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1999remember  作者: 板空六花
あの一九九九年をもう一度
40/48

「私はこの世界と踊りつづけるわ」

 村瀬雪が〝ロリ子〟の名を甘んじて受けるのは、レオがつけてくれたあだ名だからと聞いた。

 中学時代、野球部のマネージャーになるまでの彼女は、己が目指す在り様と周囲の目とのギャップに悩まされていた。小さな体に不相応な空手の才に恵まれて、同性代の女子からは距離をおかれ、自分から近づこうと性格を偽ればぶりっ子と蔑まれる。鍛えあげた筋肉は孤独の苦痛を幾分か和らげてくれたものの、ひとりで登下校する日々はしばしば未来への不安を生んだ。

 そんな彼女とレオを結びつけたのは、一つのファールボールであった。

 ある帰り道、グランド沿いの道を俯いて歩いていると、突然「危ない!」と声が届いた。横をむけばすぐそこに白球があった。放物線すら見る暇もなく、体が勝手に動いていた。頭部を低く振りながら身を回転させ、球の進行方向と垂直に掌を繰りだし、衝撃を殺して受けとめた。常在戦場、その教えが彼女を救ったと言える。だが、真に助けられたのはこのあとだった。

「大丈夫か」

 駆け寄ってきた少年は、頭を坊主に刈りあげ、肌を真っ黒に焦がし、正直彼女の好みからは程遠かった。「球、そっちにいったよな」と息を切らして言う彼に、彼女は手に握ったままだった白球を見せて、放ってかえした。「すごいな」と呟かれる。確かにグローブもなしにファールボールをとるのは、ただの野球少年には難しいことかもしれない。でも自分には大したことないのだと薄く笑みを浮かべて応えれば、かえってきたのは意外な言葉だった。

「でも、駄目だぜ。女の子なんだから」

 なにげなく告げられたのだろうその言葉が、振りかえってみれば、彼女を恋に落としたのだという。以来、彼の前では少女でいようと努めた。そのうちにシイに出会い、ともにマネージャーとなり、〝ロリ子〟の名をもらい、あの最後の試合を終えたのち、同じ高校へと進んだ。それから今日の日まで彼女はレオの前で本当の自分を見せたことはなかった。

 片眼を失っても〝人喰いジャック〟に立ちむかう自分を、彼はどう感じただろうか。

 答えは訊けない。彼はすでに多量の出血によって意識がない。

 ゆえにロリ子が己の獣性を解き放つには、もはやなんの障害もなく。

「があああああ!」

 刃を頬に掠めて打ち込んだ拳は、音速を超えてごしゃりとやつの鼻をつぶす。しかし、その感覚。右目がない状態での距離感は致命的で、肘が曲がったままに着弾してしまう。これでは威力も半減だ。鼻血を散らして振られるナイフが、首皮一枚をかすめて流れていく。

 バックステップで制空権を離脱した、そう見せかけて放ったうしろまわし蹴りは、相手の顎をこすって空を切る。それでも脳を揺らすには至ったのか、やつの膝ががくがくと震えた。勝機――にもかかわらずサイドへまわったのは、背後で地に伏せる愛しき者のため。

 再会時の一幕が脳裏をよぎったのだ。この男は目の前の敵だけでなく、すでに倒した相手にすら刃をむける。

「は、はぁ……雪ちゃんさ、いやに消極的なんじゃないのかい」

「……ぎ、ぃ」

 もはや、挑発に対して人語をつむぐのも難しい。流れ過ぎた血液が、視界をも狭めている。

「そんなやつかばったってさ、もう意味がないんじゃねーの」

「ど、ういう」

「死んじゃってんじゃねぇのかぁ! だってよぉ、さっきからぴくりとも動かないじゃん? ほら、そんだけ血ぃ流したらさぁ、ははは、生きてる方が不思議だってぇ!」

 視線を外してはいけない。心はそう叫んでいるのに、引力に逆らえずうしろを見てしまった。もはや物言わぬレオ。それが映ると同時に、泥を踏む音と、人喰いの嘲笑が鼓膜に届き――。

「――ぁぁ、お」

 鳴き声。

 突如として聞こえてきたそれは、確かに猫の声であった。夜である所為か、あまりに大きく響き渡った音に、互いの動きが一瞬とまる。腕を伸ばせばすぐにでも殺しあえる距離で、つい同じ方向を見てしまったのは、二匹の獣にもまだ人間性が残っていたという証左か。

 そして、そこには。

 一つの影が佇んでいた。

 遠く公園の街灯に照らされ、短い髪のシルエットが風に揺れる。それを押さえようと首元に手をあてる仕草。見覚えがあるだろう。二人の息がとまるのが手に取るようにわかった。

「シイちゃ――」

「椎子、か?」

 この時を待っていたんだ。

 当然あれは深泥椎子ではない。だが、在りし日の彼女が目指した幻影だ。

 魔女が一世一代の演技でつくってくれた僅かな隙に、僕は暗闇にまぎれ、全力で走り抜けた。狙いはやつの背面、脳へと酸素を運ぶ血管と、体機能を維持する延髄がおさめられた首筋だ。右拳が一本の槍となって風の壁を破る。技とは受け継がれるものだ。僕の師は〝心を失くした刃(ハートレスエッジ)〟。〝木こりの心臓(ウッドマンズハート)〟の長に教わった最速の一撃は、死の訪れ(ヴァニッシング・デス)と呼ばれていた。

「が、は」

 衝撃とともに〝人喰いジャック〟の呼吸がとまった。

 同時に己の拳も砕けたと知る。鈍い痛み、すぐに火傷のごとき痺れをもって神経を焼く。もう右手は使い物にならない。だが、これでやつも――。

「ご、ああ!」

 視界に赤が舞った。

 怪人の振るった刃が、深く僕の額を切り裂いていた。夢の中にいるかのようなスローモーションで、己の前髪が遅れて落ちていくのが見えた。体がうしろに流れる。一方で回転をとめたやつの腕が、空間の最奥から再び獲物を定めて。

 いいや、そいつは叶わない。なぜなら用意された槍は二本なのだから。

 阿吽の呼吸ですでに動きだしていたロリ子が、宙を飛んで同じ延髄へ踵を叩きこんでいた。閃光回転脚シャイニーシルクストッキング。ナイフを振りおろさんと前のめりに一歩踏みこんでいたことが、二人の身長の差を埋め、今度こそやつに片膝をつかせる結果となった。

変幻自在の打弦楽器(ハンマークラヴィーア)といったね。使わせてもらうわ」

 高らかな宣言とともに、やつの残った足が光速で払われ、今度は後方へ上体をそらされた。あの道場で僕も身をもって学ばされた、振り子の要領だ。彼女の掌はいつのまにか相手の顎部にそえられている。

「跪け」

 ごしゃり、と怪人の頭蓋が地面に衝突する音が轟いた。

 決着を確信して、喉奥から咆哮がほとばしった。勝ったんだ。僕は一度逃げだしてしまった。無様にも心が折れかけた。でも今は、こうしてロリ子が生きていて、レオだって病院へ運べば助かるに違いない。それもすべてクロエがくれた勇気と、彼女自身の機転のおかけだ。〝人喰いジャック〟は――僕ら四人が好きだった委員長の仇は、この手で討ちとることができた。

 その時、僕が目を離したのは、ほんのわずかな間だったと言っていい。アドレナリンが切れたのだろうか、額の傷から眉を伝ってぼたぼたと血が垂れてきたのだ。腕で拭った。びりりと痛みが走るも、出血量に対してまだ意識ははっきりとしている。これなら警察と救急がくるまでは持ちそうだと……ああ、本当に、すっかりすべてが終わったつもりでいたんだ。

 視線を戻せば、おかしな風景が映りこんでいた。ロリ子が倒れた樫木に口づけをしている。そのように見えたのは、樫木が仰むけになったままの体勢で、彼女の頭を抱えこんでいたからだ。僕の呆けた勘違いは、彼女の体がびくんと大きく痙攣したことで塵となって消えた。

 樫木一也が半身を起こす。押しのけられたロリ子はそのまま、どうと音を立てて地面に伏した。転がってあらわになった右眼には、ナイフが深々と突き刺さっている。

「体重が軽すぎたね、雪ちゃん。あるいはここが土の上でなければ、な」

 ずるりと、そのナイフが抜かれた。

 彼女の眼球から溢れた血が、赤黒い糸をひいて滴った。

「せめて君の夜の連れを何人か呼んでおけば、結果は逆だったかもしれないのにさ。邪魔をしたのはプライドか、それとも恋心かい? 君のちゃちな仮面なんて、呉緒だってとっくに気づいていたろうに。はは、悲しいよなぁ、雪ちゃん」

 泥にまみれた膝を払い、とうとう彼が立ちあがった。

 嗤っている。目は虚ろ、体はふらつき、まっすぐに立っていられないほどなのに、頬まで裂ける笑みが貼りついていた。「は、ハハ」とまた声が漏れた。それが何度か繰りかえされ、やがて「ひゅっ」と息が吸いこまれる。

「げ、げぇ、はっ――ごぼ、お、ぇぇぇ」

 大量の胃液が地面に撒かれた。

 びしゃびしゃと彼自身の靴先に飛沫がかかる。そうだ、脳を揺らす打撃を三発も喰らって、無事なわけがない。ましてや、あの〝心を失くした刃(ハートレスエッジ)〟の全力だ。それでも倒れないのなら、彼はすでに人間の域を超えている。

「ぐ、ひひ」

 ――〝人喰いジャック〟は、今にも崩れそうな両膝を手でささえ、面をあげた。

「殴りかかっておけばよかったものを」

 ナイフは手放されていない。刃の腹が公園の明かりを照りかえし、ぎらりと目を焼いた。

「あるいは、先の一撃が素手でなければ、な。せめて石でも握って頭を叩けば、さしものオレも危なかったろう。おまえもちっぽけなプライドを守ったのかい。なぁ、御厨浩平」

 刃をむけられたのは、僕だ。ここにはもう僕しかいない。

「あるいは、警察を呼びに行ってそのまま戻ってこなければよかったんだ。そうすれば、おまえだけは助かったかもしれない。いいや、そもそも〝人喰いジャック〟なんて、都市伝説のままにしておけばよかったのさ。それなら、この二人も死ぬことはなかった」

 地に伏して、勢いを緩めつつも未だ降る雨に身を打たれるロリ子とレオを指して、彼は呟いた。あれほど猛り狂っていた怪人の語調は、いつしか冷たく静かなものになっていた。

 終わりを悟ったのだ。

 物語はここで幕を閉じる。

「いや、まだ君もいたか」

 いつのまにかクロエが、僕の前に立ちふさがっていた。

 細い腕をいっぱいに広げて、夜の怪人とむきあう魔女の彼女。二つのあだ名をつけてくれた少女を模して切った短い髪が、濡れて首筋に貼りついている。雨音に混じり、吐息が聞こえてきた。震えていた。僕からはそのうしろ姿しか確かめることができないが、かつては教室の級友たちを残さず怯えさせた彼女が、今や見る影もない。ひどく小さな背中だった。

「そうだな。最後は、君しかいないよな」

 やつはとうとう立ちなおって、まっすぐに彼女を見据えた。

「この小さな街を騒がせた事件も、今夜で仕舞いだ。どうせ証拠のテープも手放していないんだろう。そいつを始末して……そうだな、オレはどこか遠くで暮らすよ。君を殺して、人喰いジャックの夜はここで終わりとしよう。なぁ、魔女さん」

 クロエは無言のまま、じっと両手を広げている。

 僕の足は恐怖にすくんで動かず、そして一歩、怪人の足が水たまりを踏んだ。

「ク、ロエ、ちゃん……逃げ、て」

 むこうから切れ切れの台詞が届いた。わずかに視界の端で、ロリ子が泥をかき、転げながらも立ちあがろうとしていた。尋常のことではない。彼女は眼球があった場所を中心に、顔を真っ赤に濡らして、もはや人間の様相ではなかった。意識があるだけでも奇跡的であるというのに、まだ戦おうというのか。

 怪人はひどく面倒くさげに彼女へ一瞥すると、ぼそりと呟いた。

「逃げて、生き残ることに意味なんてあるのか」

 そのまま雨空を見あげる。街灯のスポットライトが彼ひとりを舞台に立たせている。その上の黒く濁った雲にむけて、彼はこの場の誰に告げるではなく、言葉を漏らした。

「結局、オレにはなにもなかったよ。――なにも、なかったんだ」

 刹那。

 ぱりん、と音を立てて暗闇が訪れた。

 僕らの真上でわずかな光源となっていた街灯の一つが割れたのだった。どうして? わからずとも見あげてしまう。人間の性だ。〝人喰いジャック〟にも未だそれが残っていたのか、動きをとめて上方をぐるりと見渡した。黒い雨雲が広がる。星の一つも見えない。冷たい雨が降る。そして、目線を戻した先には、彼女がいた。

 彼女。それはクロエのことではない。

 片目をえぐられ、呻き声を漏らしていたロリ子も、まだ膝をついたままだ。

 ああ、遠い。だが、それでもわかるんだ。公園の打ち捨てられたバスケットゴールのむこうにもう一本の電灯があり、放射状に広がる黄色い光の下には見覚えのあるシルエットがあった。

 三つ編みをした少女だった。

「本当に怖ろしい人間とは」

 不思議なことに、距離も雨音すら関係なく、彼女の声はよく通った。

「『可能だから』ただ、それだけを理由に実行する人間こそが真に怖ろしい、と私は考えるの」

 少女はベンチにあがり、両手を広げ、その狭い足場の上でくるくるとまわりはじめた。

 この静かな夜の中で、彼女の周りだけが色をもって見えた。

 僕らは夢を見ているのかもしれない。

「ねぇ、一也くん。あなたもそうだったはずでしょう。十年も二十年も先まで語り継がれる、そんな都市伝説になるのではなかったのかしら」

 かつての魔女を彷彿とさせる台詞に、彼女が本物の深泥椎子であることを知る。

 あのオンコの樹の下で暗闇に魅入られ、仲間より一歩先に大人を目指した彼女。

 残された幼さから生まれた心の歪みが、姉妹のように育った従姉を殺してしまった。

 それはあるいは、愚鈍な僕らの所為だったのかもしれず。

「私はこの世界と踊りつづけるわ」

 くるり、くるりと彼女はステップを踏みながら、雨空にくふくふと笑い声を響かせた。

 呆けた顔でそれを見つめていた怪人は、ふと己を取り戻した様子で、あわせて叫んだ。

「そうだな! オレたちは永遠になるんだ。このつまらない、閉ざされた街の記憶となって生きつづけるんだ!」

 咆哮が外界から隔絶された昏い公園に響き渡る。

 もしかしたら、それは時を超えて、未来の僕の心にも刻みつけられたのかもしれない。

「オレが夜なんだ! オレこそが〝人喰い(カーニバル)ジャック〟だ――!!」

 再びぱちんと弾けた泡の音が鳴り。

 彼女のスポットライトは砕け、周囲は完全なる闇に包まれた。

「シイ、だったの」

 とクロエの呟きが聞こえる。

 その瞬間、僕は彼女を押しのけ、伝説に昇華した怪人がいるはずの場所へ、拳を握りしめて走りだした。

 それは走馬灯の速さと、悲しみを孕んで。

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