「じゃあ、セックスについては知ってる?」
過ぎ去りし二〇〇〇年の十一月五日。僕らは魔女の住処を訪れる。
子どもたちの声はもう聞こえない。車は相も変わらず一台もおかれておらず、自転車の影すらない。かつては見慣れた風景だったものも、今は遠く離れた土地にやってきたかのごとき郷愁を感じる。この二階建ての小さなアパートで、彼女はまだ暮らしていると聞いた。
階段はアルミ製でやたらと音が響いた。のぼりきったところでうしろを振りかえると、二人はちゃんとついてきてくれていた。ロリ子は杖をつくレオの裾を掴み、残された瞳で己の爪先を見つめている。ここまで会話という会話もなく、そのためだろう、こんな台詞をうっかり口走ってしまったのは。
「楽しかったよな――」
もう戻れない過去だ。
それがわかっているから、二人は無言のままだった。
角の二〇九号室にたどりつく。魔女の住処。彼女は今もここにいるはずなのだ。
足下にはどこから飛んできたのか、落ち葉が無数に散らばっていた。ここにくるのは、いつぶりかと思いにふけりながら、インターフォンに手をかけた。
あの頃を思いだす。
冬のある日に、いつもの流れで、持ち寄った怪談を話しあった夜があった。
「じゃあ、次はわたしの番ね」
クロエはおばけみたいに長い髪をくしゃくしゃとすいて、僕らにむきなおった。その日もロリ子と委員長が二人でシチューつくってくれて、満腹幸せ気分でコタツでくつろいでいた。コタツには大量のミカンが積みあげられ、箱買いしたガラナの缶が口を開けて並べられている。クロエは、けぷっと似合わぬ可愛らしさで喉を鳴らすと、満面の笑みを浮かべた。
「これは六十年代に実際に起こった事件よ。みんな、猿の集団死については知ってる?」
「知らねーよ」
と、そっけなく答えたのは、格好でもつけたかったからだろうか。
クロエの話を聞く時はいつだって後悔の海に沈む。誰だよこのアホを自由にさせたのは!と心の中で絶叫する羽目になる。しかし、素直にそう言うのは癪なので、余裕のあるところを見せたかったのかもしれない。
「じゃあ、セックスについては知ってる?」
「だから、知らねーよ」
反射的に答えてから、ふと顔をあげた。
みんなが僕を見ていた。
「いや、知ってるよ!」
「え、本当に?」
「し、知ってるよ……?」
「おやおや。そんなすぐにバレる嘘を」くふくふと笑うクロエ。「ってうか、わたしが言ってるのは猿のセックスの話よ。なーに顔を赤くしてるのかしら」
ちくしょうめ、と悪態をつく僕。ロリ子や委員長までニヤニヤしているのが憎たらしい。
「テレビとか動物園とかで見たことないかしら、あいつらの間抜けなアレ。それについて、これから怖ろしい話をします」
彼女が唐突に丁寧語になって怖ろしいと言えば、経験上、マジに怖ろしいので困った。
あとから図書館で調べてわかったのだが、これは新聞にも載った実在の事件だ。日付までちゃんと覚えている。一九六二年の九月六日、一面にデカデカと載っていた。僕らの生まれる前の話なのに、なぜクロエが知っていたのかはもはやわからないが。
「猿には。花粉症になるやつと、花粉症にならないやつの二種類が存在するの。面白いもので、これにはパターンがあるんだ。たとえば花粉症持ちのオスが、花粉症を知らないメスとセックスをすると、そのオスは生涯花粉症にかからなくなる。逆でも同様で、セックスで花粉症が治るってわけ。しかも、その耐性は遺伝する。花粉症耐性のある猿から生まれた子どもは、同じく耐性を持ち、その系譜が途絶えるまでずっと鼻水を垂らさなくなるの」
「へー」
頷いたロリ子は、ちらりとレオの顔を窺うと、思いだしたかのように頬を染める。あざとい、マジにあざといが、一方でクロエに対しても恥ずかしげなくセックスセックス言うなよ、と胸中で思う。御厨少年は感じやすい年ごろなのだ。
「どうして花粉症に耐性ができるか、わかる?」
その問いにまず答えたのはレオだった。
「血清ってやつ?」
「蛇の毒じゃあるまいし」と僕はつっこむ。
「ふふ、でも惜しいところよ」
クロエはにんまりと八重歯を覗かせて、コタツに埋もれる他四名に目を細めた。
「答えは寄生虫」
「ええ?」
その単語がなにを指すのかしばし理解に時間を要し……うへえ、と呻いた。
「あれ、もうダメなの? オズくん」
「悪いけど、みんなまだ、ミカンとか食べてるんだしさ」
「ミカンには、実はミカニエルという小さな線虫がいて」
「それは嘘だろ!」
「でも、こっちの猿の話は本当なのよ。おなかの中に寄生虫を飼ってる猿は、どうしてか花粉症にならないの。寄生虫がだす分泌物の所為なのかもね」
クロエには沈黙でかえして、僕はミカンを彼女にむかって投げた。
両隣のレオもロリ子も、もちろん委員長も示しあわせてそうする。ぽい、ぽい、ぽい、と彼女の顔に皮やら実やらが放られる。だけど、僕らの抗議活動は、彼女の前にはなんの役にも立たないのであった。
「で、その寄生虫はたまに悪性にかわって、おなかの中を食い荒らすの」
歯牙にもかけないのであった!
「六十年代の事件は、その一例よ」
ひとり平然と、コタツに落ちたミカンに手を伸ばしながら、彼女はつづけた。
「当時、猛威をふるった寄生虫は、従来のものよりも成虫になるスピードが異様に早かった。それは動物園でも起こっていたから判明したのだけど、親虫が生んでから二週間後には、子もすでに卵を産める状態になっていたそうよ。ビーカーの中ですらそれなんだから、生きている猿の理想環境の中ではもっと早かったんでしょうね。その夏だけで、推定八千匹の猿が死んだ。どうしてこんなに被害が拡大したかわかる?」
「……え」
「記憶力が悪いわ、オズくん。ちゃんと話したでしょ、セックスと花粉症の話」
つまり、猿の寄生虫は精液や血液から感染したのだ。なので、オスもメスも関係なく花粉症に耐性を持ち、おなかを食い荒らされて死んでいった。ただし、虫が卵を産むスピードに比べて、食べるスピードはゆっくりとしたものだったから、猿が妊娠してもぎりぎり命を奪わなかった。よって、その子どもたちは生まれながらにして寄生虫持ちになってしまったのである。
猿なのにねずみ算。
げろげろな話だ、と僕は思った。
「ちょっとしたニュースにもなったみたい。山からすんごい悪臭が漂ってくるからなにかと思えば、ごろごろ猿が死んでるんだもの、そりゃあねぇ。最終的には動物愛護の団体が許可をとって、森に虫下しの餌をまいて危機をのりきったそう。でも、時はすでに遅く、個体数は前年の四十パーセントまで落ちこんでいたそうよ。腰がもう少し重かったら、日本の猿は絶滅していてもおかしくなかったわね」
「っていうかさ、クロエ」
意を決して僕は言ってみた。
「それ、怪談じゃねーよ」
「あら、そう? じゃあ、これから怪談をします」
うかつな僕は彼女のスイッチを押してしまったことに気づかない。
思えば、他の三人はちゃんと気づいていたのにな。その証拠に体を丸くして、きたる衝撃に備えていた。
「この集団死の事件――の直前まで、日本では猿の肉が流行っていてね」
「……」
僕らは顔を見あわせ、黙りこんだ。
えへへー、とクロエは微笑んでいる。
このやろう。
「人間への寄生例について、知りたいでしょう?」
「知りたくない! 誰が知りたがるか、っていうか知りたくないよぅ!」
「でも、教えてあげよう」
可愛く言ってみたところで、駄目なもんは駄目なのに。
誰か、この魔女をとめてくれ……。
「もちろん、人間には滅多に寄生しなかった。おまけに人間ほどの体の大きさになると、寄生虫が致死量まで増えるにも時間がかかったし、猿の集団死事件が表沙汰になる頃には、みんな念のために虫下しを飲むようになったから」
「それじゃ、問題なかったんじゃねーか」
まさか虫下しがきかなかったとか?と考えてみたが、彼女の言によると集団死は薬によって解決したのだ。なら人間だって同じはずだ。
そう安心して胸をなでおろしてみれば、ところがどっこい。
「虫下しは胃や腸にしかきかないのよね」
「……脳みそに入ったとか言うなよ」
「えへへ、もっと怖ろしい話をしてあげます」
あるところに、突然花粉症に耐性ができたラッキーな男の子がいました。
ある日、彼がセックスをすると、相手の女の子も花粉症が治ってしまいました。
ラッキーな女の子は、それはそれは喜んだそうです。
二人は何週間かあとに、おなかが痛みに気づき、虫下しを飲みましたが、運が悪いことに彼女の妊娠には気づいていませんでした。
虫下しは胃や腸にしか効いてくれません。
ところで、この花粉症への耐性は遺伝するというお話でしたね。
――そんなとぼけた調子で、クロエは語ってくれた。
その満面の笑顔たるや。
「お医者さんがモニターでおなかの子の以上を確認した時には、すでに中絶できる段階ではありませんでした。というか、お医者さんにもよくわからなかったのだと思います。だって、まさか人間を喰う虫がいるなんて、想像もしないでしょう。おまけに寄生虫が食べるスピードは極めてゆっくりとしたものだった。だから、子どもの命には別がないと思われた。……その後、増えるスピードは尋常ではなかったのだけど」
ソレの出産について想像できるだろうか。
「生まれてから、二日は生きていたそうよ」
「……」
「でも、生まれたばかりじゃ虫下しなんて飲めないし、どんどん――ね?」
ね?じゃないよ、クロエさん。
ああ、想像力なんてなければよかったのに。
あの晩、彼女の相手をさせられた僕と同級生の三人は、しばらく春雨が食べられなかった。あんなに美味しいのに、ラーメンも蕎麦もうどんでさえも。一方、クロエといえば、そんな僕らの前でこれ見よがしにズルズルすすってくれたもんだ。
あれほど怖い話が好きだったのにな。
「ところで、わたしは生まれてこの方、花粉に鼻をやられたことがないの」
と、彼女は言った。
「致死性のある寄生虫はいなくなったけどさ、もうちょっとゆるーい感じのやつなら、もしかしたら、このおなかの中にもいるのかもね、わたし、食べても太らないタイプだし」
わざわざ立ちあがって胸を張るクロエは、折れてしまうんじゃないかと不安になるほど細い腰を持っていて、僕はそれが割と嫌いではなかった。
そして、彼女は笑う。
「ねぇ、あなたはどう? 花粉症が治ったりした経験はない?」
あの頃、僕は花粉症であったが。
今になっては風邪をひかないかぎり、鼻水を垂らすこともない。




