「こんなの……こんなのは、嫌だよう……」
警察の事情聴取は夜半まで及んだ。
一人一人が個別に部屋へ呼ばれ、その待ち時間にも刑事の数人が交代で残る僕らを見張った。明らかに会話を制限されていた。その理由については、頭のめぐりが悪い僕でも察せられた。疑われていたのだ。
あるいは解放された今も現在進行中で疑われている。それもそのはず、当事者である僕ら自身も、おかしな証言だと自覚していたからだ。
シイの従姉、辺見利恵が病院をでたのは二時過ぎのこと。
そこから十分ほど待って、あとを追った。
車を探していた時間をあわせても、二時半を超えてはいなかっただろう。
その僅か三十分にも満たぬ時間で、彼女は首を切断され、車中へ放りこまれたのだ。
僕が警察でも疑わざるをえない。本当に時間は三十分だったのか? 勘違いをしているのではないか? あるいは――嘘をついているんじゃないか、と。
さらに言えば、首だけが残されていたという状況もおかしい。それはつまり、犯人が胴体を持ち去ったことを意味する。あんな視界の開けた駐車場で、そんな異常行為を誰も見ていないだなんて本当にありえるのか?
その上、鍵が差さっていたという事実は、辺見利恵は一度車にのりこんだことを意味する。そこからは、彼女が車からひきずりだされ、殺され、切断され、体だけを奪われたのだという推測がなされる。もちろん抵抗だってしただろう。叫びもしただろう。なのに犯人はわずか三十分ですべてを終えたのだ。
僕ら四人が共謀して殺したのだと疑われても仕方がない。
だが、その僕らからしてみれば、白昼夢を見せられたとしか考えられないのだ。
何度も何度も事件の状況について説明させられ、同じ質問が繰りかえされたが、謎は一向に解ける様子はなかった。それでも日付が変わる前に解放されたのは、おそらく四人の中にロリ子がいたためだろう。彼女が一連の事件のために協力を頼んだとい社長とやらは、警察にも力を及ぼすとの話だった。あの時は別世界の談義のように感じられていたが、こうなると地続きの現実として意識せざるをえない。
〝人喰いジャック〟。
僕らの世界を蝕んだ夜の獣。
恐怖は伝播していた。警察署からの最終便にのる四人の間に会話はなく、その静寂はますます体の震えを呼んだ。本来なら一番のアパートが近いクロエが一人降りるバス停で、全員が席を立ったのもそのためだ。一度離れてしまえば、二度と顔をあわせられないかもしれないと、想像が悪夢のごとく脳裏をかき乱していたのだ。僕はクロエを孤独なアパートへ帰してしまうのを恐れた。レオもロリ子も同じ気持ちであったに違いない。
変わらず人気を感じさせない二階建ての彼女の住処は、これまで幾度となく通ってきたにもかかわらず、この晩はかつて最初に訪れた時以上におどろおどろしく映った。アルミ製の階段が複数の靴底に踏まれて、かつん、かつん、と硬質な音を夜に響かせた。角に位置する彼女の部屋までの距離が、ひどく長く感じられた。
クロエがノブに鍵を差しこむ。
がちゃり、と鳴ってまわったそれに彼女は「ああ」と吐息をついた。
「シイは鍵をかけていったのね」
その言葉で、辺見利恵がまだ生きていた間にされた話を思いだす。
そうか、シイは家出をしていたのだった。三日間、クロエの部屋を寝床にしていたらしいが、今日こそ家へ帰ったのだろうか。それとも、まだどこかをふらついているのだろうか。こんな夜だからこそ不安がつのった。せめて樫木がそばにいてくれれば、と遠い彼女の無事を祈った。
僕らもクロエの部屋で一晩を過ごさせてもらうつもりだった。なにも言わずとも彼女には伝わってくれていたらしい。「簡単に片づけてくるから、少しの間だけ待っていて」と言い残し、玄関に明かりをつけてから、その奥へと姿を消した。僕は無言のレオとロリ子とともに、生暖かい風が吹く暗闇の中で、彼女の準備が終わるのを待った。
そして、悲鳴が聞こえたのだ。
「ああああああああああああああああああああああああああ」
頭よりも先に体が反応し、彼女の部屋の中へと駆けこんだ。土足のままであることに一瞬躊躇したが、そんな悠長な状況ではない。背中に遅れて二人が追いかけてくる気配を感じる。
まず目についたのは、猫のトトの姿だった。部屋の隅が定位置であるはずの彼が、どうしてか奥に見えるちゃぶ台の上におり、なにかを貪っていた。こんな事態にもかかわらず、不思議と脳が勝手に風景描写を言語化していた。それは料理だった。肉の料理だ。子猫の時代、オンコの樹の下でシイとクロエから食べ物を与えられた彼には好き嫌いなどなく、人間の食事も嗜む。普段はキャットフードとミルクしか口にしないものの、飼い主の不在に我慢がならなくなったのだろう。黒い毛並の上からでもわかるほど、ひどく口元を汚していた。彼は一瞬だけこちらを見ると、また一心不乱に皿の料理を食べはじめた。
足をとめていたわけではない。時間が粘性を帯びている。クロエが悲鳴をあげたのは、どうやら居間よりも手前、台所を横切った先にある風呂場のようだった。爪先を蹴ってそちらへむかう。途中、コンロに火がついていると気がついた。鍋が煮えている。そのかぐわしい香りから、誰かが夕食の二品目をつくりかけたまま、途中で投げだしてしまったのだろうと考えた。誰が?とはまだ考えられなかった。だが、すぐに知れることとなる。
脱衣所へ侵入し、視界に魔女のへたりこむ姿が映った。
彼女は両手をつき、長くウェーブを描いた黒髪を濡れた床に浸していた。
なぜ床が濡れているのか。
それは、ざあああと響く水音が教えてくれた。シャワーがだしっぱなしにされているのだ。
なぜ床が朱を帯びているのか。
それは、浴槽に首をむけたシャワーノズルが教えてくれた。中になにかあるのだ。それが水を変色させている。また、排水溝が機能していないらしく、浴槽から溢れでた液体はそのまま脱衣所に流れこみ、今はクロエをも無惨に濡らしている。
なぜ視界がこんなにもクリアなのか。
それは、この仕掛けが施されたのがずいぶんと前であるからだ。ガスはとっくにきれており、シャワーからは冷水がほとばしっている。それは真夏の気温をも吸いとり、クロエへ近づく僕の体に震えを生じさせていた。歯がうまく噛みあわない。靴が液体を踏む、ぴちゃり、ぴちゃり、という音がひどく耳に障った。それから鼻をつく異臭。
その意味を唐突に悟る。
どうして僕は、先に見た鍋の臭いを、かぐわしいなどと感じてしまったのか。
だが己の目で確かめないわけにはいかなかった。ようやく彼女の傍へたどりつき、二つ折りの扉に手をかけ、そのむこうにあるものを覗く。
「ああ……」
吐くのを耐えられなかった。
喉奥から逆流してきた汚物が滝のごとく床にぶちまけられ、朱色の液体と混じり、クロエの頬にはねた。だが、彼女は身動き一つせず、瞳にはもうなにも映していない。
浴槽の中にあったのは、肉塊だった。
ぐずぐずに溶けた腸が、まだ形を残している手や足の残骸に絡みつき、どす黒い赤色の水の中に沈んでいた。
そして排水溝を塞いでいたのは、僕らの通う御堂山高校の、制服の残骸であった。
「オズ、そいつは、なんだ」
背後からレオの問いかけが聞こえ、僕は緩慢な動作で振りむいた。
だが、なにも答えられない。なにも言葉が浮かばない。
ただ、この部屋を確かに訪れたはずの少女を想う。
「こんなの……こんなのは、嫌だよう……」
あとはロリ子の泣き声だけが、長く、細く、水音に混じって響きつづけた。




