「あの日、あたしがもう少し強かったなら」
ロリ子と話したことを覚えている。
ある日、高校の渡り廊下で僕らはばったりと顔をあわせた。
そのまま通り過ぎることもできたはずなのに、足をとめてしまった。それはむこうも同じようで、己の気持ちがわからないといった風に、残された瞳には色濃く戸惑いが浮かんでいた。
「……や」
と、絞りだすように彼女は言った。
「ああ」とだけ答えて、僕は気づく。制服の袖から覗く彼女の拳が、かさぶたができるほどに痛んでいる。
視線に気がついたのか、彼女はぎこちなく両手を隠した。
「恥ずかしいものを見せたわ」
目を逸らし、消え入りそうなほど小さな声でそんなことを言う。
細い肩が小刻みに震えていた。
二人だけの時に見せてくれた、あの気丈さは、もう見る影もなく。
「なぁ。ロリ子……」
「わかってる、わかってるから」
ふらりと彼女は窓辺に寄りかかった。この一年、ほとんど顔をあわさぬ間に伸びた前髪が目元に深い影をつくり、その表情を覆い隠す。
「手のこれはね……。自分でも馬鹿だと思ってるよ。でも、不安なの。もっと強くならなきゃって、叩くのをやめられない」
躊躇するそぶりを見せながらも、結局片手を胸元まであげて、その甲の惨状を露わにした。
拳の部分が、真っ黒になっていた。何度も何度も血がにじんで固まった痕だ。
「あの日、あたしがもう少し強かったなら」
やがて傷だらけの手が暗い目元に触れる。
彼女の右目は、今も眼帯に覆われている。
この先、癒えることはないのだろう。
「あるいは、もう少しでも弱かったら、レオくんまで殺されていたかもしれない。それを思うとね。……いや、違う。違うな」
その呟きには、自嘲という以外に形容が浮かばない。
「あたしは、自分がこんなに弱いなんて知らなかったんだ」
あの夜から、もう随分と経つのに。
〝人喰いジャック〟につけられた傷は、僕らを未だに蝕んでいる。
痛んだ拳を握りしめる彼女にかける言葉を探して、時間だけがいたずらに流れていった。
不意に知らない生徒に肩をぶつけられ、たたらを踏む。うしろから届く詫びる声に返事をする間に、今度はロリ子がむこうへ歩いていってしまう。
「待てよ!」
彼女はもう待ってくれない。
「なぁ、ロリ子。僕らは勝ったじゃないか!」
彼女は振りむいてもくれない。
くれたのは、ただ少しだけの感傷だけだった。
「僕らは勝ったんだ。そうだろ……?」
「なにに勝ったと言うの」
かえす言葉はとうとう見つけられなかった。
それから何日かのちに、ニュースが流れる。街で新たな死体が見つかったという話。報道によると、死体にはやはり獣に食いちぎられたような痕跡があり、今度の〝人喰いジャック〟は女の髪を持ち去るようになったらしい。
樫木一也のあとも事件は終わらなかった。舞台は北海道から海を越えて、一年が経った今では全国で死体がバラバラになりつづけている。
コピーキャット。
劣化しながらも増殖をやめない都市伝説たち。
あれから〝人喰いジャック〟を名乗る犯人は数えるのがおっくうになるほど現れた。その初期には、警察は本物と偽物を区別するための情報を秘匿していると囁かれていたが、日々事件が増えるうちにそれもすっかり忘れ去られたようだ。なにが本物でなにが偽物であるか、もはやそれも些末なことなのかもしれない。
あるいは樫木一也もまた、ただの模倣犯でしかなかったのか。
彼はいったいなに者だったのだろう?
探偵になりそこなった僕らには、その答えを知る日は二度と訪れないのだ。
「あれから毎日、彼女の夢を見るのよ」
去り際にロリ子が呟いた台詞だ。
僕らが好きだった親友は、もういない。
残されたのは冷たいその事実だけで。




