「おまえのいない未来は、寂しかったよ」
「おまえのいない未来は、寂しかったよ」と僕は答えた。
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その日、僕は夢を見る。
未来の夢だ。僕はもう高校生ではない。少しばかり楽しかった大学生活とも別れを告げ、やがて就職して、泥のような日々に喘いでいる。日記には溜息のような単文しか並ばなくなった。かつての友の顔も思いだせなくなった。そんなある日、妹が結婚するという電話を受けて、ひとり北海道に戻ってくる。
長居をするつもりはなかったから、手提げバックにはラップトップと替えのシャツくらいしか入っていない。その身の軽さと、家族と何年かぶりに顔をあわすうしろめたさから、実家には直接むかわず、僕は札幌の街を歩いている。
昔の思い出などあらかた忘れてしまったくせに、なんだか無性に懐かしかった。歩いているだけで、なぜ視界がにじむのかと考えつづけていた。札幌駅では無数の人々が待ちあわせをしていて、楽しそうに笑っている。僕はその間をすり抜けるようにして、ひとり歩いた。
どうしてだろう、いつのまにか路地裏に入りこんでいた。六月の陽気とは裏腹に、建物の影にはひんやりとした空気がたゆたっていた。空き缶や煙草の吸い殻がやたらと目につく。僕は胸ポケットからJPSをとりだし、金のジッポーで火をともした。
ふと、紫煙の奥の人影に気がついた。
一人は浮浪者のようであった。ダンボールのござの上に、汚れたジャンパーを着込んだ男がいた。積みあげられた囲い。くすんだ新聞紙。水に一度浸された古雑誌。普段なら避けて通る光景から、僕は目が離せなくなっていた。
男に相対して、一人の女がいる。
子どものようなシルエットだった。ヒールを履いていないにしても、かなりの背の低さだ。細い体にあわぬ大きな黒帽子を目深に被り、喪服のようなワンピース、その上には薄い上着を羽織っていた。長い髪の所為で、どんな顔をしているかわからない。しかし。
「クロエ……?」
忘れたはずの女の名を呟いていた。
彼女は男とぼそぼそ話しこんでいたが、不意にこちらへ顔をむけた。僕は未だ立ちすくんだまま。女が身をひるがえす。足早にむこうへと歩いていく。混乱に痺れて動かない頭の代わりに、体中の筋肉組織が一斉に追いかけろと号令をかけた。
煙草を捨てて走りだす。予感があった。あれはたぶん、昔なくしたなにかだ。今追いつけなければ永遠に失ってしまう。日頃の運動不足のせいでとたんに躓きかけるが、無理矢理に突き進んだ。こんなに息を切らすのは何年ぶりだろう。胸が苦しくて、吐きだしそうだった。
帽子の女も駆けはじめており、すぐに大通りまででてしまう。人混みに埋もれかけるその姿を僕は必死で追った。女が信号を渡る。僕がそこにたどりつく頃には赤になってしまう。
それでも足がとまらなかった。
「待ってくれ……!」
あらんかぎりの声で叫んだ。
「行かないでくれ、クロエ!」
刹那、鳴り響いたクラクションを覚えている。次に視界にあったのは、迫りくるトラックと、フロントガラス越しの運転手の顔に浮かんだ焦りと怯え。そして、暗転する。
芯まで響く衝撃の中で、僕はある一つのことだけを思いかえしていた。
確かに、振りむいた女の素顔を垣間見たのだ。
長い前髪の隙間から見えたその右目には、黒い眼帯がかけられていた。




