「ただいま、クロエ」
僕は車椅子にのせられて、病院の敷地内を爆走していた。
外出手つづきはすべてレオがやってくれた。なんでも警察手帳をちらつかせたとか、そうでないとか。クビになっても知らないぞと言ってやると、「誰の所為だと思ってやがる」と凄い剣幕で怒られてしまった。
そうそう。外にでるのを許可してくれた僕の担当医師についても、ここでようやく思い出した。笑ってしまうが、やはり見覚えのある顔だったのだ。
もういい年なのに茶髪のロン毛をなびかせる彼は、確か〝夜鷹〟と呼ばれていたはずだ。
「夜鷹はどこにでもいますよ。木こりの心臓が動きつづけてる限りは、ね」
今度酒でも奢らせてくれと言って彼とは別れた。どうせこれから明日も明後日も会えるのだ。
車椅子もレオが手配してくれた。初めて座ったものだが、自分以外の意志から外れて動くのり物というのは、どうにも落ちつかない。うしろのハンドルを握って走るロリ子が、息を切らせながら言った。
「もし、君がこのまま歩けないってことになったら」
「ずっと車椅子を押してくれるってか? 気持ちだけ受けとっておくよ」
「いいや、泣くまでリハビリさせるわ。さすがにこれは、きつい」
それこそ気持ちだけにして欲しかった。
――クロエは生きている、らしい。
あんな走馬灯を見せられたあとでは到底信じられなかったが、ロリ子もレオも唾を飛ばして僕に言いきかせた。終いには「どうりで帰ってこようとしなかったわけだよ」と頭を抱えられてしまったくらいだ。
夢の最後のシーンに戻る。現実の僕はクスリを飲まなかった。だけど、クロエはどうだったのか。もしかして、あれこそ意識のない僕がつくりだした空想だったのか?
「いや、クロエは飲んだよ。大量の薬を飲んで……その後、な。発見したのはロリ子だった。あの日、彼女の部屋を訪ねたのは、おまえだけじゃなかったんだよ」
「居あわせたのは本当に偶然だったの。でも、奇跡というには遅すぎたよ。あたしが助け起こした時には、君は放心状態で、クロエの意識はすでになかった。病院に搬送されたあとも、長らく戻ってこれなかった」
代わる代わる説明をされることには、なんて偶然だろう、僕が運びこまれたのと同じ病院の敷地内に、彼女は今もいるのだという。
「こう言っておいて悪いが、あまり期待はするなよ、オズ」
クロエは一命をとりとめたものの、無酸素状態におかれた脳は多くの機能を失ってしまった。体を動かすこと、言葉を扱うこと、そういった普通の人間があたり前に持ちうる所作を彼女は未だとり戻せておらず、また、身寄りがないために施設に身を寄せているそうだった。
「ショックを受けちゃ駄目だよ。――クロエはオズ君のことも忘れてしまっている」
「どういうことだい」
「彼女が一番ダメージを受けたのは、記憶なのよ」
そう言われて、でも、あるいは彼女は幸せでいるのではないかと感じてしまった。
僕らは過去に縛られつづけている。皆が好きだった委員長。〝人喰いジャック〟の夜。あの雪の日のしおれた花のような彼女の姿。どれも憶えているのが苦しくて耐えられない記憶。
もしも、それらを忘れてしまえたなら、僕らは別れる必要などなかった。
それでも。
「思い出を失うのは、嫌だな」
レオとロリ子が、僕を見ていた。
そうして、彼女の病室へたどりつく。
昔、僕の教室には魔女がいて。かつて、初めて彼女の住処を訪れた夕暮れを思いだしていた。トトをめぐり、クラスメイトたちを巻きこんで繰り広げた戦いのあとの話だ。一月も経って、ようやく彼女の幽霊アパートを訪ねる機会を得た。でてきた魔女は風邪にやられて頭もぼさぼさで、その可愛らしいパジャマに僕らは先入観を改めさせられた。お互いのカードを明かしていく中で、まだ猫を被っていたロリ子がシチューをつくってくれて、一番の被害者であったはずのシイも最後には仲間になってくれた。
目が覚めてからも何度でもなぞってしまうあの記憶だけは、夢じゃなかったとはっきり言える。僕らは友達だった。
十年後の彼女の姿を僕は見る。
彼女は病室のベッドの上に半身を起こし、隣に立つ看護婦からなにか話を聞いているようだった。黒髪は白い布団の上にかかり、緩やかなウェーブを描いている。細い腕も、色素の薄い肌もあの日と寸分変わらない。唇には赤いルージュがひかれ、しかし、黒目がちな瞳は泥みたいに濁ったままで、どこにもむけられていなかった。
彼女はこちらに気づくようでもなく、かといって看護婦に頷くわけでもなく、病院服に身を包み、ぼぉっと虚空を見つめていた。
「クロエ」
僕は彼女の名を呼ぶ。
これが最後の戦いだ。夢の中では、あるいは本当に時を戻したかもしれないあの世界では、僕は負けてばかりだった。流されるままになにもできなかった。大人になれたはずの彼女の手を握ることすら叶わず、弱い御厨少年はただただ悲劇を見守ってしまった。
だけど、今ならできる。大人になった今ならできると確信している。
だって足が動かなくても、代わりに運んでくれた仲間が今もいるんだ。僕は一人じゃなかった。逃げて流れてたどりついたここでも、確かに生きてきた意味があったんだってわかるんだ。
だから、僕は彼女に言う。あの日、切ないほどに切り立って感じられた壁は、もう飛べない高さじゃない。たった一声かけるのに怖気づいていた子どもは、もういないのだから。
願いにも近い思いをこめて、もう一度、いや何度でも。
「ただいま、クロエ」
もしも、今この瞬間が夢のつづきであったなら、彼女はみるみるうちに在りし日の姿をとり戻し、あのいたずらな猫を彷彿とする表情で「おかえり」とでも言ってくれたことだろう。レオもロリ子もそういった奇跡を期待しなかったはずがない。そもそもこれは僕が描く、無限のキャンバスの上にある物語なのだ。幕の閉じ方はすべて僕にゆだねられている。この人生は最後に希望があるから、どれだけゴールが遠くても、なんとか生きていけるんだ。
そうは言っても現実は理想には届かず、とても儚くて。
でも、不意に彼女の顔がこちらをむいた。
未だ焦点が定まらないままだけど、あの頃のように微笑んで、確かにこう囁いたのだ。
「また会えたね、オズくん」
"The reason why I became a ghost."




