「そんなに殺してほしいのなら、殺してやるから、さ」
「御厨。仮におまえが言うとおり、オレが魔女さんの部屋に忍びこんだとしよう。椎子の家出を利用して、彼女の元へ赴き殺害したと――だが、それじゃあおかしいよな。椎子の生存確認はあの三日間の最後の夜にとれている。そこの魔女さんが電話を受けたんだろう? そして、椎子の従姉妹についても翌日の始業式のあと、おまえら自身の目で確認しているんだ。その直後に首を残して体だけ持ち去られたというのは、いくらなんでも無理があるんじゃないか。さすがの人喰いジャックも時間までは操れまい」
大降りの雨の中、明かりの下でとうとうと語る樫木を包囲する輪は次第に狭くなっていた。お互いの距離はもはや五メートルもない。彼がベンチから立ちあがれば、もはや数歩で手が届きかねない位置にいる。
僕はともすれば叫び声に変わりそうな勢いを必死に抑え、しかし熱を持ってこう答える。
「あんたは僕からアリバイを奪った」
未だ薄く笑みを浮かべつづける樫木。その余裕を打ち砕かなければならない。
「つまり、あの三日間に僕にアリバイがあったなら、あんたはひどく窮したはずだ。その間にやらなくちゃいけないことがあったんじゃないか」
「ほう。というと?」
「始業式の日までに、すでに辺見利恵は死んでいたんだ」
だが、やつの愉悦はますます深まるばかりだ。
感情の棘に鋭い痛みを感じる。
「ははは、そいつは矛盾してるだろ。だったら、おまえらが出会った辺見利恵はなんだったんだ? まさか白昼夢でも見たというのか? その証言こそが警察の疑心を生んでいる原因だって、まだわからないのかよ」
「あれは辺見利恵ではなかったんだ」
はっと他の三人が息を飲んだのが感じられた。
そうだ、この推理についてはまだ誰にも話していなかった。確信が持てたのが、今、この場であったから。
「あれはシイだったんだよ」自然と語気が強まっていってしまう。「彼女と従姉の間には、思わず見間違えてしまうほどに容姿の共通点があった。違いは髪型くらいなものだった。シイはあの三つ編みをなくしていたが、それはカツラでごまかせる程度のものだったんじゃないのか? あとは化粧で補えるほどに――」
あの時感じた違和感は、唇にひかれたルージュだけではなかったのだ。女は化ける。そして、かつての廃墟での一幕について、彼女の話に納得がしきれなかった理由も。
「それはまた勇気のある推理をするものだ。かつてホームズは言っていなかったか? 想像とそれには大きな違いがあると」
「だけど、そうとしか説明がつかないんだよ」
「なら、おまえはこう言うのだな。辺見利恵の殺害には、深泥椎子が深く関わっていると、そう言うんだな?」
この時まで僕が打ち明けられなかったのは、それがあまりにも……おぞましい考えであったからだった。
あの洞爺湖への旅行から帰った頃、シイは猟奇殺人に興味を持っていた。それはてっきりクロエへの対抗意識から生まれたものだとばかり思っていたが、真相は違ったのではないか。
「あんたがそそのかしたんじゃあないのか」
となれば、この事件はかなり以前から計画されていたものだとわかる。
振りかえればその素養があったのも事実だ。七不思議をめぐって夜の校舎を歩いたあの日、僕はすっかり彼女に騙されてしまった。
「あんたはシイが家出をするタイミングを待っていたんだ。あるいはそれ自体も仕組まれたものだったのかもしれない。そこでクロエの部屋を使えるとわかって、彼女に吹きこんだんだよ。従姉との〝入れ替え〟を」
「おまえの口から言えよ。もっと、もっと具体的に。ほら、シイはなにをやったんだ」
「――辺見利恵を」
呼びだして、殺害した。
それが、僕と樫木の三日間の裏であった惨劇。
「あんたがそそのかしたんだ……!」
なぜ、僕は泣いているのだろう。
目頭が痛いほどに熱く、ぬぐってもぬぐっても雨粒とともに頬を滴る。
クロエの部屋に辺見利恵を呼びだしたのは、シイだ。そうでなければ見知らぬ人間の部屋にあがるなんて普通はできない。そこで殺害し、首を切断。体は風呂場で解体し、〝人喰いジャック〟の獲物として――調理。
彼女は殺害した従姉の衣服を着て、あの病院を訪れた。あの〝辺見利恵〟と僕らが出会ったのは偶然などではなく、前日にクロエから電話を受けて、待ちあわせの時間を把握していたからだ。また、本物の辺見利恵はクロエの部屋に車でやってきたのだろう。かつて魔女の住処と呼んだあの閑散としたアパートでは目撃者もいなかったに違いない。それを病院まで運転してきたのはシイであり、死体の首を残したのも彼女。警察は僕らの証言により、あの病院の日まで辺見利恵が生存していたと考えている。それゆえ車の移動にも不審を抱かず、同日に死した彼女の痕跡が車中にあっても特段の追跡をしなかったのだ。
そして、シイ自身も樫木一也の手にかかり、人知れぬどこか山中に埋められてしまったのだろう。あれから処理する時間など幾らでもあったのだから。
警察が僕らを疑い、樫木一也を捜査からはずしているのは、この〝死人〟の移動のためだ。
逆に言えば。
辺見利恵の死亡日時さえ明確にできれば、混迷した現状を切り開けると言える。
「……どうなんだ、僕の推理は。言えよ。僕らが病院で会った辺見利恵は偽物であり、本物はその時点ですでに死亡していた」
僕の宣言に、樫木一也は座ったまま膝に肘をつき、顔を片手で覆い。
だけど崩れ落ちるなどということはなく、低く、くぐもった笑いを漏らすのみだった
「なにがおかしい」
「そりゃ、おまえ。推理の穴に決まってるだろうが」
「……なんだと」
彼は言うのだ。
「それなら、魔女の部屋に鍵をかけたのはいったい誰なんだ? 椎子に渡された合鍵は室内で見つかったんだ。本鍵は病院に入院していた魔女さん自身が持っていたんだろ。おかしいじゃないか! 辺見利恵がバラバラにされたあとで、中から施錠したとでも言うのか?」
それは、僕が意図的に言及を避けてきた最後の壁だった。
「あの三日間におまえかシイが合鍵をつくったなら、それで説明がつく」
「説明がつくだけだろ。なぁ、オレは先にも言ったよなぁ? だったら、その鍵屋を連れてこいって話だよ。できねぇだろ? 警察だって、あの三日間に関しては道内の鍵屋なんてしらみつぶしにあたってる。オレたち全員の渡航記録もな。でも見つからないから、オレは自由に今日まで過ごし、おまえは二日間たっぷりととり調べを受けたってわけだ」
そして、クロエはそれ以上の鍵の複製について証言していない。
背中に隠した彼女を見てしまう。その表情だ。キミがそんな顔をするから、これまで言えなかったんだ。
僕がいなかった頃の物語なんて知りたくない。
でも。
あるいは、と考えてしまう。
この世界に僕がいなかったら、どうなっていたのだろう。
あの日、オンコの樹の下で、〝魔女〟と化かしあいをする〝オズ〟はいなかったとして。
それに巻きこまれた〝ドロシー〟が魔法の靴を履くこともなく。
〝ライオン〟と〝ブリキの木こり〟がここまで長い旅をすることもなく。
一度離れた〝かかし〟も、今と違った形で〝魔女〟と再会し、もしかしたら昔の関係をとり戻していたのかもしれない。
そんな空想が、どうしても消えてくれない。
「樫木。あんたが合鍵を手に入れたのは、あの三日間とは限らない」
これが僕の最後のカードだ。
「僕がいなかった中学の頃、クロエから渡されていたんじゃないのか」
背後でそっと、彼女が僕から距離をおくのを感じた。
こちら側には四人が確かにいるはずなのに、いつのまにかひとりきりになってしまったかのような喪失感が僕を支配していた。
「くは、ははは、ハハハハハ!」
再び樫木は嗤う。夜を切り裂かんばかりに、大声で雨空に声を放つ。
「そのとおりだ! ずっと、おまえが初めてだとばかり思ってたんだろう? だけど、それが真実なんだよ。そこで隠れてる魔女さんにとっては、おまえなんか代役に過ぎないんだ。ただ読む本を変えただけ、そんなものなんだ。オレたちの人生なんて、所詮はそんなものでしかないんだ。はは、よく言ってくれたよ! はははは!」
「――とうとう認めたな」
姿勢を低く僕は駈けだした。ばしゃばしゃと水たまりを踏み浮く。互いの距離は五メートルにも満たない。届くまでには三秒も必要ない。舌戦で勝てぬと知って、今度は腕力で挑もうとしている――そう、樫木は考えたはずだ。ベンチに寝かしていた筒状のバッグを掴みとり、ファスナーを開けぬまま振りかぶって、腰を浮かせた。だけど、こっちの狙いはそうじゃない。彼の足元に転がったカセットテープレコーダー。そいつはまだ、とまっていないんだ。投げ捨てた時から現在まで、録音ボタンを押されたまま。
記録を手に入れれば、僕らの勝ちが決まる。辺見利恵の入れ替わりと、樫木一也の鍵の所持を暴く決定的な証拠となる。だけど、そいつも手に入れられたならの話。本当に叶うのか? ぐるぐると思考がめぐる一瞬のうちに、彼の凶器が僕の眼前に迫っている。
とっさのプラン変更が僕を救った。横殴りの一撃が放たれる直前に、身をのけぞらせ、同時にレコーダーを蹴り飛ばした。飛沫をあげて暗闇に消えていくそれに樫木の視線が流れる。その隙を見て地に手をつき、体勢を立て直した。これで五分だと泥にまみれた拳を握った瞬間。
うしろから突進してきたレオが、樫木を押し倒していた。
「もうやめろ、カカシ!」
彼の叫びを聞きながらも、僕はレコーダーを追って再度走りだす。
「おれが悪かったんだ。あの時、おまえの肩の限界に気づけたのは、相棒のおれしかいなかった。それなのに目の前の勝ちに魅せられて」
「離せよ、呉緒……!」
「おまえの人生を狂わしちまったのは、おれなんだ! 殺すならおれにすればよかったんだ。なのに、どうしておまえはシイを――」
「離せって、言ってんだろうがァ!」
目的のものを拾って振りかえった時、まだ二人は泥の上で揉みあっていた。
だけど、すぐに均衡が崩れる。あがったのはレオのくぐもった悲鳴。その太ももには、ああ、いつのまにとりだしたのか、一振りのナイフが突き刺さり、街灯の明かりを照りかえしていた。
「そんなに殺してほしいのなら、殺してやるから、さ」
二つの影のうち、一つだけが立ちあがり、放りだされた筒状のケースを拾いあげる。
ファスナーがジィィと開けられ、かつては正しく野球に使われていたはずの凶器が、今度こそ姿をあらわにする。
「人喰いジャックは、女しか狙わない怪人だったはずなのにな」
バットが左手に持たれ、振りかぶられようとした、その刹那に。
先ほどのレオを遥かに凌駕するスピードで、二発目の弾丸が飛びこんでいった。
〝不可視の魔弾〟、あるいは〝鋼の死神〟、あの勇ましい男たちに〝心を失くした刃〟とまで呼ばせたもう一匹の獣が、凄まじい雄叫びをあげてジャックに襲いかかる。
慌てて繰りだされたバットは、勢いがつく前に右の受けによっていなされて、地面を叩いた。衝撃に耐えきれなかったのか、彼は左手からそれを取り落とし――。
――左、だって?
不意に浮かんだ懸念は、血飛沫をまとって現実となる。
「オレの今の利き手は、こっちじゃないぜ。教えてなかったっけなぁ、ロリ子ちゃん」
彼女は右目を押さえて、数歩後退していた。その指の隙間から、とめどなく血液が流れでている。街灯がいやに明るい。手首を伝って白袖を肘まで染める紅が、傷の深さを物語っている。なのにどうして、また敵にむかっていけるのか。
大気を切り裂いて放たれた前蹴りが、怪人の反応よりも早く伸びて、鳩尾をえぐった。
「ぐぅぅ……!」
今度は樫木がさがる番だった。唾を散らして咳こみながらも、しかし新たな刃を持つ右手を振って追撃を寄せつけない。膠着の時間が生まれて、ロリ子が案じたのは己ではなく。
「レオくん、動ける!?」
「あ、く……」
返事をしかけるも、途端に彼はくの字になって苦しみ悶える。足にはまだナイフが埋没し、こちらも広くズボンを染めあげている。
「……わかった、動かないで。そのままでいるんだよ」
「だけど……おまえ、だって」
息が浅い。ロリ子と同じく、いやそれ以上に血が流れるスピードが速く見える。動脈を傷つけている可能性があった。
「そのナイフ、絶対に抜いちゃ駄目だからね」
言って彼女は右目から手を離し、レオに背をむけた。勢いを増す出血を見せまいとしたものであり、ダメージから復活した人喰いジャックと対決するためでもある。
一方で、未だ身動き一つとれないでいる僕は、なんなのだろう。いつの日かはクロエを守ると勇んで宣言した男が、生まれたての小鹿のごとく震える二本の脚をそのままに、こんなに離れたところでぽつんと佇んでいる。
「オズ君!」
この時、ともに戦えと言われたなら、僕は応えられていただろうか。
だが、実際にかけられた言葉は。
「……警察を呼んできて」
息も荒くそう言った彼女の姿に、足がびくりと一際大きく揺れた。
遠目でもわかる。顔の半分が真っ赤に濡れている。ほとんど閉じられた右瞼の奥には漆黒の闇が広がっており、そこから流れでる血液が、ぼたり、ぼたりと顎から滴り落ち、薄い胸元に円をにじませている。
僕の背中を打つ雨が、いやに冷たく、返事をかえそうとする肺の収縮を拒んでいた。
「早く! 警察を呼んでくるの! 走れるのは君しかいないんだから!」
反射的にズボンのポケットを漁った僕は愚かだ。この世界に一年以上もいながら、己がまだ携帯電話を所持していないのを忘れている。
僕が携帯を買ったのは四国の田舎に進学したあとのこと。ひとり離れた土地へやってきて、友人をつくるためのツールとして手に入れたつもりだったが、それはただ忘れてしまっていただけで、本当はこの夜の失態からではなかったのか。
倒れ伏すレオを見る。視線が、あってしまった。
「お、オズ……っ」
残り僅かな空気を絞りだすかのごとき、かすれた叫び。
訴えかけられたその意味は、形をなしていなくても理解できた。
だけど、僕は。
「レオくん、大丈夫だよ。そんな顔しないで。あなたは私が守るから」
言って、ロリ子は静かに微笑んだ。
街灯に照らしだされたその笑みは、こんな状況にもかかわらず、どきりと胸を打つほどにとても、とても格好よかった。
僕らがあっけにとられている間に、彼女は顔をそむけ、未だ大きく肩を上下させる怪人を正面に見据える。両手をそろえて前に突きだし、それは前羽の構えか。空手において最も攻防に長けたスタンス。
「あたしね、ずっとレオくんに秘密にしてたことがあるんだ」
対する樫木が両手にナイフを握って咆哮を轟かせた。
あとを追うように、雨音がざぁぁと耳奥にノイズを走らせる。
「こんなやつ、大したことないんだよ。あたし、本当はものすごく強いんだから」
――その告白は、真に彼女が口にしたかったものではないと。
僕は知っている。いいや、僕だけしか、まだ知らない。それなのに加勢も求めずひとり〝人喰いジャック〟にむかうロリ子の背中が、これまでになく大きく映った。
「なにしてるの、オズ君! 走って! クロエちゃんを連れて、早く行きなさい!」
レオの視線を振りきるように背中をむけ、駈けだした。
右手にはレコーダー、左手には同じく立ち竦んでいた魔女の彼女の手首を掴んで。
大粒の雨を一身に浴びながら、僕は逃げたのだった。
〝人喰いジャック〟と傷を負った二人だけが、その場に残った。




