「幽霊を見たんだとさ」
一九九八年の四月。僕は地元に戻り、御堂山高校に入学した。
入学してまだ一週間も経たない頃の話。中学までは札幌の私学に通っていたことから、クラスには見知った顔が皆無だった。先にも言ったとおり、当時の僕は自己主張をするのがひどく苦手な少年で、友達のいない教室はまるでジャングルの奥深くにいるように感じられていた。
ある昼休みのことだ。売店で買ってきたパンを頬張ろうとしたところ、机に影が差した。
見あげると一人の少女が立っていた。
「えーと」
どうにも気の強そうな顔をしていた。やや細めな瞳はきゅっと釣りあがっており、腰に手をあてたポーズがとても似合っている。そして、三つ編みにメガネだ。
「君は、委員長だ」
「……それ、見た目でつけたあだ名だったら、後悔させてやるわよ」
「ごめん」
どうやら自覚はあったらしい。なるほど、中学時代から散々言われ慣れているのか。確かに誰もが連想してしまう出で立ちだ。それならそれで髪形くらい変えればと思うが、いや、もしや? 高校にあがってもなお三つ編みで通すところを見ると――。
ふむ。さてはこの女、まんざらでもないと見た。
「で、委員長。なにか用?」
「あんた、結構度胸あるのね」
「マジごめん」
つい、ひっこみがつかなくて、と今度は素直に詫びた。
彼女はなんとも言えない顔で見おろしていたが、こちらの曖昧な笑みを見て、事情を悟ってくれたらしい。おでこに手をあてて、やれやれとばかりに溜息をつかれてしまう。
「御厨くん。もしかして私の名前、覚えてない?」
「あー……」
「深泥よ。深泥椎子。お互い珍しい名字だし、てっきり憶えてくれてるもんだと」
同じマ行なのにねぇ、と彼女はむくれた。
「悪い。でも深泥さんこそ、どうして僕の名を?」
「クラスで自己紹介やった時さ、あんたの話が面白かったから」
そんなに面白いネタを披露した覚えはなかったが、それで話しかけてくれたのなら嬉しいことだ。なにせ、ここはジャングルの奥深くだから。
と、そこで思い至った。あの時の自己紹介は出席番号順でやった気がする。〝みくりや〟に〝みどろ〟なら番号も相当近いはずで、もしかしたら彼女は僕の次に話をしたのかもしれない。となれば彼女が呆れるのも無理がなく、とたんに頬が紅潮するのを感じた。
「……で、ええと。なんの用かな」
「まぁ、その、聞きたいことがあってさ」
「初恋の相手なら近所のお姉さんだった」
「あんたが馬鹿なやつだってのは、もうわかったから」
名前の件も含めて、馬鹿なやつだからと思ってくれればいいのだけど。
ふと、彼女はあたりに視線をやって、顔を寄せてきた。左右のおさげが僕の肩口に触れる。僕は気づかれない程度に少し身をひく。
「御厨くんって、同じ中学じゃないよね。どこからきたの?」
「札幌の、あれだ。私立だよ。元々こっちが地元で、高校で戻ってきたんだ」
「なるほど。だから知らないわけだ」
「知らないって、なにを?」
「同じ出身なら聞いてないはずがないし、周りの学校にだって噂になってたくらいなのにさ」
だからなんの話、と言いかけたところで彼女がすっと指をむけた。つられて隣を見る。そこには春の日差しに温められた空の机がある。
僕はそこに座る女の子を知っていた。
「黒田のやつと、仲が悪いの?」
そう言うと、深泥はひどく嫌そうな顔をした。ともすれば吐息もかかる距離できつく眉をしかめられると、そんなつもりがなくてもドキドキしてしまう。
「あーいや、黒田はさ。さすがに隣だし、名字は憶えてて」
「仲がいいとか悪いとか、そういう話じゃないのよ」
こちらの台詞を遮って、彼女は吐き捨てるように告げた。
「あいつにかかわると後悔するわよ」
「……どういう意味」
「中学の頃からね、あいつ、魔女って呼ばれてるの」
聞き慣れない言葉に戸惑う。
魔女? 視線でそう問いかけてみると、彼女はあらためて周囲を見まわした。今さらながら、机の持ち主が帰ってこないか確認していたのだと理解する。
「私だって、高校生にもなってこんな話をするのはどうかと思ってるよ」
「僕もこういう話はあんまり得意じゃないな」
「でも、なにも知らずに地雷を踏もうとしてる子を見て見ぬふりってのもね。後味悪そうで」
彼女はかぶりを振る。眉間には軽くしわが寄り、唇からは再び深い溜息が漏れでる。
「去年、あんたと同じように魔女にかかわったやつは、しばらくして学校にこなくなったわ」
「それって――」
「私はちゃんと忠告したからね。後悔しても知らないんだから」
こちらの問いかけには構わず、彼女はくるりと踵をかえした。三つ編みが遅れて空をきり、そのまま離れていく。僕は唖然とする他ない。
確かに隣の席の少女には妙なところがあった。
黒田絵里子は誰とも群れない。女子というものは必ずグループをつくって、弁当を食べるのも教室を移動するのも常に一緒というイメージがあったが、彼女だけは例外のようであった。いつもひとりでいる。常に眠たげな目をしていて、席に座っている時は黒板を見るか、窓の外を眺めるかのどちらかだ。休み時間に誰かが寄ってくることもなく、昼になればふらりと姿を消してしまう。そのふるまいは、深泥のような人間には理解しがたいのかもしれない。
でも、それだけで魔女と呼んで忌み嫌うだろうか。
魔女だぜ? そんな言葉、今日び本の中でもそうそう登場しない。
「悪いな、あの委員長にゃ驚いたろう」
また唐突に声が降ってきて、驚き振りかえった。
そこには空き机に腰かける男が一人。足など組んで、妙にキザったらしい。
「レオだ。よろしくな」
このジャングルの中で、一日に二度も人間に出会うとは。
こういっためぐりあわせは大切にするべきだ。あの中学の頃を思えばなおさら。でも、ツッコミもおろそかにしてはならない、というのが僕なりのルールである。
「君の名前は確か、呉緒さんではなかったか」
「なんで、おれのは覚えてるんだよ! 普通、委員長の方を憶えてやるもんだろ。あれでも女の子なんだぞ?」
「おい呉緒」
「やめて……クレオは格好悪いから、レオって呼んでくれ」
「なぁ浅井くん」
「突然の人見知りもやめてくれます? レオだ、仲よくしようぜ」
無理矢理、握手をされてしまった。
うしろの机に頬杖をつき、彼を見あげる。浅井呉緒はなかなかに背が高く、口を閉じてさえいればさぞやモテると思われた。なにかスポーツでもやっているのか、肩まわりといい二の腕といいなかなかに太い。短く刈った髪形に精悍な顔つき。口の端だけをあげた笑い方が様になっている。でも、どうしてだろう? 彼からは、僕と同じくらい馬鹿な匂いがするんだ。
「で、浅井」
「レオだ」
おまけに諦めも悪いときたもんだ。
「……レオ。さっきの委員長だけど、お友達?」
「中学じゃ同じクラスだった」
「クラスメイトを魔女呼ばわりってのは、どうかと思う」
「まぁ、おれもどうかとは思うけどさ」
両手を広げて浅井、いやレオは言う。
「でも、黒田のやつが皆にそう呼ばれてたのは本当だよ。色々あってな」
「学校にこなくなったやつがいるっていうのは」
「それも本当の話」
努めて真面目を装っているが、その流し目と口元に浮かぶ笑みは、どう見ても面白がっている様子だ。ちょうど、うちの妹がよくこんな表情をする。
「そんな話を、どうして僕に?」
だが、あえてのってみることにした。馬鹿な話はよせと追い払うのは易いが、夜、気になって眠れなくなる可能性もなくはない。なにせ魔女だ。先の〝委員長〟とは趣が大分異なる。とてもじゃないが、普通の女の子が呼んだり呼ばれたりするようなあだ名じゃない。
「中学で黒田の隣の席になったやつは、どっかの誰かさんと同じく彼女にちょっかいをだしていた。軟派なやつでね。でも、人気があって、誰もが〝陰気なクラスメイトにも声をかけるイイヤツ〟って見てたんだよ」
「僕はちょっかいなんてだしてない。せいぜい挨拶くらいなもんだ」
「あいつもそう言ってたな。で、やがて学校から姿を消した」
先ほどの深泥を真似てか、仰々しく首を振るレオ。彼女とは別な意味で様になっている。なんというか、古いコメディを見ているようだ。
「なにがあったの?」
「わからない」
それじゃ話はここで終わりじゃないか。
でも、そう言いかけたところで制された。指を一本前においたあと、彼は先を口にする。
「ある日、街であいつと会った。すっかり変わっちまっていた。どうして学校にこないんだと言っても変な風に笑って見せるだけで、格好もすっかり様変わりしててさ。おれはとうとう聞いたよ、黒田になにかされたのかって。すると、あいつはなんて答えたと思う?」
僕はただ唾を飲みこんだ。ごくり、という喉の音がレオにも聞こえただろうか。
「幽霊を見たんだとさ」
「……え?」
幽霊と言ったか。尋ねかえすと、彼は神妙に肯く。どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「本当になにをされちゃったのやら。とにかく、それが彼女を〝魔女〟と呼ぶ理由の一つだ」
相づちの一つも打てずにいると、彼は再びキザな調子にもどり、にやりと笑った。
「おまえも近く幽霊を見る羽目になるかもしれないぜ、なぁ御厨クン」
結局、僕は肩を竦めるだけに留めた。この時はまだ、下手な嘘だと思っていたからだ。
しかし、それからしばらくして、事件が起こる。