「嘘みたいな本当の、怖ろしい話」
「あれは不調に気づいても投げるのをやめさせなかった監督と、それにのったカカシくん自身に責任があったと思うよ。でも結局は……まぁ、レオくんも野球をやめてしまってね。推薦も辞退して、あたしと同じ高校に進むことになった」
その日の夜、また同じカフェを訪れていた。
しかし、テーブルに座るのはロリ子と僕の二人きりだ。昼間はクロエたちと平和に街を散策するのに対して、こうして裏の会議を開くのが二人の日課となっていた。
彼女は手を組み、その上に顎をのせ、ストローでアイスコーヒーをすすっている。
「あたしはそういう心の機微っていうのがわからない人間なのかもね。レオくんから一般入試で御堂山を受けるって聞いた時も、あたしはただ、また三年間一緒になれるって喜んぶだけだった。カカシ君が隣町の高校を受けたことについても、正直、邪魔者がいなくなった程度の気持ちだったよ。その結果、レオくんがなにを抱えるのかも考えずにさ。そりゃシイちゃんの気持ちにも気づかないわけだよね。前にあなたを朴念仁と呼んだけれど、あれは訂正するよ」
「僕には、君がそんな心ない人間には思えないぜ」
慰めてほしくて話したわけじゃないさ、と彼女は目を伏せた。
こんなアンニュイな表情は彼女には似合わないと思う。道場で僕を組み伏せる時の調子はどうしたんだ。唇から舌をのぞかせ、鬼のように微笑むあの姿こそが、本当の君だろうに。
「それ、全然慰めてないよね……」
「いやだって、慰めはいらないと」
「君はやっぱり朴念仁だ。やっぱり死んどけよ」
少しは元気になったらしい彼女に、僕は鞄から封筒をとりだして渡した。
「こっちには他の三人の情報も入ってる」
〝人喰いジャック〟の被害者すべてについて、交友関係や家庭事情をまとめたものだった。昼間にシイから渡されたあれとは別だ。顔写真も数点添えられており、いずれも生前は可愛らしい黒髪の少女であったと知れる。
「共通点は、高校生の女ってことくらいだね。あと強いて言えば……髪型が似てるのかな。それにしても、君、これは」
「偽ジャックとでくわしたあとで、頼んでおいたんだよ。プロの仕事はすごいな。動きが早いし、なにより内容も――悪いけど、シイたちが調べたものよりも格段に詳しい」
「あのアルバイトからは手を切れって言ったよね、あたし」
「今度はちゃんとお金を払って頼んださ。やめた経緯もあってか、所長がサービスしてくれた。人喰いジャックに懸賞金がかけられてるってのもあるんだろうけど」
ロリ子は釣りあげた眉をそのままに、溜息をつく。
「君って結構、馬鹿よね」
「それとなくクロエに伝えていくつもりだよ。なんか勝負になっちまったし」
「そびえたつ馬鹿よ。まったくもう」
資料に目を通す彼女の横で、僕は手持無沙汰に己の襟首をつまむ。
昼間とは服装を変えていた。なぜか二人そろって学校の制服を着ているのである。夏休みなのに今夜に限ってどうしてと思うのだが、これも彼女も指定だった。
「補導とかされたらどうするんだ」
「それはこの街が健全である証拠だよ。甘んじて受けなさい」
彼女はそう答えたのち、紙束を脇にやり、今度は写真をそれぞれ見比べはじめた。「あたしの方が可愛い」という不思議な呟きが漏れ聞こえてくる。
「しっかし、こんなところをクロエにでも見つかったら、説明がつかねーよ」
「デートしてたとでも言いなさいな。制服なら映画も半額だよ」
「君ね……。じゃあ、レオに見られたらなんて言いわけするんだよ」
「さあ、なんて言おうかな」
軽口を叩く彼女はどこか楽しげだ。はじめの調子から離れてくれたのは嬉しいが、いったいどういうつもりなのかとも思う。
指摘してみると、彼女はグラスを持ってくすくすと肩を揺らした。
「最近の君って楽しくてたまらないわ。道場でも教えたことはすぐに吸収してくれるし。気づいてないかもだけど、そろそろうちの道場でも二番、三番ってところにきてるんだよ。才能があるんじゃない?」
「おだてたってなんにもでないぞ」
「弟子を持つってのは、こんな気持ちなのかな。中学の頃にレオくんより先にあなたと出会ってたら、どうなってたかわからないかも」
なんてやつだ。この僕を赤面させるとは……。
冗談とわかっていても、悪い気がしないのは空手を褒められたためだろう。一度は手放して柔道に逃げた僕に、こんな風に言ってくれるなんて。緩みかけた口元を掌で隠す。クラシックを弾いていた頃の自分にも、隣に彼女みたいな人がいてくれたなら、未来が変わっていたかもしれない。かつては振りかえるだけでも痛みが走る記憶だったのに、今ではこんなありえない仮定まで浮かんでしまう。なんとも不思議なものだ。
「って、ごまかすのはなしにしてくれよ。この制服の意味はなんなんだ?」
「たいした理由じゃないよ。でも、そうだね。そろそろ今夜の目的地にむかおう」
グラスを空にして僕らは店をでた。
すっかり日が暮れた道を二匹の獣が歩く。そこに服装から想起される子どもらしさはない。ロリ子の指導を受けるようになって、コーラの瓶を真っ二つにする場面までも見せられたが、今の僕ならそっくり真似ができそうだ。空手は指先から鍛えるのだよ、という彼女の台詞を思いだしたついでに、ある疑問が脳裏をよぎる。
はて、どこかで同じ話を聞かなかったか?
「現在、この街には四つのグループがひしめいている」
唐突に呟いた彼女の台詞に、意識が呼び起こされた。
「〝フラジール〟という組織があってね。ヤクザまがいの、しかしその実、警察寄りっていう妙な集団だ。表向きは不良少年たちを青田刈りされないよう、国が囲いこんでるって話になってるけど、正体は謎。誰に聞いてもわからない。だけど彼らは確かに存在していて、全国の各地区にグループをおいて裏から支配している。嘘みたいな本当の、怖ろしい話」
「な、なにを言いだすかと思えば……。クロエの悪いくせが感染ったか?」
しかしながら、彼女はいたって真面目な顔で先をつづけるのだ。
電灯が歩く彼女のコントラストを刻一刻と変えていく。
「その末端に、あたしも所属してるの」
「嘘だろ……?」
「嘘みたいな本当の、怖ろしい話」
「二度も言わなくてもいいから」
彼女は暗闇と踊るように、くるりとまわった。両手を背に組んで、うしろむきに歩を進める。
「この街を任せられたグループは四つ。それぞれ、突出した才を持つ人間がとり仕切っている。〝社長〟、〝心を失くした刃〟、〝気狂い狐〟、〝魔窟の鼠〟。ただ、腕っぷしが強いってだけじゃない。相手がくすぶった若者であれ、汚い大人であれ、どんな相手でも必ず従えてみせる真正の強者たち」
「なにそれ格好いい……!」
「たとえば〝心を失くした刃〟、またの名を〝鋼の死神〟。四グループの長の中でも屈指の武闘派であり、その必死の瞬撃から〝不可視の魔弾〟とも呼ばれる」
「やだぁぁぁ、かっこいいぃぃぃ!」
「今からそのグループに殴りこみに行くんだよ」
「……」
は?
問いかけを発する前に、目的の場所についてしまったらしい。
ロリ子が立ちどまったのは寂れたビルだった。まだ夕飯時を過ぎたばかりなのに、上方の窓を見るに明かりもまばら。そんな建物の階段に足を踏みいれ、彼女は地下へとおりていく。
「ちょっと待ってくれ! さっきの話、あれマジかよ!」
「嘘のような本当の……」
「三度目だぞそれ! おい、待てって!」
慌てて彼女を追うと、そこはバーであるようだった。
だが、看板は掲げられていない。重厚な扉からは、腹に響くほどの重音が漏れて聞こえてくる。そのノブを彼女は無造作にひいた。
刹那、耳に襲いかかるギターの嘶き。奥で生のライブをやっているのか。戸口をくぐり、それを確かめようとした矢先、横から肩を掴まれた。
「なんだ、おまえ。今日は貸切だぞ」
耳元でがなり立てられて、横を見ればそいつは――。
目深にかぶられた黒いキャップ。そのつば元には丸い金属が輝く。心臓を模したバッジだ。
「貴様は、あ、あの時の!」
門番として待ち構えていたのは、例の偽ジャックの一人であった。
どうしてこんなところに? その言葉が喉から飛びだすよりも先に、隣のロリ子が動いた。
喉笛への一本拳。予備動作もなく放たれた刃のごとき鋭い一撃に、男は呻き声一つあげることすら叶わず、白目をむいて昏倒した。
どさり、と崩れ落ちる男には目もくれず、ロリ子は制服のスカートをひるがえして言う。
「今のが死の訪れだ。予備動作を極限まで削り、急所を打つ。技のでどころが見えないから正面から打ったとしても不意打ちと同じ効果を与えられる。必中絶死のあたしの奥義だよ、憶えておくんだね」
「え、なに? 音がすごくて聞こえない!」
「あと四人いるから、あたしみたいにぶっ倒せって言ってんだよ!」
その時、鞄を頭に掲げたのは予感があったからだ。間一髪ガードできた。ずしりと重い蹴りに鞄が吹き飛ぶ。ステップを踏みながら体をむければ、そこには二人めの偽ジャックがいる。
相手が腕を振りかぶったと同時に、今度は自分から突っこんだ。左腕でフックを弾き、アッパーで顎を浮かせると、宙に浮いた相手の右手を掴む。一度押してやった重心が、前に戻ってくるのが感じられて――投げた。
自分でも驚いていた。この二週間、連日空手を叩きこまれてきた僕が、投げを? そりゃ大学では帯がとれるまで組みあった。でも、逃げた先で手に入れたものなど、もう必要がないと思っていたのに。
倒れた偽ジャックの顔を踏み砕いたところで、ロリ子が手を叩いて囃し立てた。
「やるじゃないか! さすがはあたしの一番弟子だっ。だが、倒すのに三発もかかるのは遅すぎるな。あと三人で魅せてみろよ!」
混乱の最中、残りの偽ジャックが雄叫びをあげ、一斉に躍りかかってくるのを見る。こいつら、いつも五人でつるんでるのか?と場違いな感想が思考を乱し、そこへバットが。
ぎりぎりで避けた。地に体を捨て、距離をとる。
樫木にやられたことをそっくりそのまま真似してるってわけか。勉強なんて苦手そうな顔しているくせに、馬鹿じゃあない。それぞれ手に得物を持って、じりじりと輪を縮めてくる。
だが、体が勝手に動いていた。
壁際まで一歩で飛ぶと、それを手にする。傘立てだ。ボーリングの球ほど重さのあるそいつを全力で放り投げた。もはや空手でも柔道でもないが、僕はある確信を感じはじめている。
慌ててバットで傘立てを避けようとする偽ジャック。そいつが自らの腕で視界を覆ったと同時に、僕は駆けだし、股間を思いきり蹴りあげる。苦痛に歪みかける表情変化を最後まで見届けることはなく、右の正拳で鼻を叩き潰した。
動く、動く。さらに動く。次の男に突っかけた時、視界の端にロリ子の姿が映った。彼女は入口近くの会計テーブルにのぼり、未だ流れつづけるインストゥルメンタルにあわせ、歌をうたっているようだった。どうかしてるぜ、と相手の背後まで一息で走り抜け、身を回転させる。
閃光回転脚と言ったか。彼女にしては洒落た名前だなと笑い、踵を頭部にぶち当てた。
逃げた先で手に入れたものが本当に無意味なら、ピアノの夢に破れた僕が、再びあいつらと舞台にあがることもなかった。でも、初めて弾いたロックは、クラシックとは違う躍動を僕に与えてくれた。レオに教わったジャズだってそうだ。その一つ一つに鮮やかなタッチがあった。
最後の一人がなにかを喚きながら突進してくるのが、ひどくスローモーに感じられていた。その手に持つのはアイスピック。刺されば流血をまぬがれない武器を前に、僕はあえてゆっくりとした挙動で迎え撃つ。正中線を隠そうとはせず、両手を胸元に差しだす前羽の構え。だが、そこから生まれるのは空手ではない。いや、ただの空手じゃあない。
フェンシングの突きごとく半身になって繰りだされた得物を、ほぼ動くことなく、脇を掠めて外させた。そのまま深く腕をとり、掌底で相手の顎をロックし、体をすれ違わせながら足を思いきり振りあげた。蹴りのためにではない。相手のふくらはぎに交差させる形で刈り、顎に押しつけた掌を押しあげるようにして、後頭部を地面に叩きつけた。
一撃。
空手の極意。あるいは夢でもある。それを柔道との混成技で成し遂げたのだった。
「このスタイルを僕は変幻自在の打弦楽器と名づける」
「きゃあああ! すごいかっこいいぃぃ!」
いつのまにか傍へおりてきていたロリ子が、胸元に両拳をつくって叫んだ。
やれやれ、ノリのいい師匠だ。
さて、音楽がとまっている。ステージにはすでに人はなく、広い店内にたむろしていた者どもが周囲に集まってきていた。どいつの目にも剣呑な光が浮かんでいる。
「さあ、残り五十人ってところかな。一気に蹴散らすよ、オズ君」
「ちょ、いくらなんでも無理だろ。逃げるなら今じゃないか?」
「なさけないこと言うなよ、あたしはこの倍の人数でも余裕だよ」
ロリ子が野獣の笑みを浮かべて拳をならしたところで、男たちの群に隙間が開いた。そこから年若い――といっても今の僕よりは幾分か上の、ロン毛の青年が走りでてくる。ひき締まった体には、動きを阻害しない程度に調整されたと見える筋肉がのり、ただならぬ力を持つと窺われた。先の五人組など話にもならないだろう。となれば先手必勝、一撃で屠るのみ。そう構えたところで、ロン毛が叫んだ。
「ちょっと待って!」
両手を前を突きだし、前羽の――じゃなく、待ったのポーズ。明らかに純粋な意味で、僕らへ静止を求めていた。
「姐さん、姐さんですよねっ?」
横を見やれば、ロリ子がぽりぽりと頬をかいている。
「なんのことだかわからないヨ。姐さんって誰だヨ?」
こいつ駄目だ。なんかおかしい。
ロリ子の様子に、どうにも妙な事情があるのだとわかった。再び視線を戻せば、ロン毛の青年が泣きそうな顔で拝んでいる。
「頼むからやめてくださいっ。ほら、電話で言われた馬鹿ども五人もちゃんと用意したじゃないですか! つーか、あんなメッタメタにしてぇ。そっちの彼はなんなんですか?」
「だから、あたしは姐さんじゃないヨ?」
「声でまるわかりですよ!」
言われてロリ子は肩を竦めると、持っていた鞄をあさり、あるものをとりだした。
それは僕がまだ探偵の真似事をしていた頃にでくわした悪夢――そう、ブリキの木こりを模した仮面であった!
彼女はゴム製の留め紐を伸ばすと、ぱちりと頭にはめる。制服姿で顔だけ隠したマスクド・ロリ子さんの完成である。
その瞬間、周囲の屈強な男たちが湧いた。
「うおおおお! 〝心を失くした刃〟!」
「またの名を〝鋼の死神〟――ッ」
「その拳は〝不可視の魔弾〟!!」
「やったぁぁ! 俺たちの最強の姐さんだぁぁぁ!」
マスクド・ロリ子さんは仮面をつけたまま、体をくねらせてポーズをとった。なんかこれ、見たことがある。ええっと、やべぇ、もうツッコミたくない! でも、この立ち姿はサタデーナイトフィーバーだ!
っていうか、おまえがここのボスだったのかよ!
すげえよ、ロリ子さん! 純粋にすげえ!
「それにしても、姐さんって女子高生だったんですね」
身を包む制服とミニスカートを見てか、ロン毛の青年がそう言った。
「うむ。まぁ、オトナっぽく見られがちなんだがな。実は女子高生だったんだよ」
天に指をさしたまま答えるロリ子さんに、相手から「えっ」と声をあがる。
「いや、てっきり小学生だと……」
「死ねェ!」
閃光回転脚がヒットした。ロン毛が顔から床に突っ伏す。僕は視界を両手で覆った。
「だって、どうみてもその平たいおっぱいは――ひん!」
背後から尻を蹴られたらしい。どうしてかちょっと嬉しげな悲鳴が室内に響き渡った。めげずにボケとおした彼には拍手をおくりたいが、そろそろ閑話休題としよう。
ロリ子は男たちを集め、ステージの上にのぼっていた。なぜだか僕も隣に立たされ、誰だこいつは?という視線の集中砲火を浴びている。彼らは皆、思い思いの場所に例のバッジをつけていた。心臓を模したバッジ。彼らのグループ名は〝木こりの心臓〟というらしい。この横文字のネーミングセンス……誰のものかはお察しだ。
「今夜、おまえらを呼んだ理由は、まず説教のためだ」
ライブ用のマイクをわしづかみ、ロリ子が話しだす。
「そこで転がってる新入りの五人、ずいぶんと素行が悪くてね。昼間のあたしを、あたしと知らずに襲いかかってきたんだ。こんなか弱い女の子を拉致って、どうするつもりだったんだろうね。まったく、木こりの心臓の名折れだよ」
ちなみに彼女はマスクド・ロリ子さんのままである。どうやら木こりの仮面をかぶった状態が、夜の彼女のデフォルトらしい。なんとも頭が痛くなる。
「いいか、今夜きてないやつらにもしっかりと伝えておけ。これから一度でも一般人に手をだしたら、この心を失くした刃が直々にミンチにしてやる。特にあたしと隣のこいつが着てる制服、この学校の生徒には絶対に絡むなよ。怖い怖いおねーさんとの約束だ」
「イエス! 俺たちのおねーさま!」
なんか、このノリ、震えがくる。こいつら全員ロリコンなのか?
胸中で溜息をつきながらも、今日の夜会に制服で呼びだされた理由を理解する。このロリねーさまは……まぁ、今でも信じがたいが、マジ信じられんが、己がグループの長であるのを利用して、街の若者たちにルールを敷きたかったのだろう。
この制服を着た生徒に手をださせないという指示は、僕だけでなく、〝人喰いジャック〟を追うレオやクロエ、シイたちを守ることも意味する。
「つーか、隣の男はなんなんスかー?」
木こりの心臓たちの関心がこっちにむいて、体がびくりと震えてしまう。
「あたしの一番弟子だ」
「カレシじゃないんスかー?」
「あたしの彼氏に負けず劣らず、イイ男だよ」
褒めてくれるのは嬉しいんだが……君たち、つきあってるのはまだ九割方のはずだよね。
彼女は仮面越しに僕を流し見ると、なぜかブイサインをおくってくれた。なぜだろう。
「ということで次に報告だ。おまえら、よく聞けよ。今日この日をもって、木こりの心臓は社長と手を組んだ」
しんと男たちの群が静まりかえる。しばしの沈黙ののち、堪えきれず溢れでてくるざわめき。「あの冷血の淑女と」「まさか、冗談だろ」「あの地獄式が誰かと手を組むなんて」……いや、もはやツッコむまい。
「彼女とは空手で親交があってね、たまには電話もする仲なのさ」と楽しそうに彼女は歌う。「正確には、あの社長が従える大人たちと協定を結んだ。おまえらが木こりの心臓のバッジをつけ、先に言い渡したルールを守っている限り、この街での自由を保障する。教師も、警察も、そこらの店員ですら余計な口を挟まんよ。――だが、悪いことをするための自由じゃないぞ。あたしが下す命令を忠実にこなすための自由だ」
ざわめきが次第に大きくなり、いつのまにかそれは歓声に変わっていた。
ある刺青の男が言う。「早く命令を!」ある頬傷の男が叫ぶ。「あんた以外の命令じゃイけないんだよ!」ボルテージの高まりは留まるところを知らず、地下のライブバーは熱狂で揺れた。
そして、彼らより高みから降り注ぐ刃の声。
「人喰いジャックを見つけだせ」
明かされた彼女の最終目的に、僕は半ば予想していたにもかかわらず、言葉を失っていた。
「怪しいやつは片端から連行しろ。狂人の夜遊びを許すな。夜道を往くのはあたしたちフラジールの子どもだけでいい。この街の平和は木こりの心臓が守る」
探偵を雇ったくらいで鼻を高くしていた己を恥じた。現代から名探偵が姿を消したのは、警察が優秀になったからだ。その警察が使うのは人海戦術の網。それでもすり抜ける怪人を、子どもたちまでもが追いかけるならば。
もはや推理の出番などないのだ。
僕らは壇上から降り、導かれるがままにバーカウンターへと座った。先のロン毛の青年がシェイカーを振り、カクテルを二つ差しだしてくれる。口をつければ意外にも上品な味わい。正直な感想を述べると、彼は慎み深い声で囁いた。
「姐さんをここへ連れてきてくれたお礼ですよ」
どういう意味かと尋ねかえした。連れてくるもなにも、ロリ子はここの長じゃないか。
「俺たちは、姐さんを素顔を初めて見ました。あんなに楽しそうな姿もね。今夜、本当の姐さんとお会いできたのは、あなたと一緒にいたからなのでしょう。お弟子さんなんですって? 少し嫉妬を感じますよ」
「よせよ。あたしはただ、表と裏を使いわけてるだけだ。そりゃ学校の友人の前じゃ、年相応に少女らしい振る舞いもするさ。でも、荒ぶってみせるのはおまえたちと一緒の時だけだよ」
「しかし、彼だけはここに連れてきた」
彼の瞳の奥にはどこか鋭い光を感じて、なんと答えればいいのか窮してしまう。
「いずれこっちの世界にくるかもと、社会見学に連れてきたのさ。将来有望なのは否定せんがね。でも、今はまだ多少腕がたつ程度のひよこ君だ。あんたが焦る必要はないさ、夜鷹」
二つ名で呼ばれた彼は、ふっと微笑み、視線を和らげた。グラス一つとって磨きはじめる。それからの口調は、先の賓客を扱うそれに戻っていた。
「オズ君と言いましたね。いきなりのことで混乱しているかもしれませんが、まぁ、安心してください。今夜ここに集まった者は、それぞれがチームのリーダー格です。配下を使ってすぐにでも人喰いジャックを捕えることでしょう」
「さっきの……社長とか言うのは」
「ああ、あれは姐さんとは正反対の存在です。札幌周辺の子どもたちを率いてるのは同じですが、姐さんが出来の悪い俺たちみたいなのを拾ってくれたのに対し、むこうはどうにもインテリがお好きなようで。規模はこちらの方が大きいですが、むこうは親たちまでとりこんでいる。警察の協力を得られるというのもそのためです。どうにもいけ好かない相手ですが、姐さんが動いてくれたのですから、今回は利用させてもらいます」
「そう言うなよ。うちの道場にいつもケーキを持ってきてくれるイイ人だぞ」
「姐さんは甘いものに弱すぎです」
そうなのか、覚えておこう。
ロリ子は頬を赤く染めながらカクテルを舐めている。体が小さい分、アルコールへの耐性が低いのかもしれない。少しずつ幸せそうな表情になっていく彼女を眺めながら、僕は迷いこんだ不思議の国のおとぎ話に耳を傾けるのだった。
「でも、人喰いジャックがすぐに見つかるというのはどうだろうね」
と、話の最後にロリ子が呟いた。
「近頃、この街は妙なんだ。ここへの道すがらで話したが、この街を含んで札幌を中心に四つグループがしのぎを削っている。だがね、そのリーダーのうち二人までが、この一月半という短期間で入れ替わった。〝気狂い狐〟と〝魔窟の鼠〟さ。元々得体のしれない組織の配下とはいえ、この二人についてはこれまでなんの情報もなかった。ナンバーツーがのしあがったというわけじゃない、突然よそからあらわれたとしか思えない交代劇だよ。おまけに未だ表へでてきたという話もない。いつかこの街が物騒だと言ったのは、こいつらの所為さ」
「――もしかして、人喰いジャックは」
「ああ、オズ君。そうだよ、あたしも疑ってる。一月半前と言えば、ちょうど事件が騒がれだした時期と一致してるだろ。こんな小さな街に闇を運んでくるなんて、大抵はよそ者の仕業さ」
夜の自警団は子どもたちに任せて、あたしはやつらを探ってみるよ。そう呟いてロリ子はグラスを空にした。今夜の独壇場を見せつけられたあとでは、その姿はロンドンの名探偵よりも頼もしく感じられたが。
一方で胸中に浮かぶ不安もあった。
嵐の晩、孤島で起きる殺人において、外界からやっていた者が犯人である物語を、僕は読んだことがない。




