「――御厨クンってさ、やっぱ面白いやつだね」
カフェで飲むべきはコーヒーだと僕は思うが、彼はいつもホットココアを頼んだ。真夏日に飲むそれは煮えたぎったチョコレートに等しいはずなのに、彼はとても美味しそうに飲むのだ。灰皿には数本のマルボロが潰されていた。元野球少年が見る影もない……と思うほどではなく、どちらかと言えば一本恵んで欲しいとお願いするのを抑えるのに大変だった。時を遡った肉体はニコチンに侵されていないとはいえ、もう一年以上も吸っていないのだ。
「一本恵んでくれないか」
すまない、我慢がならなかった。
「――御厨クンってさ、やっぱ面白いやつだね」
樫木は喉奥でくつくつと笑うと、胸ポケットから赤いパッケージの箱をとりだし、テーブルの上に滑らせた。だが、それは僕の手元までやってこない。右隣に座ったロリ子が光速のインターセプトを見せ、箱ごと煙草を拳の中へぐしゃりと消した。
「男同士の見栄の張りあいは見苦しいよ。みんなドンびきじゃない」
見れば左隣のクロエがコーヒーに口をつけたまま静止している。むかいではレオとシイが呆れ顔。僕は正面の樫木に視線を戻し、連れの蛮勇を詫びた。
「すまん。好きなだけココアを飲んで行ってくれ」
「いいか、未成年の煙草がただの三〇〇円だと思うなよ」
「三〇〇円だったのか、煙草って」
僕がいた世界では三二〇円だった。近くさらに値上がりすると聞いて、恐怖と絶望の日々をおくっていた。あんなに悲しい未来はなかったと思う。
ところで、彼と出会ってから早二週間が経つ。夏休みも折りかえし地点で、そろそろ積まれた宿題に手をつけなければならない時期だ。にもかかわらず、僕らは相も変わらずこうして集まっている。
昼下がりの、チーズケーキが美味しいという店であった。特段待ちあわせはしてないのだが、互いに決まって同じ時間に訪れ、落ちあえた際には情報交換をするという日々をおくっていた。
「五つめの死体がでたな」
そこらで買ってきたらしい、樫木はスポーツ新聞の夕刊を開き、記事の一つに指をさす。現在進行中の連続殺人事件とあってか、あるいはそれ以外の思惑も働いてか、かなりの扱い方をされていた。大文字で踊るのはもちろん〝人喰いジャック〟の文字。惨殺された死体は中身をひきずりだされ、電柱に巻きつけられていたそうだ。
「挑発にのったのね」
とクロエが呟く。彼女は日差し避けの大きな黒帽子を膝の上におき、お化けのように長く色濃い癖毛を、くるくると指でからめとっている。
「存外つまらない怪人だこと。この調子じゃ、近く捕まるのではないかしら」
「それはどうだろうね、魔女さん。街中でこれだけのことができるっつーのは、相当イカれたやつだと思うけど……一方で、今回も有力な証拠はないと書いてある。意外にこのままロンドンの本物のように、未解決事件になっちまうかもしれないぜ」
「こんなやつが都市伝説として残りつづけるのは耐えられないわ」
コーヒーカップをかちゃりと鳴らして、彼女は冷ややかにそう言った。
だが、口調とは裏腹に、クロエは未だ〝人喰いジャック〟を己の手で捕えてやろうと考えているみたいだった。樫木の前だからであろうか、努めて色なく振る舞っているようだが、その瞳は傍から見てもわかるほど熱を持ちすぎている。
「被害者はオレの学校の一年だったよ。何日か前から行方不明になってるって連絡網がまわってきてたんだ。皆、無事を祈っていたんだが……こういう形で見つかるとはね。たまたま、新谷に遊びにきてたらしい」
「こんな小さな街に?」
「友達でもいたんだろ。会うことはかなわなかったようだけど」
会話がとまり、周囲の喧騒が場を満たす。
そこで一通の封筒がテーブルにおかれた。樫木の隣から、シイが放ったものだった。その突きだされた左手の薬指では、指輪が銀色に輝いている。
「今回の被害者のパーソナルデータよ。学校関係者でないと、なかなか手に入らないと思う」
隣からクロエの手が伸ばされた。だが、それは届く前に遮られてしまう。乾いた音を立てて、シイが封筒に掌を押しつけていた。
「そろそろ、はっきりさせておこうよ、クロエ」
「……なにを」
「これは勝負よ、どちらが先に辿りつけるか」
肩口で切りそろえられた亜麻色の髪が乱れて揺れている。
彼女は反対の手を、首元に添えていた。
「あんたが受けるというなら、この封筒はただで差しあげるわ。これからも情報交換をつづけましょう」
いつからだろう。
彼女の話し方がクロエを意識したものだと気づいたのは。
テーブルを挟んで座る向こうの二人。シイには素敵な彼氏ができたと聞かされていた。それを象徴するように、樫木の指にもペアの指輪がはめられている。だが、今の彼女らは恋人というよりも、まるで――。
「その勝負、受けるわ」
そう、クロエが苦々しく答えると、二人は満足げに頷きあって、席を立った。
考えてみれば、彼女らは同じ境遇にあったと言える。シイはあのオンコの下で、樫木はかつてカカシという名であった頃に、魔女によって夜を歩く楽しみを教えられたのだ。
ある種類の蜘蛛の子どもは、孵化すると最初に母親を喰らうのだという。魔女から生まれ落ちた二人が、大人になるために必要としているのも……。
今の僕には、それがただの空想とは思えない。
「ああ、クロエ。それと一つ教えてあげるわ」
席を離れかけたシイが唐突にターンをきり、樫木の背に寄り添った。
「快楽や強迫観念で人を殺すやつなんて、捕まってみればただの人間なのよ」
長身の樫木が日差しを遮り、彼女の表情は影に隠される。だが、それでも赤い唇が薄くひき伸ばされているのはかすかに見てとれた。
「本当に怖ろしいのは――」
「幽霊でしょう」
クロエを振りかえれば、彼女も深く笑みを浮かべていた。
「幽霊より怖いものなんていないわ。あなたはそう思わないの?」
その意味をどうはかったのか、シイはしばらく無言のまま佇んでいたが、やがて「なるほど、そうね」とだけ呟き、また踵をかえした。
二人が去っていく。
人混みの中に姿が消えるまで見届けてから、僕らはあらためてテーブルにむかいあい、視線を交わした。
静寂を最初に破ったのはレオだった。
「さっきの話……おれにも噛ませてくれるよな」
先から言葉少なに見守っていたのには、理由があったらしい。いつも自信満々に馬鹿をやる彼が、珍しくも俯き加減に言うのだ。
「あいつがこんな真似をはじめたのは……相方だったおれが、あの時、あいつの怪我を……」
「あら、元よりわたしはそのつもりよ」
言い淀んだところを遮られて、レオは瞼をしばたたかせた。
クロエは笑みを浮かべたまま、二人が残していった封筒を開き、中身を丁寧にテーブルの上へ並べていく。
「『一人で勝負を受ける』だなんて言った覚えはないし。きっと、むこうもそのつもりでしょ」
あるいは、それは彼女が時折見せる、彼女なりの気遣いであったのかもしれない。
僕らは幾度となくこうしてテーブルを囲んできたが、夜を明かして語らう日もある中で、一度も触れられずにきた話題もあった。たとえば中学まで私学に通っていた僕がこの街に戻ってきた理由。ロリ子がたまに並外れた身体能力を発揮すること。たぶん、レオの野球についてもそうなのだろう。いつか、人を理由なく恐怖のどん底に陥れるのが大好きなのだと語ったクロエであるが、親しい友の前では楽しい話しかしないというのが彼女のポリシーなのだと、僕は最近になって気づいた。
「……あいつを打ち負かしてくれ。頼むよ」
「ふふ、わたしを誰だと思ってるの? もちろん、言われずともそうするわ」
だが、警察でも捕まえられない連続殺人鬼をどうやって見つけるのか。
いくら僕らの教室の魔女と言えど、それはまだ暗中を探るようなものであったに違いない。




