「……偽物だったから、だろ」
会社に入って何年か経った頃、同僚とこんな話をしたのを覚えている。
大人っていうのはなんだろう?
思えば高校生の頃はやたらと背伸びをしたがったよなと、同僚の一人が言った。煙草を覚えた年齢は?という質問がでて、十八、十六と競いあうように数字がさがっていくのが笑いの種だった。ただ、ニコチンやアルコールだけで大人になれるなら苦労はしない。俺なんて未だに大人になれた気がしないよとジョッキを置いた彼には、美人の奥さんがいて、そろそろ二人目の子どもが生まれると話していた。
御厨はどうなんだ、と問われてきりだしたのは空手のことだ。今までピアノを弾いてきた人間が突然道場に通いだし、はては黒帯までとってしまった。なぜそんな決心をしたのか、当時は自分でも不思議だったが、もしかしたら早く大人になりたかったからなのかもしれない。年をとることよりも、強くなることが大人になる近道だと思っていた節があってさ、と僕は締めくくった。
同僚たちは顔を見あわせ、一理あると頷いた。ある者は腕をまくり、ある者は空になったジョッキの山を眺め、強さが大人の条件なら、いつのまにか大人になっていたんだなと神妙に呟いたのだった。
さて、今僕の隣には魔女がいる。
テーブルに肘をついて僕を見あげている。半刻前、〝人喰いジャック〟を名乗る集団に襲われた時には青ざめていた顔色も、すっかりとまでは言わないが、よくなってきたように見える。店内のざわめきの中で、彼女の囁きが耳に滑りこんできた。
「一つ聞きたいのだけど」
「どうぞ」
「どうしてわたしたち、焼肉屋にいるのかしら」
いい質問だ。僕もそれについて思いをめぐらせていたのだ。
カカシこと樫木一也に助けられたのち、彼をひき留めてくれと頼んだのは彼女だった。二年ぶりという会話や、クロエやレオの態度からは、彼らの間にやや複雑な事情が横たわっていると見てとれた。そこにシイがあらわれたことで、事態はますます混迷を極めた。これが一編の映画であったなら、たまらず時間を飛ばして、次のシーンに入っているところだろう。もろもろの昔話は回想かなにかで補完される流れに違いない。
だが、現実は映画とは違う。この世界では黙って口を開けていても餌は与えられない。クロエが望むように彼をひき留めるにはそれなりの力が必要で、その上、話をひきだすとなればトークのスキルも必要だった。正直、僕は人づきあいがそれほど得意でもないし、どちらかというと話下手な部類だろう。でも、ある限定的な空間であれば、たとえ相手が初対面であったとしても、ポテンシャルを二倍にも三倍にもして発揮することができる。
そう、ここしかなかった。
この焼肉屋でなら、未来での経験をもってして、僕は大人の強さを発揮できるのだ!
「いや、なにを言ってるか、わたしにはわからないわ……」
クロエは半眼になって呟いた。
「喫茶店とかでよかったのに、焼肉とか……。わたし、そんなに食欲ないんだけど」
視線を前にむけると、ロリ子が頷いていた。
「服に匂いがついちゃうよね」
見れば、シイまで溜息をついている。
「私、親に電話しないと……」
あ、あれ、おかしいな。
大人の強さが発揮できないぞ……?
「ははは、なんだ君。駄目駄目じゃないか、御厨クン」
くだんの樫木までが、僕を笑った。そのまま目を細めて、にやにやと言う。
「そんなんじゃ、オレの代わりはとても務まらないね。この店選びからすると、もしかして魔女さんにデートの一つもしてもらってないんじゃないの」
「む……」
そんなことないぞ、とかえしかけて、隣の魔女の様子に口を閉ざした。
クロエの表情はなんとも形容しがたい。僕を見るわけでもなく、かといって樫木に反応するようでもなく、黙って手元のメニューに視線を投げている。
テーブルを挟んで、ロリ子が僕だけに小さく肩を竦めた。この状況はなんだろう。想像していた以上に、なんともやりにくい。
「……まぁ、とりあえず飲みものでも頼もう。樫木君、なににするか決まったかい」
店の奥に手を振ると、やや年上と見える女性の店員がやってきた。「ご注文お決まりですかー」と間延びした声で問いかける彼女に、樫木は慣れた雰囲気でこう告げた。
「じゃ、オレはビール」
「え」
端の席で、レオがメニューを持ったまま絶句するのが目に映った。
当然ながら、このテーブルを囲むのは未成年ばかりだ。なのに樫木は平然と「君ら、まさか飲まないのか」なんて台詞を吐く。店員も戸惑いの表情を浮かべている。
「僕も生を」
今度はロリ子が大きく咳こんだ。慌てて目前の水をとる。こんな反応をする彼女は実に新鮮で、危うくフォローをいれそびれてしまうところであった。
「ああ、君らはアルコール駄目だからね。うちのサークルはそんなんじゃないんだ。この悪い先輩にそそのかされちゃいけないよ」
つまり大学生の飲み会を装ったわけだ。全員が私服であったのが幸いで、店員はやや訝しげな顔であったものの、それ以上深くは追及してこなかった。
うまく演技ができているうちにと、僕はレオにも話を振る。
「レオはどうする。君もビールにしとくか」
「いや……おれはやめとくよ。ウーロン茶をひとつ」
彼も自分が実年齢より老けて見られることを思いだしたらしい、いささか声を低めにそう答え、それから後輩を気遣う態度を装って、女性陣にメニューを差しだした。
「じゃ、あたしもレオくんと同じやつで」
ロリ子が答える。シイとクロエも一瞬だけ視線を交え、あとにつづいた。
「私はオレンジジュース」
「わたしは、このコーン茶ってやつを」
かくして無事のりきった僕らの前に、注文の品が並んだ。うち二つが琥珀色の液体に泡を浮かべ、乾杯の時間を今か今かと待ちわびている。
「なんだ、御厨クン。少しはやるようじゃないか」
「そりゃ、君の代わりらしいからね」
「――へえ」
と、樫木は口の端を釣りあげた。
長方形のテーブルに左からシイ、樫木、ロリ子。そしてこちら側にはレオ、クロエ、僕が座っている。それぞれジョッキを手に持って、「乾杯」の一言とともにそれを打ち鳴らした。
ある意味で、戦いがはじまる合図でもあった。僕は一息でジョッキを半分にすると、口についた泡をぬぐう。久方ぶりに口にするビールの味はひどく美味に感じた。だが同時に、胃の中に落ちたそれは、苦みとともに炎をともす。
「さて、諸君。オレに聞きたいことがあって呼んだんだろ。話せよ。遠慮はいらないからさ」
「そんなことよりも、まずは肉だ」
「はあ?」
「おまえはなにしに焼肉屋にきたんだ?! ふざけてんのかァ?!」
びくっ、と体を震わせる樫木。そうだ、戦は先手必勝、このフィールドでイニシアチブがとれると思ったか? 僕はあらためて店員を捕まえると、荒ぶるリズムにのせて立て続けにリリックをぶっ放した。
「上塩タン三人前に、この伝説カルビを頼む」
「伝説カルビはサービス品ですので、ワンテーブル二人前が上限になりますが、よろしいですかー?」
「六人もいるんだ。こっちも三人前でお願いできないかな」
「そうですねぇ、ちょっと店長に聞いてきますー」
「頼むよ」
一旦店員がひきあげたところで、ようやく我にかえったのか樫木が身をのりだしてくる。
「おいおいおい。勝手に注文してんじゃないよ。君は肉奉行か? あのね、こういうのはまず、ゲストになにを食べたいか聞くもんでしょ。ねぇ、魔女さんもそう思わないかい? 彼ってばちょっと常識が」
「黙れ」
「だ、黙れって――」
「ここは僕のおごりだ」
彼は口を開けたまま、今度こそ静かになった。視線が重力に負けて、僕からテーブル上のメニューへと落ちる。瞳がせわしなく左右に揺れる。
「おごりって、マジかよ……」
「今日は助けてもらったからな。いくらでも食べてくれ」
「なにを頼んでもいいのかい……?」
「ああ、もちろんだ」
「このミスジってやつ、その、ちょっと高いけど……」
「食べたいのか? よし、頼もう」
店員が戻ってきた。満面の笑みで「伝説カルビ、三人前オーケーでーす」と言ってくれる。ありがとうと礼を述べて、僕はメニューを手元にひき寄せた。
「ミスジとサーロイン、上ハラミにマルチョウを三人前ずつ」
「あーオレ、野菜の盛りあわ……」
「野菜は草だッ」
口を挟みかけた樫木が「ひっ」と声をあげて小さくなった。
「代わりに、おまえら米はいるか? いるだろ」
居並ぶ顔ががくがくと縦に揺れる。
「ライスの並を人数分、赤身がでるタイミングで持ってきてくれ。それに生のおかわりを――」
ジョッキを傾けて空にした。彼を見やると、慌てた様子で僕にならう。わずかに頬が赤くなりつつあった。よしよしいい調子だ、そうでなくてはな。
「おかわりを二つ」
店員はすぐに新たなビールをもってきてくれた。これを飲み過ぎると米が入らなくなるが、なに、百戦錬磨と謳われた御厨浩平だ。胃袋は鉄でできている。
最初にでてきた肉は、もちろん塩タンである。見れば涎がでるほどの上ものであった。各々の小皿にレモンが絞られるのを待つと、トングで六枚を一度に網へのせた。とたんにじゅうじゅうという心地よい音が周囲を満たしていく。
「いいか、焼肉にはベストなタイミングというやつがある」
やや厚めのタンであったが、火力がいいのか、すぐに側面が反りあがってきた。手早くひっくりかえすと、そこには食欲をそそる網目状の痕が走っている。
「急いては半生で食う羽目になるが、かといって待ちすぎれば焦げてしまう。肉を焦がすのは重罪だからな。常に最適なタイミングを見極めてとりあげないといけない。――ほら、もういいぞ。箸を持て」
全員が号令にならいタンをつかんだ。薄く色のついたレモン汁にひたし、ややぎこちなく口の中へ放りこむ。しばしの咀嚼。するとどこからともなく、ほう、と吐息が漏れた。
「さ、次はおまえらでやってみるんだ。この焼き加減をはかる行為を、僕は『肉との合意をとる』と呼んでいる」
次の六枚を並べると、樫木もクロエも、レオやロリ子やシイまでもが、じぃっと真剣に網を睨んだ。肉が焼けていく瞬間を見守るというのは、なんとも幸せな時間だ。そう思わないか? だが、誰もが真面目に焼肉をやるのは初めてのようで、なかなかひっくりかえせないでいる。仕方がなしに、今度も僕が先陣をきった。
「こういった肉で片面を焼き過ぎてしまった場合には、裏はさっと炙るだけでいい。今日のこのサイズなら、ほらこれだけで十分」
合意がとれた瞬間を見せつけてやった。
肉汁が艶めかしく輝き、箸をつたって皿にしたたり落ちる。レモンと油が混じりあい、複雑な模様を描いていく。ああ、これを見る度に、僕は生きているって気持ちになるんだ。
食んだ。期待どおりのぷりぷりとした歯ごたえが、今日起きた物事への暗鬱な気分を一瞬で歓喜に変えてくれる。見るがいい、このテーブルの面々を。腹を打たれたクロエですら、あの黒目がちな目をカッ!と開き、夢中になって顎を上下に動かしている。
「う、美味い……」
樫木の一言であった。思わず口にしてしまったのだろう、その台詞のあとで彼は、はっと僕を見た。おかえしとばかりに微笑みをくれてやる。そこへ新たな肉が運ばれてきた。
さあ、伝説のはじまりだ。
種明かしをすれば、この焼肉屋を僕は知っていた。大阪に本店があり、転勤になってからは同僚とよく足を運んだものだった。東京にいた頃は安いチェーンの味しか知らなかった僕も、この老舗の名店でめきめきと経験を積み、今やいっぱしの食通気どりである。肉との合意のとり方も、かつてのグルメ仲間に教わった。北海道にまで支店があると知ったのは、この時代に戻ってからのことだったが、美味い肉の選び方は十年経っても変わらない。
そこで、この伝説カルビなのである。牛のあばらからとれるこの赤身は、適度な脂肪分により実に柔らかく、かつ少量でも旨味に富む。その特性を利用し、上質の肉を薄く切ることによって、手ごろな価格で量的な満足感までも実現しているのだ。そして、なによりも特筆すべきは、上にまぶされた薬味。これでもかというほど盛られた新鮮なネギが、とろける肉とのハーモニーを奏でてくれる。この感動は七代先まで伝えてもまだ足りない。まさに伝説の名を欲しいままにしていた。
「三十秒だ」
僕はトングを持つ腕をまくる。
「このカルビは片面を三十秒だけでいい。それで十分に火が通る。ネギをのせたまま焼いて、ひっくりかえさずにすくいあげるんだ。ほら、クロエ。一枚やってみるぞ」
「えっ、わたし!?」
「しっかり三十秒を数えろよ。早すぎても、遅すぎても駄目だ。肉との合意をとるタイミングを、体に刻みつけろ」
網に一枚、伝説をのせた。みるみるうちに油が滴り、薬味の合間からきらきらと輝きだす。クロエだけでなく、その場の皆が顔を近づけ、ただ時を待った。そして、おそるおそる伸ばされる二本の箸。
「ネギを落とさないように気をつけるんだ。両側から包んでとりあげろ」
伝説が網から離れていく。箸を持つ手がやや震えていた。クロエの赤い唇が艶めかしく開き、その中へほどよく焼けたカルビとネギが消えていった。
ごくり、と喉を鳴らしたのは誰だろうか。一同が固唾を飲んで見守る中、彼女は咀嚼、それから嚥下し……だけどしばしの間、沈黙が訪れた。どうやらうまく言葉を紡ぐことができないようであった。
「お、オズくん……」
「どうした、クロエ」
「わたし、今……すごく、ごはんがほしいの……」
嗚呼、あの高貴な魔女がもはや見る影もない。
目を潤ませ、訴えかけるように見つめてくるクロエ。だが、それ以上はなにも言わなくていいんだ。キミの想いにはすでに応えている。
僕が指をパチィッと鳴らすと同時に、先の女性店員がお盆に人数分のライスをのせてやってきた。とたんに「おおおお!」と雄叫びがあがる。伝説を前にしてはもはや男も女も関係なく、野獣のごとき食欲の咆哮が店内に響き渡った。
「ほら、次は全員で行こう」
華麗なるトングさばきを持って、最小の時間差で六枚を並べてみせる。
「さあ、のせたぞ! 三十秒だ――ッ」
「いち、に……ああっ、駄目! 時間が数えられない!」
「クロエちゃん、時計だよ! 腕時計の秒針を見るの!」
「八秒、九秒経過ッ、このオレが! 肉を前にしてこれ以上待つことができないだと!?」
「やばい! 時間が粘性を帯びているゥ――!」
各々の三十秒後が訪れると、網の上からはカルビがまたたく間に消え失せた。口に放りこんだ一瞬、わずかに時が静止し、そして誰もが猛然と米をかきこみはじめる。僕もお椀を持ちながら至福を感じていた。焼肉はいい。どんな時でも、人を等しく幸せにしてくれる――。
ふと、樫木と目があった。注文を頼むまでは敵意を隠そうともせずにぶつけてきた彼も、すっかり角のとれた柔和な顔になっている。なんか、ほくほくしてる。箸がおかれ、その右手がテーブルを越えて差しだされた。もちろん拒む理由はない。長い時間をかけて、がっしりと男同士の握手がかわされた。
見たか、クロエ。これが! これが大人の力だ!
「ミスジとサーロインをお持ちしましたー」
「待ってましたァ!」
――ということで、そろそろ話を本筋に戻そう。
あらかた赤身を味わいつくしたところで、最初にきりだしたのはレオだった。
「カカシ。あれからどうしてたんだ」
水をむけられた樫木は手拭きで口をぬぐうと、線のように細い瞳を彼にむけた。
「はは、〝カカシ〟ね。懐かしいな。でも、もうあだ名なんて年じゃないだろ」
そうは言うものの、語気にはもうとげとげしさは感じられない。単なる感想なのだろうか。そういえば以前レオがうちに遊びにきた時、僕らが呼びあう様を見て、妹がやけに微妙な顔をしていた覚えがある。もしかしたら、本来中学生のうちに卒業すべきことを、僕らは未だにつづけてしまっているのかもしれない。
「とはいえ、オレもつい〝魔女さん〟って言っちまってたなぁ。ガキの頃の習慣ってのは、なかなかやめられないもんだね。――なぁ、呉緒?」
「……いや、樫木」
「苗字なんて水くさい。オレのことも一也って呼んでくれていいんだぜ、呉緒」
レオは下の名前で呼ばれるのを嫌っていたな、と思いだす。
「そうだな、樫木」
「遠慮するなよ、呉緒」
「しかしな、樫木」
「呉緒ぉ?」
こいつら、なかよし……!と僕は思った。
樫木はテーブルからジョッキをとりあげると、すっかり温くなったビールの残りを一息で飲み干した。おかわりが必要かと店員を呼んでやれば、「これ以上、酔っぱらうのもな」と冷水を選ぶ。この打って変わった紳士的態度も、至高の肉が与えてくれたものだ。
「まぁ、高校はね、うまくやってるよ。一度はやめちまおーかとも考えたが、ほら、私立だからか校風もゆるくてさ」
頭を指して告げられる。キャップは荷物とともに足元のかごへ入れられており、その金の髪があらわになっていた。僕らの高校ではまず見ない色だ。
「おまえ、野球は……」
「おいおい、呉緒。この髪でわかるだろ。今さら坊主頭は勘弁さ」
「だって、おまえ、リハビリは終わったって」
「ああ、そんな言い方をしたっけな。確かにリハビリは終わったけどね、でも一度壊れた肩はもとには治らんよ」
言って彼は左腕を持ちあげた。箸を右で使うので気づかなかったが、どうやら左利きであったらしい。だが、それもまっすぐ上まであがらない。
「このとおりさ。あるいは、オレが星飛雄馬ならよかったんだが」
レオがこんな表情をするのを僕は初めて見る。
樫木の軽口を笑おうとして、だが頬は薄く皺をつくるのみで留まる。言葉は喉につかえてしまったのか、浅い吐息だけが聞こえた。
「そんな顔するなよ。これでも今は今で楽しんでやってんだ」と言って、樫木は左腕を戻し、肩に手をやった。「それに、さっきの偽ジャックくんたちも、この左で叩いてやったから大したことにはなってないよ。頭はちょっとした傷でも派手に血がでるからね」
「まるで何度も見てきた口ぶりだね、樫木君」
指摘してやると、彼はにやっと犬歯を見せた
「そう言う御厨クンだって、オレがでていかなかったら――やってただろ。思いっきりさ。そういう雰囲気だぜ、君」
「さて」
素知らぬ顔を見せて、ビールを飲み干す。煙草があれば火をつけたい気分だった。このわずかな間に樫木一也について知れたことは少ないが、ただ野球が彼の最適なフィールドであったかというと、おそらくそうではないのだ。平然とバットで人の頭を殴れるやつは、いつまでも白球を追いはしない。
「あたしは野球をやってたカカシ君の方が好きだったんだけどな」
彼の隣でロリ子がぼそりと呟いた。
そうだ、彼女も虎であった。街の暗がりで僕を迎え撃ち、本気で腕を折りにかかる獣性を内に秘めている。そんなやつが先の一幕でおあずけをくらって、これまで黙っていたとは、考えれば奇跡に近い状況だった。
「だから、カカシって呼ばないでくれよ、雪ちゃんさ」
「〝カカシ〟で十分じゃない? あんな大立ちまわりをして、それもたぶん初めてじゃないんでしょう。やってること、人喰いジャックを探してるあたしたちと同じだよ、カカシ君」
「……言うねぇ。さすが御堂山東中のロボ子ちゃんだ」
がたり、と椅子がなった。
ロリ子が低い姿勢で樫木を見据えている。〝ロボ子〟、その古いあだ名の由来はレオには秘密だと聞いていた。親友のシイですら、彼女の空手を知ったのはつい最近なのだという。野獣であると同時に恋する乙女でもあるという矛盾。その隠し持った爪を、まさかこんなところで。
「あ、そろそろ網をかえてもらえますか」
「はーい、すぐお持ちしますー」
きなくさい空気が一気にしぼんだ。
店員を呼んだのはシイだった。三人の視線が一斉に集まる。だが、彼女は素知らぬ顔でマルチョウの皿をとると、人数分を新しい網に並べだした。
「あ、ちょっと。まずは網を温めないと」
「あら、そうなの。じゃ、合意をとる仕事はオズ君に任せたわ」
むしろ空気を読んでくれたのか。まだ事態をわかっていない様子のレオとクロエに、ほっと胸をなでおろした。英雄にはもう一杯のオレンジジュースを贈ろう。
僕が再度店員を呼ぶ中、樫木はばつが悪そうに金髪をかきあげ、ロリ子に告げた。
「人喰いジャックか。確かにオレたちもあれを探してる」
「野球よりも楽しいこと、見つけちゃった?」
「そう言うなよ、雪ちゃん。このお楽しみは、そこの魔女さんに教えてもらったんだからさ。君らも同じだろ?」
ロリ子がテーブルを挟んで彼女を見やる。その視線を追うと、僕らの魔女さんは一人美味しそうに白飯の残りをかきこんでいた。お椀に半分顔を隠した状態で、皆の注目を浴びているのに遅れて気づくと、上目づかいのまま名残惜しそうに箸をおく。この人、確か食欲ないとか言ってたよな……。
早くマルチョウとの合意をとろう。あれもご飯にすごくいい。
「野球はやめたが、こっちの方は未だ現役でね。高校にあがってもクラスのやつを恐怖のどん底に陥れるのはやめられなかった。あんなに面白いのって他にないよ。オレの前で、なにも知らないやつらが泣きながら右往左往……はは、思いだしただけで笑える」
「そっちの学校でも、わたしの教えを守ってくれているようで嬉しいわ」
「魔女さん、ご飯粒ついてるぜ」
慌ててクロエは頬をぬぐった。指をさしてからからと笑う樫木。
その風景を横目で見ながら、僕は膨らみはじめた牛の小腸を転がしていく。
「ところが、さ。最近流行ってるあいつ、人喰いジャックだよ。うちの学校は隣町にあるんだが、それでも新谷市に突如現れた怪人の話題でもちきりでね。やつがあらわれてから、だーれも幽霊になんて興味をなくしちまった。早いところ捕まってくれないと、こちとら商売あがったりなんだよね」
「だから、あなたも人喰いジャックを探してるってわけだ」
「そう言う魔女さんだって同じだろ。あんなやつらにまで無警戒についていっちゃってさ。ずいぶんと入れこんでるみたいじゃない」
「わたしは幽霊よりも怖いものがあるだなんて、気に喰わないだけよ」
前には興味深いと言っていた気がするが……。
ぱちん、と油が爆ぜる音に、疑問は一旦脇にやらざるをえなかった。マルチョウの食べごろは、まさに今そうであるように、熱により薄皮が収縮し、両端から中身が飛びだしてからである。人数分の内臓肉には適度に焦げめもつき、テーブル中に香ばしい香りを漂わせていた。この時を逃しては、肉を食べる資格はないと言っても過言ではない。
素早くトングを振るい、小皿に盛る。新たなストックを補充するのも忘れない。焼肉の神が、僕の腕に降りてきている。
「〝人喰いジャック〟は人か獣か。これについて、魔女さんはどう思う」
「野生の熊の話は聞き飽きたわ。いくら北海道だからって、こんな街中に熊がでるわけないじゃない。仮に百歩譲って山から迷いこんだのだとしてもね、人を襲えば必ず痕跡が残る」
「そう! それだよ。毛髪とか糞とかね、そういった残留物を警察が見逃すはずがない。ここは一九世紀のパリとは違うんだ。動物による犯行なら、そうはっきりとメディアを通して伝えているはずだよね」
「でも、いまひとつすっきりしない報道の仕方じゃない? 未だにテレビでは討論会を開いて、毎回熊の映像を流しているわ」
「そこからは二つの推測がたつな」
樫木は湯気をたてるマルチョウを一つとり、タレに浸してから口の中へおくりこんだ。
箸がとまり「うおお」と呟きが漏れた。見ればクロエもあとを追い、がつがつ米を貪っている。人はどんな話をしている時でも美味しく食べられるからすごい。
「がふっぐふっ、げふっ」
……いや、食いすぎだろクロエ。
僕はベチィッと指を鳴らして、店員にコーン茶のおかわりを要求した。
「ごほっごほっ――ふう」
「あー……大丈夫かい、魔女さん」
「気にしないで。つづけて」
ゴトリとジョッキをおき、口元を拭って平静を装う魔女である。
「二つの推測って?」
「そうそう、まずは事件の要素の多さなんだ。連続殺人。死体はバラバラにされていたという。おまけに喰われた痕まであって、そんな異常な事件が街中で起きてるってのに目撃者は一人としていない。ということは、被害者を衝動的に暗がりへひきずりこんでるように見えて、犯行はよく計算されていると見える。女の子だけを狙った事件なのに、しかも衣服の損傷もあるってのに、婦女暴行の形跡を報道されていない点も不思議だ。これじゃあ犯人が男なのか女なのかもわからないだろ? 視聴者にもまるで犯人像のイメージがわかない。市民だって通報のしようがないよな」
「つまり……警察も犯人像を特定するまでは至ってないってことね」
「そう。メディアにネタをリークしてるのは、注意喚起のためじゃない。保険をかけてるのさ。犯人は人かもしれないし獣かもしれない、その両面から捜査しているんだから、捕まえるのに時間がかかるのはあたりまえだって」
そんなところなんだろうさ、と彼は言う。
酔っぱらいの与太話だと言うのは易いが、それにしては妙な説得力があった。
「そして、重要なのはもう一点の方。これは椎子が考えてくれたんだが――」
下の名前で呼ばれて、シイはオレンジジュースの残りから口を離した。
薄茶色の髪は、樫木のそれに近い。委員長のポリシーとも思われた三つ編みをばっさりと切ってしまったのも、眼鏡をやめたのも、そうか、彼氏ができたからだって言っていた。行動をともにしていた時点でわかっていたはずなのに、今更ながら二人の親密さを意識させられる。
「クロエは気づかなかった?」
と、シイは魔女を流し見た。
「なにを?」
「フフ。その様子じゃ、まだのようね」
む、と小さな唸り声が隣から漏れ聞こえてくる。
「バラバラ死体というのは、どうしてできると思う? 犯人はなんのために死体を刻むのか」
「たいていは隠蔽のためね。または運びやすくするため」
「でも、人喰いジャックは死体を特段隠すでもなく、むしろ飾りたてたものまであった。発見されることを自ら望んでいた節がある」
「――シイの言いたいことはわかったわ。あれは、目立ちたがり屋なのね」
「ええ。だから、警察はメディアを通じて挑発を行っている。クロエだって、会心の出来だと思って描いた絵を『これは熊が描いたものかもしれない』とか言われたら、そりゃ良い気分はしないでしょ。だったら人間にしかできない絵を描いてやる!とノってきて、決定的な証拠を残すのを待っているのよ」
こちらも聞けばなるほど、と感じる話ではあったが。
僕はマルチョウをひっくりかえすために身をのりだし、二人の少女の間に入った。
「それって、警察が次の事件を待ってるってことか」
「ただ待ってるだけじゃあないのでしょうけど」とシイがこちらをむく。「なにもせずに捕まえられるなら、こんな形で情報を流したりしないでしょ。警察は市民を守ってくれる存在だけど……市民の一人や二人がいなくなっても、警察がなくなるわけじゃないのよ」
かえす言葉が浮かばない。
こいつ、こんなにうがった見方をするやつだったか? そう思うが、シイの推論を否定できるかというと、僕もあまり自信がないのだ。この先十年、警察には落とした財布を拾ってもらったりと色々お世話になったはずなのだが、どうしてか素直に首を横に振れない。
なぜだろう。気がつけば己の額をなでていた。これは僕の癖だ。シイと同じく、今はないものを忘れられないでいる。この額にあったものといえば――。
「逆に警察がこんな手段にでている間がチャンスなんだって、私は考えるのよ」
「素人が人喰いジャックを捕えるチャンスか。しかし、なんのために」
「あら、オズ君。それはさっきクロエや一也くんから聞いたばかりじゃない? それに……」
彼女は最後になにかをつけ加えかけて、口をつぐんだように見えた。
なんだろう。一瞬の違和感を感じたが、すぐ再開された会話に意識を押し流されてしまう。
「これが札幌での事件だっていうならお手上げだけどね、こんな小さな街に閉じて起こっているんだからさ。ああいった場所をまわっていれば、私たちにも犯人を見つけられるかもよ。事実、今日だってでくわしたでしょう。あのジャックは偽物だったとはいえ」
「……偽物だったから、だろ」
「本物は目立ちたがり屋だって言ったでしょ。人喰いジャックを探す素人探偵がいると知れば、はたして黙って放っておくかな。偽物だけに任しておくかな?」
すると横から樫木が彼女の肩を抱いた。
突然のことにシイは目を丸くする。だが、そんなのおかまいなしに彼は顔を寄せて、反対の手に持つ箸を僕に突きつけた。
「オレなら相手が人喰いジャックだろうが、誰であろうが、こいつを守ってやれるぜ。――でも君はどうかな、御厨クン」
それはつまるところ、宣戦布告であった。
――ぱちん、と。
網の上でまた油が爆ぜる。一度はそれを無視しようとしたが、焼き焦げていく肉には我慢がならず、とうとうトングを掴んだ。溜息をゆるゆると吐きだす。こういう時、どうにもしまらないのが御厨浩平なのだ。
ぷりっと仕上がったマルチョウをよそいながら考える。樫木の言うとおり、昼間の僕がクロエを守れたかというと、そうではない。彼女は捕まり、殴られもした。これではパートナー失格と蔑まれても仕方ない。
だけど……夜を歩く魔女のしもべは、もう僕の役なんだ。
「ん? なんか言ったかい、御厨クン」
「ああ、プライドは大事だよなって」
「はあ?」
こっちも負けずに笑って応えてやった。
「僕がクロエを守るよ。今度こそ」
頬にあたる視線が熱い。隣で彼女が驚いた顔をしているのが、見ずともわかる。
だが、どれだけ恥ずかしくても、訂正するつもりはなかった。
強くなって、大人になったからだろうか。
「じゃあ、あたしはレオくんに守ってもらおうかな」
むこうではロリ子がそう呟いて、レオに「ええっ」と声をあげさせていた。
やがて最後のマルチョウがそれぞれの口内に消える。どんな時でも美味しく感じられるから焼肉って素晴らしい。こんなやりとりをしたあとでも、食べている間は仲良くいられる。今日の日はライバルとして別れたが、いずれはまた全員でこの店に来れたらいいのになと、僕はそんなことを考えた。




