「格闘技はミステリによく似ている」
「カカシ君は野球部のエースでね。中学時代からあの身長で、角度がある上に球も早くて、まぁ素直に凄いピッチャーだったって思うよ。あの三振の山を築く様は見ているだけでも気持ちがよかった。で、その相方がレオくんでさ。〝御堂山東中の完封魔術師〟って異名に聞き覚えは……え、ない? 本当にないの? あー、そっちは進学校だったもんねぇ。マジな話、道内の野球部で知らない人がいたら、そいつはモグリってくらいだったんだよ」
この人は、レオが絡む話になるととまらなくなるよなぁと、僕の感想はそんなところだ。ぼんやり聞き流していると、ロリ子はマットの上に足を広げ、身を柔らかくうつ伏せにした。「んっ」と漏れる声が色っぽく、思わず傍にいる彼女の姿に目を捕らわれてしまう。
「二年でレギュラーとってからは負けなしでさ。三年になって野球推薦の話もきた。二人ともにね。でも、引退間際の大会予選で……不運にもカカシ君が左肩を壊した」
彼女は珍しくスカート以外の服装を選んでいた。ジーンズ生地のホットパンツの下にのぞくは、健康的に焼けた太もも。小さな体のわりに意外と肉感的な形をしている……などと考えていると、見透かされたのか、じろりと鋭く睨まれてしまった。
「あのねぇ。ちゃんとストレッチしないと怪我するよ」
「やってるやってる。体が硬い方だから、つい」
「なにがつい、だよ。エロい目で見やがって。誰のために体を張ってやってると?」
そうなのであった。
ここは彼女の家である。実家が空手の道場だと聞いたのを覚えていて、今日は招待してもらったのだ。彼女も通っているというその道場は、バスケットコートほどの広さで、壁には幾つもの名札がかけられている。想像していた以上に立派な佇まいで、二人きりで占有していることに気後れを感じてもいた。
「カカシ君については、実はそこからあまり知らないんだよ。怪我で推薦が駄目になって……あたしたちとは別の高校を選んだ。以来この二年間、ずっと疎遠になっていた。クロエちゃんなら連絡をとりあってたのかなと思ってたんだけど、あの様子だと違ったみたいだね」
「クロエとコンビを組んでいたってのは」
「それは野球をやめて、高校に入るまでの間だね。とはいえ、それも詳しくは知らないんだ。前にも話したと思うけど、クラスが別だったし、噂で聞いたくらいで」
「おまえ、ほんとレオ以外の男は眼中になかったんだな」
「言うなよ、照れるじゃない」
そう軽口をたたいて彼女は立ちあがる。
準備は完了したようだ。僕もストレッチをきりあげ、腰をあげた。
「とはいえ、クロエちゃんと知りあって、性格ががらっと変わったのは確かなようだね。マウンドで球を放ってた頃からずいぶんと様変わりした。当時レオくんからは、いたずら小僧になっちまったって聞いていたけど……あれはさらにひどいな。シイちゃんがあいつとつきあう理由が理解できないよ。せめて幽霊相手に戯れるだけに留めておけばよかったものを」
「それ、おまえが言えることか?」
「あたしは少なくとも、自分の腕が届く範囲くらいは知ってるさ。――さてと」
ロリ子は軽く屈伸をしたのち、左足を前にだした。背丈に反してすらりと長い脚である。だが、注目すべきはそこではなく、さらに下。彼女はその細いくるぶしをすっぽりと覆い隠すハイカットのスニーカーを履いていた。あの夜を彷彿とさせる黒色だった。
「さすがに道場に靴はまずいんじゃないか。それに服も、空手着とかに着替えた方がよかったのでは」
「なーに言ってんのよ。どこの路上に、素足で襲いかかってくる暴漢がいる? 今日は本番を想定したテストなんだから、普段着でいいんだよ。靴も上履きなんだし別に構わないから」
「そうは言ってもな……。なんかほんと気がひけるな」
「変なところで律儀なのね。でも、どうせすぐ気にならなくなるって。そんな余裕持たせるつもり、今日はないから」
くいくいと指で促されて、僕も構えをとった。半身を彼女にむけて正中線を隠す。左手で相手をつかむ柔道寄りのスタイルだ。加えて以前の反省を踏まえ、両手はしっかりと顔の前におく。これでやすやすと打たれる羽目にはならないだろう。
強くなりたい、と申しでたのは僕の方からだった。
クロエを守ると宣言した手前、負けた相手をそのままにしておくというのはどうにも居心地が悪く、こちらから彼女を訪ねたのだった。
「じゃ、オズ君。さっそくだけど、顎を守ってみよう」
「は――?」
刹那、ガチィ!と歯が噛みあわされた。
たまらずたたらを踏んでしまう。この痛みはよく知っていた。あの夜、最初に喰らった蹴り技だ。これほど備えていたというのに、あっさりガードをすり抜け、顎を跳ねあげられた。靴を履いているためか、鈍器をぶつけられたかのごとき衝撃だ。
「な、なん――」
「おいおい、舌噛むよ。次は正拳二連突き」
またも防御は意味をなさない。こちらの右掌の最終ラインをなんなく越えて眉間が打たれ、それでも倒れじと頭を低く振ったところに、二発目がやってきた。
だが、手加減をされたのだろう。あの日のように血は吹きでない。それでも視界には光がはじけ、体を立て直すには手間がかかった。
「どうして避けられないんだ、って思ってるでしょう」
「――どうして避けれない?」
「素直でよろしい。でも、答えはもうちょっと打ちあってからにしよう」
言われて、再び構えをとった。今度はスタンスを広くとり、やや前傾に重心をおく。
「お、やる気だね」
「今度は僕からいっていいか」
「どうぞ、お好きに」
あえて空手ではなく、ボクシングを使った。踏みこんだ左のジャブで腹部を狙う。部活の合間に大学の先輩から冗談交じりで教わった技だが、意外に有効度が高い。どんなに鍛えぬいた体でも、鳩尾に当てられると動きがとまる。そこに畳みかけるのが、僕の一つの定石であった。
ところが、これも躱されてしまう。バックステップ一つで、左ジャブと振りかぶった右フックのコンビネーションが軽くいなされた。体の動きに遅れて、オカッパ頭がふわりと膨らむ。だが、その身軽さに驚いている暇はないのだ。右足を踏みだして構えをスイッチさせると、右の手の甲をひるがえし、スナップをきかせて顔を狙う。扉にむかってよくやるノックの要領。ダメージ薄いが、当たれば衝撃に身が怯む。
またも防がれた。彼女は左手で弧を描くようにして拳を払っている。綺麗な空手の受けだ。だが、僕にとってはそれがいい。目元を狙った打撃を払うということは、自らの腕で視界を塞ぐということ。一瞬とはいえ、この隙は大きいぞ、ロリ子――。
「せあっ!」
僕が放った会心の左まわし蹴りは。
光速で飛来した彼女の前蹴りによって、完全に体勢を崩され、宙を切ったのだった。
「おまえ……化け物か」
「心外な。こんな愛らしい女の子を捕まえて、なにを言うか」
もんどりうって倒れた僕を、腰に手をあてたロリ子が見おろしている。
「ほら、立ちなよ。一つずつ説明してあげるから」
「ちょっと待って」
視界の上へと伸びるカモシカのような両足のむこうには、ホットパンツを挟んで、綺麗なおへそが見えていた。彼女の着るタンクトップは若干サイズが大きめであるらしく、ややもすればそのさらに先の――。
「おい、どこを見てる。殺すぞ」
「はい、すみません」
立ちあがって、居住まいを正した。いくらなんでも靴で踏まれるのは痛そうだ。
彼女はやれやれとかぶりを振って、半歩後ろにさがった。
「軽くでいいから、もう一度さっきの蹴りをやってみてよ」
「ん? こうか」
言われるがまま、左足を持ちあげ、横から彼女を狙おうとし。
ぴたりと己の胸元でとめられた彼女のスニーカーに目を見張る。
「うおお、なんだそれ。なんでそんなに早い」
「単純な話よ。あたしが早いのは当然だけど、それ以上に君が遅いの。まわし蹴りはその名のとおり、足をまわして放つ技だから、軌道がまっすぐの前蹴りよりも到達に時間がかかる。同時に繰りだせば、どっちが先にあたるか……わかるよね?」
「む」
意識したことはなかったが、言われてみれば確かにそうだ。
テレビの中のリングでフィニッシュとしてよく用いられる技であったから、僕も好んで使っていたのだけど、まさかそんな弱点があったとは。
「君ねぇ、柔道もやってたんでしょ。だったら、そんなアホなこと言わないでよ」
「どういうことだよ」
「じゃあ、ちょっと説明が遠まわりになるけど、ほら腕だして」
素直にまっすぐ左腕を差しだすと、いきなり胸をどんと突き飛ばされた。しかし、尻餅をつくほどの力ではなく、踵で踏みとどまって前に体を揺り戻す。いったいなにをするんだよ、と文句を言いかけたところで、彼女はするりと距離を詰めてきた。
次に見えたのは彼女のうなじ。ひき寄せられるのは視線のみならず体ごと。いつのまにか左腕を抱えるように掴まれ、ぐるりと天地が逆転し――。
「ほら、一本ね」
見事に投げられていた。
ぽんぽんと膝を払う彼女を、僕はまたも茫然と見あげている。
「柔道までできたのか」
「空手家が投げてなにが悪い。殴って投げて極めて、それで空手なんだよ。元々柔道とも交流が深い。あの夜の決まり手は、君の肩が覚えてるはずでしょ」
マットの上に身を起こすと、彼女は僕の手を持ってひきあげてくれた。なんともお優しいことでと思ったら、やはり他意があったらしく、そのまま離してはくれなかった。仲良く片手をつないだ状態で告げられる。
「では、もう一回いってみましょう」
「できれば優しくしてくれ」
「ふん、初めてでもあるまいに」
またも光速で懐に潜りこまれた。低い姿勢で彼女の背中と僕の胸が密着し、体が浮きかける。そうか、こちらが襟のない服を着ているから、腕だけをとってひきこんでいるのか。だが、今度は簡単にはやらせない。後ろに体重をかけ、それと同時に膝裏を蹴り抜いた。
変則ではあるが、これも柔道の技の一つ、裏投げだ。抱えられた右腕を手前に振ると、意外にもあっけなく彼女がマットの上にころんと転がった。
「よっと」
全身のバネを利用し、一挙動で起きあがるロリ子。そこには逆をとられたショックは見受けられない。むしろ、あえて投げられたのだと表情から悟る。
「今度はどうしてかえせたと思う?」
「そりゃあ……宣言のあとに仕掛けられてもな。体勢も崩されてなかったし」
「それだよ」
彼女はぴっと指を立てる。
「オズ君だって柔道をやる時は、まず小技を挟むでしょ。さっきあたしが突き飛ばしたのもそう。前に後ろに相手の振って、重心がずれたところで投げを狙う。――柔道じゃそうやってるのに、どうして空手ならいきなり蹴れると思っちゃうわけ? テレビの試合だって、ちゃんとガードを崩してからフィニッシュで使ってたはずだよ」
「ああ、そうか。そういえば、そうだな」
かくいう自分もまわし蹴りを放つ前に、右の裏拳で隙を生もうとしていた。
「空手をやめても、そういうのはちゃんと体に残ってるもんなんだよ。あの右が当たっていれば、あるいは受けられた後のコンビネーションが前蹴りなら、マットに転がったのは逆だったかもしれない。ただ、道半ばでやめた分、知識の差がでたな」
それを埋めるためにここへきたんだ。
僕はもう一度半身になり、両腕をあげた。再試合の合図だ。彼女は前屈立ちになって、応えてくれた。唇が薄くひきのばされ、わずかに八重歯がのぞいている。
教えを乞う立場なのだから、こちらから先に仕掛けるのが礼儀だろう。
「その意気やよし。でも、その構え、撃てる技が限定されないかい」
前進して打ったワンツーは、軽く身を捻っただけで避けられる。回転を速めて放りこんだ三発目のショートアッパーは、しかし今度も届くことはなかった。ステップと同時に発射された近接蹴りに、またも顎を抜かれ、体をぐらつかされてしまう。
「脇を空ければ、下からの攻撃に弱くなる」
追撃のモーションに慌てて守りをさげた。だが、それはフェイクであったとすぐ知れる。
まっすぐに伸ばされた無骨な拳が、僕の眼前でブレーキをかけていた。
「下を意識すれば、また上をとられるんだ」
彼女は握った拳から、また一本指を立てて、ちっちっと舌を鳴らした。
「簡単なトリックさ。ファーストコンタクトの謎は解けたかい、坊や」
「ご教授ありがとうよ」
まずは構えから正すことにした。左肩をだす構えは、もとは襟首を隠すために覚えた柔道のスタイルだ。急所を隠せるので打撃戦でも使いつづけてきたが、言われてみれば攻勢にでる時にはモーションが限定されてしまう。肩をまわさなければ右が打てないなんて、避けてくれと言っているようなものだった。
恐れずに前をむく。さらけだした正中線には、両手を天地において備えを得る。
「そうそう。前で捌くんだよ」
今日初めて彼女の攻撃を防いだ。勝手に体が動きだした感覚がある。右の追い突きを小手で受けると、かえす右で掌底を打っていた。それは惜しいところで阻まれるも、まだまだ連撃はとまらない。フォームの矯正がコンビネーションの隙を改善しつつあるようだった。
「格闘技はミステリによく似ている」
相応間合いのまま、中段を蹴り抜く。彼女の右手がそれを払う。
足を地につけてからの上段突きは、また外に受けられた。
「互いに用意したお題を、正しい道筋で解いていく。ほら、今やってることはホームズとモリアーティがやるものとどう違う?」
彼女はわずかに距離をとると、左の上段をまわし蹴りで狙った。両手を横にしてしっかりと受ける。すると今度は反対側から蛇のごとく弧を描いて蹴られる。先にあれほど講義を受けた身だ、なにを選んで反撃すべきかはもう十分に理解している。
「そして、誤った答えを導いた探偵は、滝に落ちて死ぬ運命にある」
渾身の前蹴りを繰りだした先にロリ子がいない。
まず感じたのは足首の熱だった。サイドステップから踏みこんで打ち払われたのだと、そう理解した時には、すでに彼女は僕の後方へ姿を消している。そして不可視の衝撃。
僕はマットの上に顔から突っこんでいた。
隣に彼女がふわりと着地するのが見えた。なにをされたのかは後頭部の痛みが物語っている。
「こういう当て方もあるのよ」
前蹴りをいなしたと同時に体を回転させ、視界の外から踵で蹴り飛ばしたのだ。
飛びうしろまわし蹴り。こんな大技をいともたやすく当ててくるだなんて。
「おまえ、やっぱり化け物だよ……」
「ちなみに今の技を、あたしは閃光回転脚と呼んでいる」
「かっこいいぃぃぃ!」
思わず叫んでしまったが、条件反射みたいなもんだ、起きあがる気力はまだ湧かない。
へっぴり腰で突っ伏したまま、恨み節を口にする。
「無理だよあんなの、かわせるわけがねー」
「まぁ、あたしの蹴りは音速を軽く超えてるからね」
「死の訪れか!」
「よく覚えてたね。こうして技は受け継がれていくのか」
「いや無理だし」
マットに押しつけた額が冷たい。溜息まででてくる。
「こんなんで『僕がクロエを守るよ』とか言っちゃったんだよな……」
「なーに、なさけないこと言ってんの。男らしい台詞だったじゃないか」
「身の程を知らなかったというか……」
弱音を吐きすぎたのか、げしぃ、と尻を蹴られてしまった。
痛い。だが、これが敗北者のポーズだ。
「オズ君さー、しっかりしなよー。あたしんちの門を叩いた時の威勢はどこいっちゃったのさ」
「あの時は、自分がこんなに弱いだなんて思ってもいなかったんだよ」
「君、弱いの?」
視線だけを後ろへむける。彼女は腕を組み、切りそろえられた黒髪の下で眉根にしわを寄せていた。首筋にはうっすらと汗が浮き、蛍光灯の明かりを照りかえしている。
「弱かったじゃないか」
「この筋肉、上から下までよく鍛えてるよね。空手も柔道も、一朝一夕でできる動きには見えなかったけど、帯くらいは持ってるんでしょ」
「ああ、持ってたな」
未来での話だから、どうにも妙な言いまわしになってしまう。
「喧嘩の経験もそれなりにありそうだ。あの夜だって、殴ったり蹴ったりするのに躊躇いがなかったしね。肩を外されてもむかっていける負けん気だってある。それでも――弱いの?」
「事実、弱かっただろう」
「やーれやれ」
彼女はもう一度僕の尻を「オラぁ」と蹴りつけて、立つように促した。もう一発くらい喰らってもよかった気がするが、本格的に目覚めてしまっても将来が困る。観念して身を起こすと、彼女がおなかをだしていた。
おなかをだしていた!
「なななな、なにをやっているのですか、ロリ子さん」
「よし、あたしを殴れ」
「熱血か!?」
「顔は痕が残っちゃうから、おなかにしてね……」
「DVか!」
まさかロリ子とコントをする日がくるとは。
めくりあげた場所には綺麗に割れた腹筋がある。ほんのりと汗で湿ったそこを指さして、殴れよと彼女は言うのだ。
「いや、女の子のおなかを殴るのは、ちょっと……」
「散々殴りかかってきてたでしょ、野獣のようにさぁ。それ、今更だぜ?」
「ですけども」
「全力でこい。なに、あたしの体はブリキ製だ、遠慮はいらんよ」
気後れしながらも彼女の正面に立った。なにを試そうとしているのかは知らんが、まぁ、僕のパンチでどうにかなる体じゃないだろう。下手をすれば、こっちの拳が折れるかもしれない。
腰を落とし右腕をさげる。ショートレンジで腹を打つには、振り子の要領で肘をひいてから。
「せやァ!」
渾身の一撃に、ロリ子の体がうしろへずれた。
彼女は本当に防御をしなかった。ブリキの腹筋に力がこめられ、両足の親指がマットを擦って音を立てる。同時に僕は気づいていた。三戦立ち。両の膝と肘を内側に締めて構えることで、直に攻撃を喰らったとしても高い耐久力を発揮する、古流空手の型。なるほど、これが彼女のサイズに見合わぬ強さの理由だったのか。
「ま、こんなもんだよ」
言って、彼女はにやりと笑い――。
「おっげええ! げえ! げぼぉ!」
前のめりに倒れて、勢いよくえづいた。
「お、おい。大丈夫――」
「オラぁ!」
下から突きあげられたストマックブローに、今度は僕がもんどりうって転げた。
「げっぼおおお! おええええ!」
「ご、ごぼぉ! げぶぅ!」
二人して床を汚す羽目になった。視界に涙がにじみ、せりあがった胃が肺を圧迫している。こめかみに血管が浮かんでいるのが自分でもわかった。見れば彼女も肩で息をしながら、唾液で糸をひく唇を拭っている。
「はあ……はあ……。これで、わかった……?」
「なにをだよ……死ぬ……」
「人間、殴られれば死ぬのよ。どんなに鍛えてても、このとおり……マジ死ぬ……うぷ」
どしゃあ、と音をたてて胃の内容物をもどすと、彼女はよろめきながらも膝を立てた。
「ふう……。見てわかるとおり、あたしはね」
「死にそう……?」
「そうじゃなくて! このとおり、あたしだってそんなに筋肉はつけてないのよ。背もちっこいし、肉がのる容量ってのがあるから。でも、君にゲロを吐かせるくらいは簡単にできる。これは別にオズ君が弱いってわけじゃあないんだよ。人間の体ってのは脆くできてるの。女の子の細腕でもやれるくらいにね」
先までの自分なら、そりゃロリ子が特別だからだと信じようとしなかっただろう。だけど、この手で彼女に汚物をまき散らさせてしまった今なら……いや、正直まだ半信半疑だが、さしもの僕もおなかを押さえて泣いている少女を前にして、否定を口にすることはできなかった。
「君は弱くない」と彼女は繰りかえして言う。「オズ君があたしに打ち負けるのは、単純に知識量の違いだよ。一発いいのが入れば勝てる勝負なんだから、そりゃ長くやってる方が勝つさ」
「喧嘩に筋肉は関係ない?」
「最低限は必要だろうけど――前に話したでしょ? 運動量保存の法則。拳に重みが足りなければ、速さで補えばいいのよ。それでも足りなければ、石でも握って殴ればいい」
僕がしばらく黙っていると、彼女はふと眉をしかめた。
「もしかして、人喰いジャックが熊のような大男だと思ってる?」
「え」
喉奥から漏れた疑問符は、素直な驚きによるものだった。
「やっぱりか……。その様子だとテレビの報道をすっかり信じこんじゃってたみたいだね。もしかして、クロエちゃんもそうなのかな」
「だって、それは」
「死体をバラバラにひき千切れるくらいだからって? 馬鹿ね。あれは、そういう殺し方を知ってるってだけだよ。人類は数百万年前に道具を使うことを覚えた」
知識さえあれば、人なんて簡単に殺せるのだと彼女は言う。
人類は爪と牙を失った代わりに、刃物を手に入れた。それがあれば男でも、女でも、誰でも死体をつくるのは容易い。さらに労力をかければ、切断することだって。感情を麻痺させれば食べることだって。
ひとしきり話し終えると、彼女は瞳に冷たいものをたたえて、まっすぐに僕を見据えた。
「意外に犯人は普通の人間なんだろうと思うわ。見た目、虫も殺せぬようなやつなのかも」
「警察も大男が犯人だと考えているから、見落としてるってわけか」
「あるいは子どもなのかもね。あたしたちと同じくらいの年頃でも、人は殺せる」
「それは物理的に可能だってだけじゃないか?」
「物理的に可能なら、可能だって知ってるなら、誰でも〝人喰いジャック〟になれるさ」
彼女は言う。
「だから、君にもできるよ」
その言葉の意図を理解するには、二呼吸ほどの沈黙の時間を要した。
そうしているうちに、彼女の口が再び開いた。静かな語調で告げられる。
「戦い方を学べば、君にだってクロエちゃんは守れるよ。誰もがジャックになれるのと同じように、誰でもヒーローになれるのさ」
「……ああ、そっちか。そうだよな」
「なんだと思ったの?」
「いや」
僕は大きく息をついて、両手をマットについた。そのまま体の調子を確かめながら、そろそろと腰をあげた。殴られ過ぎておかしくなった箇所があっても不思議でない。節々が悲鳴をあげていた。
「お、ちょっとは、やる気が戻ってきた?」
「まーね。君が教えてくれるなら、すぐに強くなれそうだ」
「だから強い弱いの話じゃなくて、勝てるか勝てないかの差なんだけどね……。まぁ、いいや。とりあえず今日のところは」
彼女も立ちあがって、足元を指さした。
そこにはなんとも形容しがたいの半固形の液体が二つ、円を描いていた。
「これの掃除をしよう」
「ですよね……」
なお、掃除を終えたのち、シャワーを借りたところにロリ子の両親が帰ってきて、あらぬ誤解を受けてしまうのは小一時間ほど先の話である。その詳細は、まぁ別の機会にでも語ろう。




