「オズ君って本当に馬鹿ね」
どうやら大人になった御厨青年は二週間近くも眠りつづけていたらしい。
原因はやはり、あの時の事故だった。久方ぶりに訪れた街で幻を見た。それを追いかけて、不注意に渡った道ではねられた。意識を失っている間、早まわしのカセットテープのように過去をなぞった。ただ、それだけの話。それが事の顛末だ。
目を覚ましてから数日の間、入れかわり立ちかわり見舞いがあった。
まずは家族。母親の髪には白いものが混じっていた。単身赴任中だというのにきてくれた父親の口元には似合わぬ髭がたくわえられていた。どちらも十年前にはなかったものだ。まだあまり働かない頭でそれを指摘すると「馬鹿者が」と父親には呆れられ、母親にはひどく怒られてしまった。確かに何年も帰ってこようとしなかった自分が悪いのだろう。おまけにいざ帰ってきてみれば、このざまなのだから。
美咲にはこう言われた。「そそっかしい兄さんのせいで、結婚しそこねちゃったよ」実際にはもう籍は入れているのだが、式は僕の退院まで延期してくれたとの話だった。式場のキャンセルも大変だったろうに、いい妹をもったもんだ。ともに訪れた彼女の結婚相手にはひらにひらに謝り倒した。話してみればなかなかの好青年で、近くのコンビニへ足を運んで、自分は吸いもしないのにこっそりと煙草を差し入れてくれた。美咲が昔好きだったレオのやつにちょっとだけ似ていて、あとでそう彼女に指摘してやると、顔を真っ赤にしてぽかぽか叩かれてしまった。もう二十六になるはずなのだが、こういうところはまるで変わってないらしい。
なんだか、本当に懐かしくなってしまう。
覚めてしまった夢を、また思いだしてしまう。
「そういえば、その浅井さんだけど」
「……ああ、レオのやつが?」
「きてくれるみたいだよ。今度の土曜日に」
「それは」
不意に息が苦しくなった。
「兄さん、どうしたの」
「いや、大丈夫……」
「顔、真っ青だよ。すぐに先生呼んでくるから」
そう言うなり、美咲は病室をでていってしまった。
ひとり、とり残されて。
ベッドの上で瞼を閉じて考える。まだ動悸はおさまらない。
レオが見舞いにきてくれると聞いた時、素直に嬉しいと思った。嘘じゃない。でも、あのあと、彼とはどんな別れ方をしたのだったか。どうしても思いだせない。あんなに楽しかった夢の中でも、最後は少しずつ疎遠になっていった。
「レオ……どうして僕らは」
それ以上は言葉にならないのだ。
週末まで数日をかけて、体はゆっくりと回復していった。
どうにか起きあがれるようになり、その日あったことも翌朝までしっかり記憶できるようになった。弱っていた涙腺ももとのとおり。これまでの日常に復帰するのも間近だと思われた。
が、しかし、子どもの頃、どこかで会った覚えがある医者は沈痛な面持ちでこう言った。
「元のとおり走ったり、あるいは歩いたりすることも難しいかもしれません」
なるほど、とひとりごちた。
この入院は長くなりそうだ。リハビリも必要に違いない。そうなると会社に戻るのは難しいかもしれない。予定の休暇などとっくに過ぎてしまっていて、すでにクビになっている可能性もある。元々愛着のない仕事だったから辞めるのはやぶさかでないものの、金が入ってこなくなれば、むこうでのひとり暮らしはつづけられない。必然と実家に戻るのを余儀なくされる。
それが受け入れられるなら、そもそもこの街からでていこうとは思わなかった。
土曜日。
妹の話のとおり、レオはやってきた。ベッドに半分鎖をつながれたままの僕には、逃げだすことも許されなかった。
「久しいな」
と、彼は言った。
僕はもごもごとかえすのがやっとだ。
レオはすっかり大人の男になっていた。髪形が変わり、やや頬がこけ、肌の色がくすんだように見える。代わりに胸板が記憶にあるものよりも厚くなっていた。あの頃から背も高い方だったと思うが、大人になってさらに伸びたんじゃないかと感じられる。それになによりも、くたびれたスーツがとても似合っていた。
「あー……これから仕事なのか?」
十年ぶりの再会にしてはしょうもない質問だ。でも、そのくらいしかでてこなかった。
「いや、仕事帰りでね。徹夜明けだよ、まったく」
無精ひげが浮かぶ顎をかきながら、彼はそんな台詞でぼやいた。
いったいなんの仕事をしているのやら。土曜の昼までかかるとは、自分と同じ開発やらSEだったりするんだろうか。しかし、あのレオが?
「なーに、にやけてんだか」
「レオがまっとうに働いてるなんて、なんだか可笑しくて」
「なにおう?」と、こづかれてしまう「ちぇっ、死にかけたっていうから、心配して顔を見にきてやったのに。案外、元気そうじゃねーか」
そこで不意に彼は視線を外し、窓の外を眺めた。
「まだ、おれを〝レオ〟って呼んでくれるか」
僕もまた下をむいてしまう。過ぎ去った十年が胸中をよぎる。
「俺たちは親友だった。そうだろ、レオ」
「はは、おまえが〝俺〟だなんて……」
レオは寂しそうに笑った。
それからとりとめのない話をする。好きな酒、好みの煙草の銘柄。大人になっても僕らは趣味があった。ここが病室であるのがとても悔やまれる。僕が四国、東京、大阪と流浪した話をすると、彼はおかえしに意外な話をしてくれた。
「おれはな、刑事になったんだ」
「ええ?」
「嘘じゃないぜ。あれから大学をでて、警察学校に入りなおした。最初は交通整理ばかりやらされてね。いいかげん腐ってたが、たまたま飲み屋で会ったのが今の上司だった。以来、酔っぱらいだらけの札幌であくせく走りまわってるよ」
そこで彼のジーンズのポケットから携帯のメロディが鳴り響いた。
高校時代に彼に教わった曲の一つ、ノッキング・スリーのバイオレンスワールドだった。昔、五人がいた頃、学祭でコピーをやった記憶が脳裏をよぎる。
「っと、悪い。仕事の電話だ。病院なのに怒られちまうよな。ちょっと外にいってくるから――あとは頼むよ、ロリ子」
隣の連れの肩を叩くと、彼は早足で病室をでていった。やれやれ、せわしないところは昔から変わっていないらしい。
彼女と視線があった。レオが連れてきたもう一人の来訪者、ここにきてからずっと黙りこくっていたロリ子が躊躇いがちに口を開いた。
「……ごめん。本当に」
僕は形にならない気持ちを自覚しながら、彼女に告げた。
「あれはやっぱり、おまえだったんだな」
あの日とは違って、彼女は白を基調としたシャツにベージュの上着を羽織っていた。腰まで届く黒髪は二週間前の記憶のままだが、眼帯はしておらず、代わりに前髪で右目を隠している。
あの夢は、どこまで夢であったのか。
彼女の髪をかきあげて、思わず確かめたくなってしまう。
「ねぇ。シイのこと、憶えてる?」
彼女は僕のそばまでやってきて、ベッドに腰かけ、そっと手をおいた。
「ああ。この前までは、忘れてしまおうとしていたのだけど」
「そうね。あたしも、そうだった。……でも、シイが最後に言ったことがどうしても」
記憶の中のあれが本当に深泥椎子であったかどうかは、今や確かめられない。あるいは、あの部分だけはただの空想だったのかもしれない。
しかし、ロリ子が指しているのは間違いなく、あの台詞なのだとわかった。
『私はこの世界と踊りつづけるわ』
くるりとまわって、泡のように消えた彼女。
もしかして彼女はまだ生きているのかもしれない、と思う。部屋の本棚から掘り起こした、大学時代のノートに描かれた一晩の記録が浮かぶ。あのルージュの女は果たして誰だったのか。それをロリ子に告げるには、あまりに確証が不足していたが。
ただの空想と言いきるには気になる点がある。
僕のベッドの傍には、いつのまにか白い花が飾られていた。妹が言うに、とても綺麗な女の人が持ってきたらしい。そんな知りあいが北海道にいたの?と問われ、花とともに添えられてた小さな紙袋に目をやった。その中には一本の口紅と、猫の首輪がはいっていた。
「オズ君が知るとおり……君がここを去ってから、あたしはずっとクロエの真似をしてきたの」
僕には本物に見えたよ、と応じる。
札幌の街の暗がりで出会った黒帽子は、ロリ子だったのだ。
僕の瞳にはその姿が、いなくなってしまった少女に映った。二人のそうであって欲しいと願う気持ちが、幻を生みだしたのかもしれない。そうしてたどりついた先が、あの一九九九年を中心とした世界だった。
「あたしが魔女を継ぎさえすれば、クロエは誰かの記憶として生きつづける。そう思ったから」
レオが帰ってくるまでの間、僕らは静かに近況を交わした。
彼女は父親の道場を手伝うかたわら、なんとまぁ、探偵事務所で働いているそうだった。魔女の姿もその延長であったらしい。かつて僕も憧れて、彼女に力づくでやめさせられた。あれこそ夢じゃあないかと疑ってしまうが、どうしても気になって口にしたところ、細部は違えど実際の記憶だったらしいと知る。折られた腕がまだ痛むと言ってみると、「折ってないヨ。外しただけだヨ」と彼女は目を逸らした。
はじめは言いづらそうにしていたが、どうやらロリ子とレオは順調に交際しているようだった。はにかむ彼女を見ていると、かつて二人で幾度も街を歩いたのを思いだす。彼女は当時からレオが好きで、僕はクロエに心を寄せていた。互いに会う約束を重ねたのは、ともに願いかなわぬ立場にいた共感からか、それとも気安い友達のままでいられる安心感からだったのか。
「レオくんね、うちの道場を継ぐって言うの」
と、ロリ子は言った。
「あたしよりてんで弱いくせにさ」
その口調はクロエのようであり、笑顔を見ればシイのようでもあった。
陽が沈みだした頃にレオがようやく帰ってきて、「すまん、戻らないといけなくなった」と手をあわせた。イメージのとおり、刑事とは忙しい職種のようだった。頬を膨らますロリ子の頭をぽんと叩くと、彼は僕にむけて言った。
「また来週にでもくるよ。話したいことがいっぱいある」
「ありがとう。でも、しばらくはここにいそうだから、時間のある時でいいよ。それに外にでられるようになったら――」
口にするにはまだ多少の躊躇いはあったが、そろそろ一連の物語は終わる。その前に、これだけは頼んでおかなければならない。
「クロエの墓参りに連れていってくれ」
レオの動きがとまった。
「オズ……」
「なんだ、気を遣うなよ。もう十年も経ったんだ、いつまでも泣いてる子どもじゃないさ」
「い、いや、そうじゃなくて」
見ればロリ子の様子もおかしかった。あの日の魔女のよそおいはどこへやら、豆鉄砲をくらった鳩みたいな顔をしている。僕はおかしなことを言っただろうか。横でレオがポケットからハンカチをとりだし、汗もかいてないはずなのに額をぬぐった。
「もしかして、おまえ」
「なんだよ、レオ。それにロリ子まで」
「おまえ、クロエが死んだと思ってたのか……?」
――は?
「なにを……」
それ以上、言葉がでてこない。
考えをまとめようとしても、ぐるぐるとまわって上手くいかない。
え、なんだ? クロエが? いや、まさか。
「ロリ子、ちょっと、ああもう! おれ、もういっぺん電話してくるから! いいか、ちゃんと説明しておいてくれよ!」
そう叫ぶと、レオは慌ただしく外へ駆けだした。ロリ子を振りかえる。彼女は未だに人間に戻れないようで、酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくとさせていた。遠くから看護婦の悲鳴が聞こえてくる。混乱と激しい心臓が高鳴りが僕を包んでいく。
「あのさ」
かろうじて発せられたロリ子の台詞は、次のとおりだった。
「オズ君って本当に馬鹿ね」




