「相変わらず馬鹿な真似をしてるんだな、魔女さん」
八月。夏休みにはいって、僕ら四人は本格的に〝人喰いジャック〟の足跡を追いはじめた。
街を散策する時は、決まってレオとクロエが先を歩いた。学校で同好会をつくろうと言った時も、ライブをやろうと軽音部にかけあった時も、先頭をきってくれたのはいつもレオで、それに面白いアイディアを持ちかけるのは決まってクロエだった。この探索においても僕らの構図は変わらない。僕とロリ子はどちらかというと日陰を歩く方だ。
ああでもない、こうでもないと行く先々で鼻をつきあわす二人のあとを追いながら、うしろの僕らはよくたわいのない話に花を咲かした。たとえば、こんな感じに。
「最近ね、猫の夢を見るのよ」
訪れたゲーセンの薄暗い照明の下、ロリ子は遠くに二人の姿を見ている。煙草の紫煙が漂う空間で、彼らは見知らぬ客相手への聞きこみに熱中しているようだった。一方で、隣で壁にもたれかかる彼女はやや退屈げだ。
「猫? トトのことか?」
「いいや。……まぁ、あの子の影響なんだろうけどさ。笑わないで聞いてくれる? おかしなことに夢の中では、あたし自身が猫なの」
「そりゃ、なんとも」
可愛らしい、と答えるまでやや言葉に詰まったのは、隣に佇むこの少女が一月半ほど前に、僕の肩を外しているという恐るべき事実のためだ。あの路地裏での彼女の出で立ちを振りかえれば、〝人喰いジャック〟よりも都市伝説の怪人としてふさわしいのではないかとすら感じる。それが猫だって?
「らしくないのはわかってるよ。自分でだって、あんな夢を何度も見るのはどうかしてるって思う。でも、夢の中の彼女はそんなのおかまいなしでさ。トトのように自由気ままにふるまって、身軽に街を歩くんだ」
「身軽に、ね。それじゃ今のおまえが自由じゃないみたいだ」
「ふふ」
ロリ子は小さく笑うも、その響きにはわずかに自嘲の色が混じっている。
「あの猫は、夢の最後に必ず彼の部屋を訪れて、頭をなでてもらうの。目が覚めるまでのわずかな時間、深い幸せを感じる。それはプライドとか、色々なものに縛られた人間のあたしには得がたい幸せだよ」
「僕には勇気がないだけのように思うけど」
「勇気ならあるさ! あの日、一世一代のあたしの冒険を邪魔したのは誰だよ」
「ごめん、僕です……」
不意に彼女の胸元へ目が行きかけるのを理性を総動員してとめる。かろうじてとめる。ロリ子にはそんな気持ちを抱くまいと考えながらも、あの湯気のむこうに確かに見えた白い起伏がどうしても忘れられなくて、いやマジ困る。
「でも、プライドが大事っていうのは、わかるかもしれないな」
「え?」
彼女の視線を頬に感じながらも、僕は言った。
「好きな相手とは対等にいたいもんな。自分だけが好きだなんて、悔しいに決まってる」
「オズ君、君さ……」
ちょっとはイイ男になってきたじゃないの、という呟きは黙って聞き流すことにした。なぜって、自分が口にした台詞に恥ずかしそうに俯く彼女を、本当に可愛らしいと感じてしまいかねなかったからだ。うかつな返事をして、この空気を壊してしまうのもつまらない。
「だけど、それなら君こそ、もっと勇気が必要なんじゃないの?」
「なんだよ、それ」
「この人喰いジャック探し、いつまでもレオくんに先頭をやらせておいていいの? 今だって、君が彼女の隣にいないとまずいんじゃない?」
「そりゃ、お互いさまだろ」
そう答えてやると、ロリ子はくつくつと喉を鳴らした。その頭の上では猫耳の帽子が揺れている。ここにくるまでは格好と中身とのギャップに戸惑ったものだが、今は彼女が誰よりも女の子らしく見えるから不思議だ。僕も思わず微笑んでしまう。
と、そこで遠くにいるレオがこちらへ大きく手を振った。なにやら情報をつかんだらしい。壁から背中を離したところで、クロエがロングスカートの裾を揺らしながらやってきた。
「今日は幸先いいわよ。むこうの三人組、ほら見えるでしょ。あの人たち、事件の犠牲者のクラスメイトだったらしいわ」
クロエに負けず劣らず黒ずくめの格好をした三人組が、煙草を片手にレオと談笑している。
「ん――大丈夫なの、クロエちゃん。ちょっと柄悪そうな人たちだけど」
「心配性ねぇ、ロリちゃんは。ほんと怖がりなんだから」
そう言って彼女はロリ子のおでこをつつく。最近、この二人も仲がいい。あの温泉でも相部屋になって夜遅くまで話しこんでしまったと聞く。女の子同士の秘密のピロートークさ、と詳しくは教えてもらえなかったのだけど、旅行を境に以前にも増して距離が近くなったように見える。おでこを押さえて口をとがらせるロリ子を見ても、まるで姉妹がじゃれているみたいだ。
あるいは、シイが抜けた穴を埋めあっているのかもしれない、なんて考えてしまう。
知らぬ三人のあとをついて、僕らはゲーセンをでた。騒がしいところで話す内容じゃないからと、彼らは行きつけの喫茶に案内すると話した。被害者の級友なら同じくらいの年のはずなのだが、他校の生徒だからか、あるいは先に見た煙草の所為か、そのうしろ姿にはいささか違和感があった。ロリ子がああ言うのも無理がない雰囲気だ。
「ところで、さっきの猫の話だけど」
ぼそり、とそのロリ子が爪先立って耳打ちしてくる。
「運動量保存の法則って習ったわよね。物体が移動する時、その運動量は質量かける速さであらわされ、摩擦のない空間をすすむ限りそれは維持されるという」
「ああ、物理の教科書に書いてあったな。それが?」
「夢の中で、あたしが猫になる瞬間も、運動量の総和は保存されて然るべきなのよね。仮に猫がざっくりあたしの十分の一の体重だとして、空中で変身すれば、その時のスピードは十倍に加速されるはず。全力で走ってなら、軽く新幹線以上のスピードがでるんじゃないかな」
「問題は空気抵抗だな。……って、おまえはこんな時になにを言ってるんだよ」
彼女は偽物の耳を揺らし、上目づかいで囁いた。
「こんな時だからだよ。どうも緊張してるみたいだからさ」
どうやら気遣ってくれたらしい。言われて、自分が歩きながら拳を握っていたと知る。
「あたしも滅多な展開にはならないと思いたいけどね……。でも、最近この街もあれだからさ」
「殺人鬼が徘徊するこのご時世だから?」
「それもあるけれど」
当初、〝人喰いジャック〟を探すなら夜だろうと意気込んだレオをとめたのも、そういえばロリ子だった。クロエは心配性と言ったが、全身凶器の彼女が心配するのは自分自身じゃない。
「ノストラダムスとかいうの、流行ってたでしょう」
「ああ――」
懐かしい響きだった。
僕の主観ではあれからすでに十年以上が経ってしまっているが、思えば今がまさにその年なのである。この一九九九年では、大昔の占星術師が遺した終末予言があちらこちらで囁かれていた。恐怖の大王が降ってきて、というやつだ。初めはトンデモ本の中のみで語られていたのが、いつしか漫画や小説に進出し、今年にいたってはある種のブームのごとくテレビでとりあげられるようになった。世界が終わるという彼の予言を信じてしまい、少女がビルから飛び降りたなんて事件もあったと記憶している。
が、それも先月までの話だったはずだ。なぜならノストラダムスの大予言は一九九九年の七の月を語る内容であったから。無責任なもので、あれだけ騒いでいたマスコミも世界が終わらなかったと見るや、なんの釈明もせず、すぐに新たなターゲットを探しはじめた。きっと〝人喰いジャック〟もその一つなのだろう。
「ああいう退廃的な雰囲気はね。一度触れてしまうと、なかなか忘れがたいものなんだよ。あたしたちが小学生の頃に、島の方で大きな地震があったじゃない。毎晩テレビで報道されるあの島を見て……恥ずかしい話なんだけどさ、あたしは恐怖に震える一方で、明日この街も滅べばいいと思ってた。本当にそうなったら困るに決まってるのに、みんな死ぬならそれでもいいかって、世界の終わりを願ったんだ」
「僕も常々会社が爆発すればいいのにって考えてた」
「君はたまに変なことを言うよね。いや、いつも変だけど」
ロリ子だって大人になればわかるよ、と言ってやれば「調子がでてきたじゃない」と脇腹をつねられてしまう。溜息を一つ挟んで、彼女は前を歩く他校生らを指さした。
「恐怖の大王が去って、人喰いジャックがあらわれて、この街の人たちはどうも悪い空気にあてられてる気がするよ。理由のない鬱屈とした気持ちというかさ。あの三人からも似た雰囲気を感じる。滅多なことにはなって欲しくないと言ったけど、どうもそうはいかないみたいだ」
「被害者のクラスメイトなんだろ。なら、そんな気持ちになってもおかしくない」
「あれを信じてたの?」
僕は彼女の瞳をのぞきこむ。
「……心配のしすぎじゃないか」
「気持ちに嘘をつくのはよくないな。まぁ、このあとの成り行きをじっくり見ておくといい」
細い路地を幾つも抜けた先には、閑散とした住宅街が広がっていた。僕がピアノをはじめた頃には、このあたりは富裕層の土地だと聞かされていた気がするが、それにしてはあまりに人の気配がしない。夏休みはまだはじまったばかりで、実家がある南の方ではひっきりなしに子どもらの声が聞こえてくるものだが、ここにはそれもない。駅から距離があることが次第にこの区域を住みにくくしてしまったのだろうか。どこか、あの魔女の住処を彷彿とさせる。
コーヒーショップの看板を見つけた。表面が割られていて、見る影もない看板だ。地面にはしなびた植木鉢。建物にはシャッターが閉まっている。そこまでやってきて、他校の三人の男たちはゆっくりとこちらへ振りかえった。
「さぁ、着いたぜ」
「着いた……って、ここ閉まってるじゃないか」
戸惑いを含んだレオの言葉に、男たちの一人が「そうだねぇ」と笑った。
「ここで仲間が待っててさ」
そう言うが否や、建物の陰から新たに二人の男があらわれた。どちらも飾り気のない黒いキャップを目深にかぶっていて、そのつば元で日光を反射するのは……あれはバッジだろうか。そういえば他の三人も、襟首に、胸に、ベルトの横に、すべて同じものをつけていた。丸い。それは心臓か? いびつな襞に覆われたマークだ。
「あんたら、人喰いジャックを探してると言ってたな」
「あ、ああ。おまえらもそうだって」
「そいつは嘘だよ。俺たちは探す必要なんてない」
男たちの輪が広がり、僕らをとり囲もうとしている。不穏な空気にレオがあとずさろうとして、アスファルトの欠片を踏んだ。ぱきりと乾いた音が辺りに響いた。
「おまえらももう探す必要はないよ。よかったじゃないか」
「どういう意味だよ……」
「俺たちが人喰いジャックだ。一連の事件は俺たちのチームでやったんだよ」
「は――?」
突如、男たちの一人が、前列にいたクロエの腕を掴んだ。驚き振り払おうとしたが失敗に終わる。むしろ体勢を崩されて、あえなく肩まで抱き寄せられてしまう。癖毛の長髪が乱雑に揺れ、それなのに僕はタイミングを逸し動けない。レオも別の一人に阻まれてしまっている。
「おとなしくしろよ、そうしたら今日は殺しやしないさ。明日になったら、ちゃぁんと家に帰してやるから……なぁ? おまえらは女を残してさっさと消えろよ」
きひひ、と汚らしい笑い声が黄色い歯の隙間から漏れた。
「それとも、あの女みたいに暴れるか? いいんだぜ、おまえら全員、アレみたいにバラバラにされたかったら、さ」
「あ、あなたたち、冗談もこのくらいにしないと、警察を」
「黙れよ」
男が放った拳に、クロエが腹を押さえてくぐもった声を漏らした。こらえきれず下をむき、帽子と前髪の陰から胃液がこぼれ落ちる。
「おまえら――ッ」
「おおっと、動くなよ。なんなら、もう一発くれてやってもいいんだぜ、この可愛いカノジョにさぁ」
駈けだそうとした足がとまる。だが、怒りで拳が震えて仕方ない。なんでこんなやつらのあとを、馬鹿みたいについてきてしまったんだ。〝人喰いジャック〟を探す? 警察でも手をこまねく犯罪者を、この手で見つけるだって? ああ、僕らは山で遭難した素人だ。自分だけは大丈夫と根拠のない自信にとりつかれて、迂闊に足を踏み外してしまった。落ちるべくして落ちた愚か者じゃないか!
うつろな目で男にかかえ直されるクロエを前にして、僕は――。
僕はシャツの裾を強くひっぱる別の手に気づく。ロリ子が僕の体にぴたりと寄りそい、帽子の下から怯えた視線をこちらにむけていた。だけど、素早く放たれたウィンクに、その表情がつくられたものだと理解する。
「賭けはあたしの勝ちだな」
と、他の誰にも聞こえぬよう囁かれた。
男たちからは彼女が震える子猫のように映っているだろう。だけど、僕だけは知っている。彼女は虎。獲物を一撃で屠る牙を持っている。
「なら、これからあたしの言うことを聞いてもらうぞ」
「こんな時になにを」
「黙って聞け。いいか、まずは手近なやつの顔を全力で殴れ。全力だぞ。思い切り腕を振ってあてれば、必ずぶっ倒せるから」
ロリ子は怯えながらも笑うという器用な真似をやってのけた。頭の上で三角耳が揺れ、唇の隙間からわずかに犬歯が覗く。
「どうせ躱されやしないよ。どう見ても、あいつらは素人だからな」
「素人、だって?」
あらためてジャックを名乗る男たちを見やった。どいつも柄の悪い格好をしていたが、言われてみれば、なんというか……体の線が細い。確かに殴れば倒せそうな肉づきだ。そして、とてもじゃないが、人間の体を切断できるほどの力があるとは思えない。
なるほど、と急速に熱が冷めていくのを感じる。二重の意味で僕らは騙されたのだ。
「落ちついてきたじゃないか。なら、ここらで自分の腕を見てみろよ。その筋肉は随分と鍛えこんでるように見えるが、あたしの気のせいかな」
「なら、僕は左の二人をやる。右の三人は任せたぞ」
「えっ、そんなこと、あたしできない……」
「……」
その顔をじぃと見おろす。彼女は怯えながらも舌をだすという器用な真似をやってのける。
「あたしはかよわい女の子だよ。少なくともレオくんの前では、な」
「マジか……」
「協力してくれるって言ったの、あれ、嘘だったの? 約束は果たしてもらうよ。あの夜にあたしに吐いた台詞を、もう一度聞かせてみせろよ」
タイミングのいいことに、そこで男の一人が僕に怒鳴った。さっさと消えろよ、とかそういった感じだ。まるで野良犬だ。クロエが捕まっているという危機的な状況は変わらないのに、こっそり溜息をつくくらいの余裕が生まれていた。相手は五人。ロリ子にはああ答えたものの、僕から見れば五人の子どもでしかない。チンピラであった大学生の頃が不意に思いだされる。
まずは手近なやつの顔を全力で、だったな。
クロエを殴った分はのたうちまわってもらおう。が、目を打てば眼底の圧迫により脳を損傷させる危険がある。かといって下を狙いすぎれば、歯を折ってこちらの拳が傷みかねない。出鼻をくじくという言葉があるが、人間は鼻を殴打すると面白いくらいになにもできなくなるものだ。ならば、それがこの場にはぴったりか。慎重に、よく狙わなければ――。
未だ別の男と揉みあうレオに視線をおくり、僕が一歩足を踏みだそうとした、その時だった。
「なーに、楽しそうなことやってんの」
予期せぬ方向から声が投げかけられた。
視線をむけると、反対の路地からまたも知らぬ青年が姿をあらわしている。
逆光と目深に被られたキャップにより顔がうまく見えない。やたらと背が高いことだけはわかる。柳のようなシルエットで、肩には細長い形をした妙なバッグを背負っている。そいつが、ぼりぼりと首をかきながら近づいてきた。
「それに、さっきジャックがどうとか聞こえたけど」
「なんだてめぇ……てめぇには関係ねーだろ」
僕らとの間を割って立ちふさがった偽ジャックの一人に、闖入者の彼はひどくのんびりとした口調で答えた。
「関係はあるねぇ。なんせ、オレたちも探してるもんだから」
「なにを」
「だから、人喰いジャックだよ。君らがそうなんだろ? そう言っていたのを確かに聞いた」
まるで紅茶の銘柄でも言いあてるかのような調子で彼は話すのだ。
「だったら、なんだってんだよ。ぶっ殺されてぇのか、てめぇも」
「いやぁ、怖いことを言うねぇ」
「余裕こいてんじゃねーよ。今すぐここから消えろつってんだよ」
「それよりも、ちょっとこれ、見てみなよ」
どうにも会話のペースがつかめないやつだ。傍で聞いていても思うのだから、前にしている男はなおさらだろう。その怒りと焦燥は一目瞭然、つつけば破裂しかねない風船のごとき顔をしていた。
一方で、細身の彼の振る舞いは、とても猛る不良を相手どるものとは思えなかった。よっこらせと肩のバッグを地におろす。それは一本の筒のような形状をしていて、緩慢な手つきでジッパーが開けられていく。中からでてきたのは――。
「これ、なんだと思う」
「野球の、バット……?」
「正解」
無造作にバットが握られた。
金属でできたそれは、鈍い音とともに相手の顎を跳ねあげた。
「あ……?」
男は眼から焦点が失い、ぐらりと身をよろめさせた。なにが起こったかわからないのだろう、完全に呆けた表情をしている。
「正解者にはホームランをプレゼントだ」
次の瞬間、上から斜めに打ちおろされた二撃めに、男はなすすべもなく砂埃を巻きあげて倒れた。そのまま動かなくなる。
時が停止していた。クロエを抱えていた男も、レオを阻んでいた男も、そして僕らも、身動き一つできぬまま突然の惨劇を眺めていた。
「ええと」
バットを持った彼がこちらに振りかえる。太陽が雲に隠れ、キャップの下からその素顔があらわになった。この場にはふさわしくないほど柔和な面持ちをしていた。笑みが目を糸のように細め、こんな状況でなければ優しさすら感じられたかもしれない。
「とりあえず、そっちの彼女を離してくれないかな」
「て、てめぇ、ふざっけんなよ!」
ようやく時計の針が動きだした。
クロエが突き飛ばされ、スカートをはためかせながら地面に転がる。機を逃さず駆け寄って、体を助け起こした。腹部に受けた痛みにひどく顔を青ざめさせていたが、呼吸におかしなところはないようだ。安堵が胸を満たす。面をあげれば、レオも隙を見て相手を振りきり、こちらへ逃れてきていた。
そのむこうでは、彼女を捕えていた偽ジャックの一人が猛然と青年へむかっていく。拳を握り、先に僕が考えたのと同じく、顔をめがけて全力で殴りかかるつもりと見た。
「おっと。ちょっと待ってくれ」
「あァ!? 今さらなんだってんだ!」
「ほら、こっち。よく見なよ」
青年は笑顔のままバットを振りおろした。むかってくる相手にではない。地面に倒れ伏し身動き一つしない方の後頭部に、ごしゃり、とやってのけたのだった。男は一度だけ大きく腕を宙に浮かせると、小刻みに痙攣させて、やがてもとのように静かになった。
「この人、早く病院に運んだ方がいいんじゃないかなぁ」
「あ、あ、なにを……」
「なにをって、悪者退治?」
言うと、彼はまたも無造作にスイングした。今度こそ正面の男を狙ってだ。不意をつかれ顔面を殴打された彼は、血飛沫をあげながらアスファルトに崩れ落ちた。
「笑っちまうね。君らが人喰いジャックだなんて、たちの悪いジョークだよ」
青年はなおも笑みを浮かべ、倒した二人目を踏みつけながら、悠然とこちらへ歩いてくる。いつかロリ子を上にして考えたことを思いだしていた。人体というものは土台にしてはひどく不安定で、そこに立つには鍛えあげられた筋肉が必要だ。あの柳をイメージさせる細身は、ただ痩せているだけではないらしい。
立ち竦む僕らへ、悠然と彼は言い放った。
「ほら、そっちの君らもぼんやりしてるんじゃないよ。さっさとひきあげよう。面倒ごとになるのは嫌だろ?」
その足を、踏みつけにされた男が両手で掴もうとする。だが、再び頭に落とされた金属バットには耐えきれず、完全に沈黙してしまった。
「こ、このまま、ただで帰れると思ってんのかよ……」
「おや、おみやげでもくれるのかい」
残りの偽ジャックたちに凄まれても、まるで意に介さないのは絶対の自信のあらわれか。噛みあわないと感じていた会話や態度も、ただ相手にしていなかっただけなのか。僕は彼らを五人の子どもと評したが、この青年にとっては犬や猫同然なのかもしれない。だけど、たとえ相手を畜生と見ても平然と頭を砕けるものだろうか。少なくとも僕の答えはノーだ。あの燻っていた大学生の頃でさえ、どこまでが正当防衛になるかを慎重に考えてやっていたものだ。
雲から抜けだした太陽が、地面に散った二人分の血痕を照らしだしていた。
「まぁ、頭蓋骨っていうのはなかなかに固いからね。ちゃんと病院に連れていけば、何針か縫うくらいで済むだろうさ」
「……てめぇ、覚えてろよ」
「忘れなくていいのかい。君ら三人なら、この二人も運べると思って残してやったのに……。まぁ、オレは構わないけどね。二人で三人をどうやって運ぶのか、横で眺めるのも楽しそうだ。きっと蟻みたいになるのだろうよ」
「ぐっ……」
完勝とはこのことか。結局、生きのびた偽ジャックたちは青年の横を素通りし、地に転がった二人を担いで去っていた。残された僕らは茫然とその場に立ち尽くす他なかった。
助けてもらった、のだろう。
素直に言いきれないのは、青年がまだバットを握っているためだ。血が一滴、地面に落ちる。なのに彼は変わらぬ笑顔のまま。
クロエを隠すように立ち位置を変える。彼は不思議そうに小首をかしげ、やがて合点がいったとばかりに頭のキャップをとった。
「相変わらず馬鹿な真似をしてるんだな、魔女さん」
「もしかして、あなた」
髪がこぼれ、陽の光に透かされて金色に輝いた。
「カカシくん……なの?」
背中ごしに聞いた彼女の台詞に、思わず「あ」と声をあげてしまった。
その名は一年前から折に触れて聞かされてきた。あのノートでは中学時代の逸話として語られていた、魔女の最初の犠牲者。そして、最初の夜のしもべでもあったという。
樫木一也。
まさかこんな形で出会うだなんて。
「二年ぶりになるのか。懐かしいなぁ」
「カカシ、おまえ今までどうして――」
割って入ったレオに、彼は手をあげて応えた。
「や、そっちも変わり映えのない面子だね。このまま同窓会ができそうじゃないか。いや……一人見ない顔があるな。そっちの彼は誰なんだい?」
と言われ、それが僕を指したのだと気づくまでには、やや時を要した。
彼らの物語に、元々僕はいなかった。遅れてやってきたのは僕だった。忘れかけていた事実を唐突に突きつけられ――。
だが、次の台詞には理解に時間など必要としなかった。
「ああ、そいつがオレの代わりなのか」
背後に目をむけてしまったのはなぜだろう。振りかえって見たクロエは、冷水を浴びせられた猫のごとく、その黒目がちな瞳を大きく見開いていた。
カカシと呼ばれた青年は薄く笑って、他方に視線をやった。
「ねぇ、そろそろでておいでよ。キミが言うから、こいつらを助けてやったんだぜ」
そうして、最後の登場人物がそろう。
通路の陰から顔をだしたのは、薄茶色の髪を持つ……。
僕は唾を飲んだ。てっきり先に舞台をおりたとばかり思っていたが、そういえば確かに彼女は言ったのだ。『あなたたちも事件を追うなら、十分に気をつけるのよ』と。あの時感じた微かな違和感が、ここでようやく言葉になった。
「シイ、君も人喰いジャックを探していたんだな」
少女は黙して語らない。
うしろめたさのためだろうか。あるいは、それ以外の名づけがたい感情を頬に浮かべ、ただただ静かに佇んでいた。




