「人に短期記憶と長期記憶があるのは知ってるよね」
秋になった。
受験勉強は遅々として進まず、昼間は図書館にこもる時間が長くなった。シイが好んだあの席で赤本をめくっていると、たまに後輩に声をかけられた。七不思議は未だ生き残っているようだった。僕は毎回、適当なホラ話を披露し、嬌声をあげて逃げていく彼女たちのうしろ姿に手を振った。そして夜、誰もいなくなった校内を歩いていると、一年の頃に何度も忍びこんだ日のことが思いだされた。
一九九八年の春、僕らは出会った。
オンコの樹の下に棲みついた子猫をこっそり連れ帰ってしまったクロエが、それを誤魔化すため、クラスメイトたちに嘘をついた。当時の僕らはまだ互いによく知らない仲であったゆえに、真剣に知恵を絞ってやりあった。ずた袋に生肉とカセットテープを詰めてつくった即席の化け猫は、今でも後輩の間で語り継がれていると聞く。「あなたたち、才能あるわよ」とクロエが初めて見せてくれた楽しげな顔が忘れられない。
それから一九九九年の夏まで色々な馬鹿をやった。ある時、レオの先輩がミニFMでホラー特集をやるのだと話をもってきて、夜を徹して投稿のネタを考えたこともあった。天井を歩く座敷童とか、目が光る人形の話とか、うちの学校の七不思議にさらなるスパイスを加えて、次々と番組にパソコンからメールをおくった。しかし、ロリ子がすました顔で持ってきたワインのボトルの所為で、まずレオが倒れ、次にシイが轟沈し、最後にロリ子が自爆した。朝方まで生き残れたのは僕とクロエだけだった。
「人に短期記憶と長期記憶があるのは知ってるよね」
雀が鳴きだすのを耳にしながら、布団を抜いたコタツに頬杖をついて、彼女は言った。
「どれだけ数学の公式を暗記して試験に臨んでも、本番になってぽろっと忘れてしまうことがある。それは、暗記したつもりでも短期記憶にしかなってないからとよく言われますけれども、オズくん?」
「なんでありますか、クロエさん」
「どうやったら記憶が長期化されるか、知ってる?」
「知ってたら、もうちょっとマシな点数がとれてるさ」
「なら、いい話を教えてあげましょう。答えは睡眠よ。短期記憶は眠ることで忘れがたい長期記憶に変わるの」
クロエはこうも言っていた。
「逆に言えば、わたしたちはいずれ、今日の日のことも忘れてしまうのでしょうね。長期記憶化されるのは、きっと最後に交わしたこの会話だけ。こんなに楽しかったのに、残念だけども」
それではさようなら、と言って彼女はベッドに潜りこんだ。僕も気づけばちゃぶ台の上に突っ伏していて、皆が仲よく起きたのは昼過ぎだった。案の定、楽しかったという気持ちだけを残して、他のほとんどは忘れてしまっていた。
たまに、音楽室に忍びこんでピアノを弾く。
ベートーベンやバッハは中学以来だったが、楽譜を眺めているうちに、不思議と指が勝手にメロディを紡いだ。僕の長期記憶。いつまで覚えていられるのだろう。
――ただ一度だけ、レオと、クロエについて話しあいをもった。
「無理だよ」
そう彼は言った。
「あいつの話をすると、ロリ子が怯えるんだ」
かつて幾度となく集まった音楽室で、彼は夕日を背にして俯いていた。
僕は結末を悟りながらも、言わずにはいられなかった。
「でも、あいつは……もうずっと学校にもきてない。このままじゃよくないって、なぁ、レオ。そうだろ?」
「クロエを部屋から連れだしたいなら、ひとりで行けばいい」
もう四人で集まるのは無理だ、とレオは呟く。
「あの時、おれたちはクロエとおまえに助けられた。もし、警察を呼んできてくれなかったら、あるいはあのあと戻ってきてくれなかったら……おれもロリ子も、やつに殺されてたと思う」
血を流しすぎて意識を失ったレオは〝人喰いジャック〟が手をとめた本当の理由を知らない。
「おまえらは命の恩人だ」
「……それなら」
「でもな」
強い調子で遮られ、喉からでかかった台詞を飲みこんだ。
「理屈じゃあれが最善だったってわかってる。そうしろと言ったのもロリ子自身だ。結果として、おれたちは救われた。あれ以外の選択肢はなかったのかもしれない。でも、それでも」
彼は両手で顔を覆い、拒絶を隠しきれずに首を振った。
「おれは、ロリ子をおいて一度逃げたおまえらが……どうしても許せないんだ」
繰りかえして口にされるその台詞。
「もう、あの頃みたいにはできないんだよ、御厨」
そんなことは。
そんなことは僕にだってわかってる。
でも、知ってるよな。学校ですれ違うロリ子の拳には未だにかさぶたが絶えない。あんなに気高かった彼女が、見ろよ、今じゃ下ばかりむいて歩いてるんだ。あいつの笑顔が、どれだけ格好よかったか憶えてないっていうのか?
それにレオ、おまえだって。
「嘘でもいいんだ」
僕は言う。
「あの時みたいに僕の背中を押してくれよ」
許してくれなくとも構わない。でもお願いだ。一度だけでいい。ふりだけでもいい。初めて彼女のアパートを訪れたあの放課後のように、二人が一緒にきてくれれば、クロエを、きっと。
――無言の時間はどれだけつづいただろうか。
太陽が地面に近くなり、室内には鮮やかな赤みが増していく。次第に景色が溶けていく。
「……御厨」
そうして彼が絞りだした答えを、僕は聞いた。
「わかったよ、御厨」




