ、学校中の鍵を手に入れていたんだ」
そのとおり、と僕は頷いた。
おそらく彼女はクラス写真を撮った時点で、あるいはもっと早くから計画し、学校のマスターキーを盗みだしていたのだ。その複製さえあれば、写真が届いたと聞いた放課後、職員室に忍び入るのも造作なかったに違いない。いたずらにしては、まったくなんてスケールだ。
写真は即日パソコンにとりこまれ、男の生首を仕込んだ偽物がつくられた。あとはその夜のうちにかえしに行くだけの話だが……。
「最後の最後にミスっちゃったんだね。偽の心霊写真をかえす場所をほんの少し間違えた。翌日、担任の先生は、右にしまったはずのものが左からでてくるような不思議な体験をする。それが〝釈然としない顔〟につながるんだ。だけど、写真の細工は指摘されなければわからない程度のものだったから、結局そのまま掲示されてしまった――。こんなところかな、御厨くん」
「お見事」
僕はささやかな拍手とともに、麗しき名探偵さんのために新しいバーボンを注文した。
バーテンがグラスに氷を準備している間、懐かしい過去に思いを馳せる。
「写真は担任に回収され、現像時のトラブルだと説明された。後日、あらためて配られた写真には確かに幽霊の生首なんて映っていなかった。だけど、クラスの誰もがトラブルだなんて信じちゃいなかったよ。教師だってそうだ。そっちはおそらく盗みだされたことに気づいていたんだろうな。だけど盗難、しかも職員室でとなると大ごとになるから、あくまでもトラブルとして押しとおしたんだ。その嘘の香りを、生徒たちは別の意味にとらえた。オンコの樹には幽霊がいると噂がたち、クラスメイトだけでなく、全校生徒のほとんどが近づかなくなった。写真一つでここまでやってのけるとは……彼女が魔女と呼ばれる理由の一端に触れた気がしたよ」
店内にはまた聞き覚えのあるジャズが流れていた。バードランド、僕が生まれるより前のアメリカで一世を風靡したという。この名曲を知るきっかけになったのは、確かレオのやつだった。高校の頃、あいつに勧められて読んだ本にでてきたのだったか。「クラシックだけじゃ大人になれないぜ」などと知った風な口をきくあいつが、僕は嫌いじゃなかったように思う。
「レオたちと魔女の住処を訪ねたのを話したよな」
「そういえば、その理由はまだ教えてもらってなかったね。写真のことを訊きに行ったのかい? それにしては――」
「ああ。写真の話だけなら、わざわざ訪ねたりはしなかったさ」
こんなに人と喋るのは久しぶりだ。おかげで喉が渇いて仕方がない。僕は手元の水を一息で空にすると、新しいビールを求めた。
「さあ、事件のつづきだ」