「そうだね、ずっと一緒だね」
――その〝みんな〟というのがどういう意味なのか、十年前の僕には理解できなかったが。
今ならわかる。わかるような気がする。
この日のクロエは、雨の日にうち捨てられた新聞紙のごとき瞳の色をしていて、まだ子どもでしかなかった僕をひどく怯えさせた。あるいは雨に打たれるダンボールの中の仔猫たちを想起させて、あとにはひけない選択を迫った。
その結末を僕は知っている。
でも、これ以上は話せない。
話せないんだ。
大学の頃にも一度、この思い出を日記に書こうとした。夜中の零時にひっそりとノートを広げ、何本もビールを空にした。しかし、最初の数枚を埋めると、以降二度とそのつづきを書く気にはなれなかった。もう昔の話だから、とっくに心の整理はできたものと考えていたのに、いざペンを握ってみると、油が切れたブリキの木こりように動かなくなってしまう自分がいた。
たとえば、僕には心から憧れる作家がいて。
いつかおれは階段から落ちて死ぬだろうと語り、本当に転がり落ちて死んでしまった人だ。
彼は嘘みたいな話ばかり書いていた。若かりし頃にロックバンドを組み、音楽と共に過ごすかたわら、悪いクスリで親友たちと酩酊の日々をおくったという。登場人物はひとりひとりくせがあって面白い。本の中の大半が腹を抱える馬鹿話だ。悪い方に入るとスプーンで手首を切ろうとしていた友は、いつのまにやらフランスに渡り、ある日まっとうな文学者として帰ってきたそうな。一方で帰ってこなかった友もいた。いや、多くが帰ってこれなかった。過ぎ去りし風景をみんな嘘にして書いていたくせに、彼らの最後については、たったの十行しか残さなかった。そんな文章を彼は何度も何度も繰りかえし本にした。
どうして形にならない物語というのは、あるんだと思う。
あるいは、これが夢のままでいいのなら。
この先には無数の道筋がある。
もしかしたらクロエは、その後立ちなおって、看護婦にでもなって、年下のインターンをつまみ食いながら、僕にぴこぴこメールを打ってたりするのかもしれない。あるいはもう結婚していて、二児の母になって、あの病的に細く美しかった腰を失ってしまっているのかもしれない。僕も少なからず腹まわりに肉をつけてしまったから、おあいこだ。それか普通に会社員をやっているのかもしれない。ギターを抱えてライブハウスをめぐり歩いているかもしれない。アメリカに渡って運命のいたずらから銀幕のスターになってしまったり、目に見えぬ死を運ぶ格闘家になっていたり、はたまた宇宙飛行士になって火星の裏側で大変なめにあっているのかもしれない。一切連絡はないけれど、元気でやっているかもしれない。
でも僕は、いなくなってしまったおまえと、もう一度会いたいんだ。
会って話がしたいよ。
※
僕はクロエから小袋を奪いとって、残っていた錠剤を一息に飲んだ。
「幽霊が見えるなんて、僕も嘘だったよ」
彼女は瞳に少しだけ焦点を戻して、戸惑いの色を浮かべた。
「でもこれで、おまえと一緒だ」
そう言うと、彼女はきっと理解してくれたんだろう。わずかに目を細め、こう答えた。
「そうだね、ずっと一緒だね」
"Remember 1999"




