「まさか君たちが人喰いジャックだったなんて」
さあ、〝人喰いジャック〟の夜を語ろうじゃないか。
一九九九年のあの予言から遅れて二か月、肌寒い風が吹くようになった初秋。まだレオもロリ子も離れていってはおらず、クロエがかろうじて魔女のままでいられたあの日。
残された四人はそれぞれの思いを胸に、ある男の後をつけた。
新谷市が小さな街と形容されるのは、市としては下限に近い六万人をきる人口のためだ。百九十万人もの人々が住む政令指定都市の隣に位置していれば、その印象はなおさらだろう。しかし、札幌のベッドタウンを狙って開発に力を注いできたことにより、公共施設だけは不釣りあいにも整えられている。そのため閑静な住宅街を歩いていると、突如ぽつんと広大な公園に行きついてしまったりもする。
彼が足をとめたのも、そんな場所の一つであった。
「おあつらえの舞台だとは思わないか」
尾行には気づかれていたらしい。
近年の住民の高齢化もあってか、まだ夕暮れ時にもかかわらず、外を出歩く者は他にはいないようだった。それが静寂となってあたりを重苦しく包んでおり、投げかけられた言葉はその声量に反してよく通って聞こえた。
「オレを殺しにきたんだろう」
樫木一也は漆黒の衣装を身にまとい、両手を広げて、姿を見せない僕らへ意を示した。もはやこうしていても、らちが明かないか。とうとう四人ともが物陰から歩みでた。
「カカシ……」
「そいつはやめてくれと言ったよな、呉緒。オレたちはもう、あの頃の子どもではないんだぜ。誰だっていつまでもは子どもでいられないんだ」
その口調の変貌に、レオは強く下唇を噛みしめた。
逢魔が時の斜陽が、彼の半身に赤いコントラストを生みだしている。
「椎子が死んだ部屋は密室であったそうだな」
密室。そうだ、密室なのだ。僕らはあの時、確かに自室の鍵を開けるクロエを見ていた。ミステリの中でしか使われないと思われていた単語が、今、現実の僕らを苦しめている。
ゆえに問いかけに耐えきれず、そのクロエが一歩前にでた。
「今さら……あなたが探偵を気取るの?」
「そうさ。解決編をやろうっていうんだ、オレ以外の誰が適任だって言うんだい?」
恋人を殺された悲劇の主人公。
端からであれば、そういう見方もできる。
だが、今この場面でそれを言える樫木一也の精神は、僕らの理解から遙かに遠く、もはや超越している。
「――なぁ、まずはこっちにこいよ。そんな離れたところにいたままじゃ話しづらいぜ」
クロエが返答に戸惑っているうちに、彼の声色が一層暗く沈んだ。
「こいと言ってるんだよ。ちょうどあっちにベンチがある、座って語らおうじゃないか」
歩きだした彼のあとを躊躇いながらも追いかけた。周囲の影が伸びていく。誰もいない公園で、風見鶏が尾を揺らしている。
ネットのたるんだテニスコートの横をとおり抜けると、ひらけたグランドにストリート用のバスケットゴールが設置されていた。こちらのリングには網もなく、足元に萎んだボールが打ち捨てられているのみである。それらを見渡す位置にベンチが数基あり、その一つへ彼は肩にかけた筒状のバッグを無造作においた。僕らも距離をとって立ちどまる。
「なんだよ、隣りあっておしゃべりできるかと思ったが。意外にシャイなんだな」
無言を拒絶の証と受けとったのかそれ以上は求めず、樫木は一人ベンチに腰をおろし、足を組んだ。俯き加減のその体勢では、目深に被られたキャップが彼の表情を覆い隠してしまう。
「深泥椎子が死んだのは密室の中であった」
目元に落ちた影は、彼自身の影だ。
この暗い声は、彼自身の深い闇だ。
探偵の役割を演じて語る彼が、僕らの目には度を越えておぞましいものに映る。
「ミステリで密室と言えば不可能犯罪の代名詞のようなものだ。だが、それは現実では〝誰かが鍵をかけた〟という意味でしかない。――鍵を開けて密室を解き放ったのは誰だい?」
「……わたしよ」
「ならば、鍵をかけたのもおまえというのが順当だよな」
無言は否定の証だ。
答えるのにも吐き気がするのだろう、クロエは眉を寄せてきつく瞼を閉じる。
「クロエには入院記録がある。同室の患者もいて、犯行の推定時刻にはアリバイがとれている」
割って入ったのは僕だ。クロエを背に隠すようにして立つ。それを見て、彼は黒い目元の下で唇を左右にひき伸ばした。
「警察にアリバイを確認された、という事実の提供だな」
血に濡れたような赤さを持つ口腔だ。あるいは底の深い井戸のごとき。
「しかし、それにしてもずいぶんと必死じゃないか、御厨クン」と彼は言う。「いやまぁ、そりゃ必死にもなるよなぁ。二日つづけてとり調べを受けたんだろう? 鍵のかかった部屋で死体が見つかったなら、その持ち主が疑われる当然だもんなぁ」
一転して粘りつく口調に、背筋がぞくりと震えた。恐怖ではない。人はどうしてこれほどまでに醜悪になれるのだろうと、まず体が拒絶を示したのだ。
僕はどうにか声色の不安定さを隠して告げた。
「鍵のかかった部屋でと言うけれど――その事実をどうして知っているんだ。樫木、あんたは現場にいなかったはず」
探偵の皮を被ったそれは、ただ嗤う。
「おや、御厨クン。テレビは見ていないのかい。つい最近まで君らのことばかり報じてたんだよ。ああ、そういえばクラスメイトもインタビューを受けてたな。『いつかやると思ってました』ってさ。ははっ、お決まりのコメントじゃないか! 君らの交友範囲の底が知れるな」
その時、かち、かちという独特の音が響いて、樫木の頭上で街灯がともった。夜が訪れようとしていた。いつのまにか風は湿ってきており、これから雨が降るのかもしれない。
彼はキャップをかぶり直すと、薄く開いた口元だけを見せて肩を揺らす。
「報道陣が君らを直撃しないことが不思議だがね。というか、警察もよく解放してくれたもんだ。もしかして親につてでもあったのかな」
黙っていると、不意にうしろから応えがあった。
「わたしに親なんていないわ」
そこに混じった怒りの感情にはたと悟る。
先の問いかけは僕に問われたものではない。矛先はクロエだ。未成年にもかかわらず、たった一人でアパートに暮らす、魔女と呼ばれていた彼女。
「いるだろう? ……おっと、病院からじゃあ、そんな根まわしも無理か。ハハハハ!」
その言葉の意味はわからなかったが、思わず肩越しにクロエを見てしまったことには後悔を覚えた。誰にも触れられたくなかった傷に指を突きいれられた――そんな表情だった。拳が硬く握りしめられ、爪が食いこんでいくのが視界の端に見えた。
「警察に手をまわしたのはあたしだよ、樫木」
僕ら二人をおさえて前へでたのはロリ子だった。今夜の彼女は仮面を脱ぎ捨て、瞳に炎を宿している。レオの前であるのも忘れているのか、鋭い怒気を含んだ口調で言い放った。
「いいか、警察もメディアも押さえたのはあたしだ。その気になれば、おまえに差しむけることだってできた。だけど、わざわざここへきてやったのは――わかるか? 懺悔の時間をやろうと思ったんだよ」
「懺悔ぇ? おかしなことを言うね。だって、雑誌に事細かく書いてあったよ。見つかったあの部屋の鍵は二本。片方は入院中の主が持ち、もう片方の合鍵は殺された椎子に渡されていた。でも、その合鍵はあいつの死体の傍にあったそうじゃないか」
「あんたが言ったとおりだよ。密室の中で殺人なんて起きるわけがない。でも、現にシイちゃんは……殺された。なら、あそこは密室じゃあなかったってことになる」
「隠し通路でも見つかったのかい? ハハハ、そいつはすごい! あそこは魔女の住処じゃなく、実は忍者屋敷だったのか!」
馬鹿言わないで、とロリ子は語気を強めた。
「合鍵は一本とは限らないじゃない。シイちゃんが行方不明になってから……見つかるまで三日もあったんだ。奪った鍵を複製するには十分な時間だよ。それもすぐに警察が特定するはず」
「なら、その鍵屋を連れてこいよ。っていうか、見つけられなかったんだろ? ハハハハ、だよなぁ! 警察こないもんなぁ! じゃあ、その推理は間違ってるんだよ、雪ちゃんさぁ!」
ベンチの背もたれに身をあずけ、彼は黒に染まりつつある空へ大口を開けてはしゃぎ転げた。目尻に指をやり、涙をぬぐうふりまでする。ひぃ、ひぃ、と肺から空気を絞りだす耳触りな音が周囲に響き渡る。
「ていうかぁ? そこの魔女さんは入院の記録があるんだろ。医者の巡回記録もあって、それなら潔白も証明できたはず。なのにどうしてあんな風に報道されちゃったのかな? ねぇ、もしかしてさぁ」樫木はそこで一転、声を落とした。「もう一本、鍵があったんじゃあないのかい」
「……それは」
クロエの返答はそこでとまり、樫木の顔が愉悦に歪んだ。
「正解かぁ。正解者にはホームランをプレゼントだァ!」
座ったまま両手でスイングの格好をとった。そのかつての友の変わり果てた姿に、レオは渋面をつくって視線を外す。
「じゃあ、その三本目を鍵を持っていたのは誰かって話だよ。おい、御厨クン、君に言ってるんだぜ。警察には君が一番しぼられたんじゃないのか? だって、ねぇ。もしも君が合鍵を持っていたなら大変だもんねぇ。アリバイが、ないもんねぇ?」
彼は言う。
「深泥椎子は親と不仲にあり、家出先を探していた。そこに黒田絵里子が入院を理由に部屋を提供した。黒田絵里子が病院でアリバイを得ている間に、御厨浩平が合鍵を使って住居へ侵入し、深泥椎子を殺害。解体。深泥椎子が持つもう一方の合鍵はそのままに、己の鍵で施錠し部屋をでていった。ただ、それだけの話だよ。警察が家宅捜索でもすれば一瞬で終わる事件だ」
ベンチに座ったまま、大仰な身振りで僕らを指さす。
「深泥椎子の従姉である辺見利恵の死についても、ことは単純だ。深泥椎子の所在について問いつめられ、疑いを持たれてしまい、殺害。首を切断。そして車中に放りこんで自演した。胴体を持ち去るために浅井呉緒、村瀬雪の協力を仰ぎ、もちろん証言は偽りだ。警察は今、おまえらの嘘を暴こうとしている」
冷たく乾いた空気に彼の笑い声が響きつづけた。
「まさか君たちが人喰いジャックだったなんて」
「冗談は、よせ」
そう絞りだすも、もう声の震えを隠すことができない。
愚かなことに、あの三日間、僕は宿題もほどほどに家を抜けだしていた。なぜって? それは目の前の彼に誘われたからだ。中学時代の魔女の話が聞きたいかという誘いに釣られ、連日、樫木一也と街へ足を運んでいたのだ。
まさか、こんな狙いがあったなんて考えもせずに。
愚かにも、仲よく語らってしまった。
「殺人犯に仕立てあげられた探偵が真犯人を探すという本がたまにあるけれど」と樫木は嗤う。「実際のところどんな気分だい? やっぱり悲劇のヒーローみたいな感じなのかい」
答えられずにいると、彼は顎をあげ、帽子の陰から糸のように細い瞳を覗かせて、僕に視線を絡みつかせた。
「だが、御厨クン。ここまでだよ」
「……なにが」
「だから、オレがお話をするのはここまでなんだよ。そろそろおうちに帰らないと、門限が厳しくてね。あとは警察に任せて、探偵はここでおいとましよう」
「馬鹿な……」
思わずジャケットの内側を探っていた。
僕らが樫木を追いかけた本当の理由。それがポケットの中でボタンを押され、まわりつづけている。
「ははぁん。ここで帰られたら困る理由が君たちにはあるわけだ。なぁ御厨クン、どうなんだ? ここらで解散としてしまっては駄目なのかい。オレにもう少しお話して欲しいのはなぜなんだ」
「言いたいことがあるなら、そろそろはっきり言えばいい」
「それには条件があるな。オレの口を割りたいなら、誠意を見せろって話だ。そのポッケの中の便利な道具を見せてみろよ」
――気づかれていたのか。
にやにやとした笑みを浮かべたままの彼に、僕は諦観をもって懐からとりだした。
それは、僕が用意した切り札のはずだった。かつては魔女との化かしあいに、あのオンコの樹の下で猫の叫びを響かせたカセットテープレコーダー。今夜はすべてに決着をつけるための記録として使うつもりだったのに。
そのまま彼に放って投げた。それは土の上を何度か跳ね、彼の足下に届く前に沈黙した。日が沈みゆく中で、街灯がわずかにその所在を照りかえす。
「人喰いジャックを見つけるだって? はは、君らは誰になったつもりだったんだ。ホームズか? ポアロか? 本の中のスコットランドヤードだって、君らよりははるかにマシなのに」
樫木の嘲笑に、敗北の味が口内に広がる。
「結局は子どものごっこ遊びだったんだよ」
それは錆びた鉄の味によく似ていて――。
僕は樫木が話すのに任せる。街頭のスポットライトの下で彼の独壇場がはじまる。
「ここは人喰いジャックが選んだ最初の犯行現場だ」
他の三人が息を飲む様子が伝わってきた。
「女はこの場で解体された。腹が開けられ、貪られていた。おびただしい血が流れて、ほら、まだ染みが残っているんだよ。ここに座ると、彼女が最後に目にした景色が見える。なにもない街だと思って育ったが、この景色だけは悪くない。彼女の人生の物語に触れたように感じる」
彼はキャップをずらし、片眼でじぃと僕を見据えた。その泥のような艶を消した瞳。
「この世界は一冊の本と同じなんだと、よく考えるんだ」
一人一人の物語で世界は成り立っているのだと彼は語る。
「たとえば、御厨クン。君が語り部となる世界ならこういう本になるだろう。ピアニストになるためにこの街をでた御厨浩平は、しかし挫折を味わい、志半ばで帰ってくる。夢破れた彼にとって、高校生活はすべてが価値のない灰色に映っていた。しかしそこで一人の魔女と出会い、怪談と戯れる楽しみを知り、世界に色をとり戻していく――」
それは浅はかな僕が、あの三日間で彼と共有した、これまで生きてきた十七年のあらすじだった。意図はなんだという疑問と、他人に人生を語られるという気持ち悪さが、コーヒーに溶けゆく白い油のごとく胸中で渦巻いていた。
「その物語の主人公は紛うことなく君だ。君を中心として語れる世界の本では、きっとオンコの樹の下にいた猫の話からはじまって、魔女さんや呉緒、雪ちゃんとの小さな冒険が中心になる違いない。洞爺湖に行ったくだりとかは起承転結の転にあたるんじゃないか? そしてその君の世界にもしもオレが登場するなら、過去の登場人物として語られるか、あるいは今君の目に映っているように、倒すべき悪役になるのだろうね」
しかしオレの世界にとっては逆なんだよ、と彼は言うのだ。
「君にとってのピアノは、オレにとっての野球だ。オレの本の半分は、あの中学時代で構成される。エースとしてマウンドを一人で背負ってたあの頃。呉緒もずいぶんとオレを助けてくれた。マネージャーをしてくれていた雪ちゃんや……椎子もね。それからの残り半分は、野球を諦めざるをえなかったあとの、魔女と歩く夜の物語」
その語り口には、なんだろう、あの三日間で感じた彼の……。
いいや、これは言葉にしてはいけないものだ。
僕らの間には高い壁がある。そうでなくてはいけない。
「――ああ、そうなんだよ。もうわかるだろう?」いいや、わからないさ。「この二つの人生は、同じ構図にある。登場人物だって同じなんだ。ただ、オレが語り部となる世界では、御厨浩平、おまえが敵になるというだけで」
ぽつり、と鼻にあたった冷たさに、とうとう雨が降りだしたことを知る。
それはすぐに勢いを増し、暗闇の公園へ集まった五人の体を容赦なく濡らした。シャツが肌にへばりつき、ジーンズはひどく重みを増していく。それでも樫木の語りはとまらない。
「あるいは、オレがそこにいたかもしれないんだぜ」
――クロエは、僕がこの世界に戻ってきた当初から、自分は一人暮らしだと主張してきた。
どんなに不良ぶろうと遅くなる時には親へ電話をかける僕ら男子高校生の傷つきやすいプライドに、いたずらな猫のように爪を立てつづけてきた。たとえばこんな風に。『おやおや、その年になっても大人の顔色を窺わないと悪ぶれないの?』あるいはこんな風に。『なによその目は。文句があるなら、親の助けを借りずに一人で暮らせるようになってから言いなさい。わたしのようにね。ま、あんたたちは十年経っても無理かもしれないけど?』
その手練手管は、中学まで孤高に生きてきた少女の割に、ひどく慣れていたように思う。
おそらく、過去にも経験があったからなのだろう。
中学の頃、野球から離れたのちには、魔女のしもべであったという樫木一也。
この先、僕が決して知ることのない彼の物語。
「憎しみを感じているのが自分だけだと思っているのなら、それは間違いだぜ、御厨浩平」
「――あんたが」
とうとう陽が完全に姿を消した暗闇の中で、僕は喉奥から声を絞りだした。
「あんたがあんなことをしたのは、僕らへの憎しみのせいだって言うのか」
声の揺れが激しく、次第にその大きさも増していく。
「樫木。あんたはシイを守ると言った。僕の前で確かにそう言ったんだ!」
すると彼は自らの瞼で視界を閉ざし、やがてくすくすと、げらげらと次第にトーンを増して、耐えきれなったと言わんばかりにまた笑いだした。
「は、は、ハハハハ!」
ひき攣れたような声のまま、ようやく、ようやくだ。
とうとうその台詞を口にした。
「ならば聞かせてみろよ、御厨浩平! オレが人喰いジャックだというおまえの推理を!」
ああ。なら暴いてやるよ、樫木一也。
ノストラダムスなんて時が過ぎれば消えゆく物語を、子どものように掴んで離さなかった、おまえの愚かさを。
〝人喰いジャック〟なんて十年も経てば、もう誰も覚えてやいないんだ。
そんなものにシイを巻きこんだおまえを、僕は絶対に許さない。




