「クロエは皆から恐れられていた」
バーカウンターに肘をつき、彼女が細い肩を寄せてくる。
「その魔女の名前は思いだせる?」
「ああ、確かクロエ……そうだ、黒田絵里子。そんな感じだった」
彼女にもらった煙草に火をつけた。金色のジッポーがキィンと控えめに鳴った。
「クロエ?」
「そう呼んでた。あのあと、なんだか妙に仲よくなってね。あだ名で呼びあってたんだよ」
「ということは、キミにもなにかあだ名があったわけ?」
「……あったような気がするけど、なにしろ昔の話だから」
「もったいぶるねぇ」
「まぁ、僕のことはいいじゃないか」
語りはじめた時には不安だったが、昔話というのは意外となめらかにでてくるものらしい。先の先まで級友の名前すら思いだせなかったというのに。まったく酒の力はすばらしい。
僕は一度、煙草の灰を落とすと、感慨深くビールで唇を濡らした。
「これは猫の話だ。うちの学校に棲みついていた黒猫の話。でも、その前に魔女についても一とおり話しておこう」
「魔女に黒猫だなんて、できすぎだね」
「僕もそう思う。やっぱりこれは、あの教室にいた人間にしか通じない妙なノリだったんだよ。たとえば黒田絵里子は当時、クラスの皆から恐れられていた。君の魔女とは正反対にね」
「クロエって呼びなよ。昔はそうだったんだろ?」
「ん、まぁ……」
変なところにこだわるなとは思ったが、確かにそれが自然なのかもしれない。
「クロエは皆から恐れられていた」
「ふむ。おっかない顔でもしてたのかい? それとも逆にすごい美人だったとか」
「そういうんじゃなかった。なんというかね、なんとも言いがたいんだよ。だいたい不機嫌そうにしてたけど、怒ってるというよりも……そうだな、今眠いから話しかけないでって感じだった。高校の最初の席決めで隣になって、それで彼女の姿はよく目に入った。そんなに真面目な学校じゃなかったのだけど、髪は塗りつぶしたように真っ黒で――」
その黒髪にはやや癖があって、肩口から胸元まで乱雑なウェーブを描き、時折彼女の細長い指によりくるくると絡めとられた。肘をつき、気だるげに黒板を見つめるクロエは、いつも面白くなさそうな顔をしていたと思う。
こんなことまで思いだせるのは、たぶん僕も授業があまり好きじゃなかった証拠だろう。
「で、美人だったの?」
「え、いや……」
「なるほど、美人だったのか」
真っ赤な唇をきゅっと釣りあげ、目を細める彼女。
なぜか挑発的な仕草までされてしまい、僕は額にうっすらと汗をかくのを感じる。
「ええと」
「なぁに?」
「……君ほどじゃなかった」
「あらそう」と、彼女は嬉しそうにグラスを傾けた。
僕はこっそりと息を吐きだす。やれやれ、かろうじて正解だったらしい。
「クロエはどちらかというと目立たないタイプだったよ。見た目はどこにでもいるような女の子だったと言っても嘘じゃない。でも、クラスメイトはみんなクロエを恐れたんだ」
そこが君の魔女との違いかなと言うと、彼女は「あの子は猫かぶりだったから」と呟き、自分の発言にくつくつと笑った。触れあう肩が大げさに揺れる。
「で? その先を話しなよ。なぜ、どうして、そんな普通の女の子に教室の皆は震え、忌むべき者として遠ざけたのか。まさか彼女も空手の使い手として――」
「この話にダンベルはでてこねーよ」
入れるべきツッコミはきちんと入れてから、僕はつづきをきりだした。
「でてくるのは……まずは、あいつらだな」