「なぁ、クロエ……。楽しいことなんて、未来にはいっぱいあったんだよ」
かつては親の目から隠れて過ごすにはうってつけの場所だと思っていたが、一年と数ヶ月ぶりに訪れた彼女のアパートは、八畳一間にもかかわらず広く、どこか寒々しく感じられた。
「ごめんね、お茶もだせなくて」
泥の瞳をした彼女に勧められて、コタツに足を入れた。
かつてはレオやロリ子とこのコタツを囲んで、とりとめのない話をしたものだった。シイもなんだかんだと言いながら、よく足を運んでくれた。なぁ、あの眠れないラジオの夜を覚えてるか? 猿の話は? 皆で行った温泉のことは? 僕らがつくった七不思議は、ちゃんと御堂山の後輩たちに受け継がれていると聞く。あの放課後、あのオンコの樹の下で出会わなければ、今頃、僕らはどうしていたのだろうか。シイは死ななかったかもしれない。カカシは道を踏み外さなかったのかもしれない。僕らもこれほど苦しい思いはしていなかったのかもしれない。でも、なんの思い出もなかったのかもしれない。
ふと気がついた。
「クロエ。猫は……トトは、どうしたんだ?」
「猫って……?」
彼女のその童女のような表情を見て、僕は口を閉ざし、顔を背けた。
あんなに人懐こかった彼が、まだ姿を見せないということは、つまりそういうことなのだ。
あらためて見れば、部屋はずいぶんと荒廃していた。畳の上には本やら衣服やらが乱雑に積まれ、コンビニの空袋が散乱しているのが目についた。トトの定位置だった部屋の角には、いつからおきっぱなしなのか、中身の入ったペットボトルが転がっている。あの鈴の音が聞こえてくることはもうなかった。
「なぁ、聞いてくれるかクロエ」
むこうの壁を眺めながら、僕は乾いた舌で囁きかけた。
「俺はさ、きっと違う世界からきたんだよ」
返事なんて期待していなかったから、くす、と笑い声が漏れたのに驚いた。
「〝俺〟だなんて、おかしい。オズくんには似合わないよ」
「……そうかな。でも、大人になったら色々と使うもんだぜ。友達とは〝おれ〟、会社では〝わたし〟、家族の前だと〝ぼく〟ってさ。自然とそうなる」
「大人になったら?」
「そうさ。誰だって、いずれは大人になる。おまえだって」
おまえだって、大人になれたはずだったんだ。
僕はもう、はっきりと気づいている。
これは夢だ。
あの日、白昼の幻影に誘われて、トラックの前に飛びだした僕が見ている、そうだ、走馬灯のようなものなんだ。
「大人になったらさ、もう素面で笑い転げるような日はなかったけどさ」
少しずつ視線がさがり、俯いてしまう。
「毎日つまらない仕事をして、くたくたになって帰って……でも悪い日ばかりじゃないんだ。よく同期のやつらと気の利いた店に集まって酒を飲むんだ。最初はビールで美味い肉をつつく。そのうちに嫌なことなんてみんな忘れて、肩を組んで次の店に行く。するとそこは大抵つきだしや魚が旨い店でね。酒の種類もいつのまにか日本酒に変わってる。話だってとりとめなくて、最近見たテレビや、酔っ払ってもできるボードゲームなんかについて意見を交わしたり」
それは十代の少女に語る話じゃない。
きっとクロエは半分もわかっていないだろう。でも、それでも、どうしても聞かせたかった。
「たとえば、ボードゲームは対象年齢が決められてるんだ。簡単なやつは六歳むけとかでさ、なにも考えなくても上手く遊べる。でも、酔っ払ってくるとそうもいかない。ある時、誰かの家で酒盛りをしながら十二歳むけのゲームをはじめた。最初はみんな真面目に説明書を読んでるんだけど、駒を並べたりカードを眺めたりしてるうちに気づくんだ。さっぱり理解できないってね。そろって叫んだよ。『ぼくたち六さい!』『文字なんかよめません!』ってさ」
彼女からは返事もない。
それでも僕はひとりつづける。
「気づけば朝だよ。頭もガンガン痛くて、一日なにもしたくない病気にかかってしまう。テーブルにはゲームの残骸が転がってる。どんな風に遊んだかなんてまるで覚えちゃいない。だけど、それがいいんだ。本当に馬鹿みたいだけど、それが楽しいんだ」
目尻が熱い。そろそろ上手く喋れなくなってしまう自分を感じている。
僕は幻に語りかけていた。
今はない日々の幻に。もう戻ってはこない、あの頃の思い出に。
「生きてさえいれば、楽しいことなんて、いくらでもあるんだよ」
頬を流れた涙が口の端をつたい、その味を噛みしめる。
この塩辛い滴は、置き去りにしてきた青春の日々の味だ。
「なぁ、クロエ……。楽しいことなんて、未来にはいっぱいあったんだよ」
不意に。
「あなたのいた世界は楽しかった?」と彼女が言った。
できるだけ遠くの土地に行きたくて、知りあいが誰もいない大学に進んだ過去を思いだした。
この息苦しい街を忘れてしまいたくて、東京で就職して、目を悪くするほどパソコンの前にむかった日々を振りかえった。
仕事の都合で大阪に流れついた。東京に比べて食べ物が安く、美味しかった。好きな日本酒ができた。たいして強くもないのに、いつのまにか、そらで銘柄を並べられるくらいになっていた。ある日、ひょんな流れでバンドを組むことになった。かつて諦めるには切なすぎるほどに弾いたピアノが、今頃になって客を沸かした。バーを貸しきってサックスやトロンボーンとあわせて生んだ音楽は、無性にこみあげるものがあった。つらい毎日ではあったが、楽しみを感じる瞬間も確かにあった。
それでも。
「おまえのいない未来は、寂しかったよ」と僕は答えた。
飲んでも飲んでも、いくら飲んでも渇きがおさまらない夜のような。
これまで言葉にならなかった思いだった。
視線をもとに戻す。クロエはいつのまにか透明なビニールの小袋をとりだして、その中身をざらざらと口の中に流しこんでいる。
「なんだよ、それ……」
積みあげたカードの城が、ばらばらと崩れ去っていく。
「クロエ。それ、なんだ……?」
問いかけに、彼女は小首をかしげた。
「これをいっぱい飲むと、見えるようになるの」
ぽつり、ぽつりと呟かれた言葉の意味を理解して、僕は肺が震えるのを感じた。
「おまえ、そんなのなくたって……見えるって、言ってたじゃないか」
「あれは嘘」
この部屋で何年もひとり暮らしをしてきた彼女は、幽霊が見えると言ってはばからなかった。クラスメイトが笑おうが、気味が悪いと噂しようが、一貫してその主張を崩さなかった。
「あれは嘘だったの」
怖い話が好きで、それで友達をおどかすのが好きで……あんなに好きだったのに。
どうして。
どうして今になってそんなことを言うんだ。
「でも、今は本当。これを飲めば、みんなそばにいてくれるから」




