表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1999remember  作者: 板空六花
人喰いジャックの夜
22/48

「あなたは、あたしの王子さまなの」

「あれはなんだったんだろうな……」

 ラケットのにぎりを確かめながら、レオがぽつりと言った。

 僕らは旅館へ戻り、ひとっ風呂浴びてから、卓球にいそしんでいた。そう、卓球である。温泉といえば卓球はつきものなので、ごく自然な流れだった。まったく不自然な点はない。

「あの女……確かに女だったよな。なぁ、オズ。あれはどこからきて、どこへ行ったんだ」

 たった今思いだした風を装っているが、彼もずっと気にしていたのだろう。僕だってそうだ。隣で黙々とラリーをしている魔女と怪人も、その口数の少なさから内心が透けて見える。

 あの時、通路の陰から現れたのは、僕らと同年代かやや年上の女の子であった。彼女は硬直する僕らを頭から爪先まで眺めると『はじめまして、不法侵入者さんたち』と呆れた様子で腰に手をあてた。どことなく誰かさんを思い起こさせる雰囲気をもっていた。

「シイのやつに結構似てたよな。あいつ、茶髪にする前はあんな感じの三つ編みだったろ」

 細く釣りあがった瞳の印象深さも、それをやや和らげる眼鏡の厚みも、そういえばシイと同じだった。

 彼女は僕らを不法侵入者と呼んだ。昔、あそこが廃墟になる前は、家族で民宿を営んでいたらしい。祖父母の他界を契機に、両親は彼女を連れて別な土地へと移り住んだが、彼女だけは時折故郷に足を運び、建物の管理をしてきたそうだ。

『と言っても、自分の部屋だけだけどね。ものは全部ひきあげてるとはいえ、知らない人に家捜しされるのって嫌でしょう? だから、一応そこだけ鍵をかけているのだけど……あなたたち、いたずらなんかしてないわよね』

 僕はぶんぶんと首を振った。先週一人で下見にきた際に、地下の一番奥に唯一入れない部屋があった。地元では〝呪われた開かずの間〟として語り継がれており、なにかの拍子でそこに迷いこんでしまった者は暗闇に幽閉されてしまうという。……片眉をあげる彼女を見やる。後ろ手で背中のナップサックに隠した工具を確かめる。まったく危ないところであった。

 それから僕らはしばし談笑して別れた。もちろん、彼女がどこからやってきたのかにも言及された。この建物が崖に沿ってつくられているのは先に述べたとおり。そのことから、地下二階には地上にでる勝手口があるという話だった。つまり上からやってきた僕らに対し、彼女は遅れて下から入り、ばったり鉢合わせたというわけだ。なるほどねと、納得した。その時は。

 先に彼女が別れを告げた。僕らも名残惜しくはあったが。やがて顔を見あわせ、せめて勝手口とやら見てから上にひきあげようという流れになった。

「確かに外にでる扉はあった。あれ、もとは食堂だったんだよな。あんなところにあったんじゃ、おれたちが普通に通っても気づかなかったろうが……問題はそのあとだ」

 レオの言うとおり、考えるべきは勝手口の外にでたあとのルートだ。そこは鬱蒼と茂る雑木林で、背の高い草に覆われ、とても人間が通り抜けられる隙間は見受けられなかった。無理矢理にでも草木をかきわけてとおったなら、しばらくの間はその痕跡が残っているはずだったが、それもなかった。

 では、彼女はどこへ帰っていったのか?

「もしやシイの生き霊だったりしてな。今頃、彼氏に振られて、やっぱりおれたちと一緒にくればよかったーって後悔してるのかも」

「よせよ。確かに背格好までそっくりだったけどさ。週明けにどんな顔して会えばいいんだよ」

 僕が溜息をつくと、彼は気をとりなおしたのか再開の合図をおくり、垂直にピンポン球をあげた。意外にも綺麗なフォームでサーブを打つのだ。そして球筋は低く、見事にネットのわずか上を通ってくる。応えて僕は勢いよく……勢いだけはよく、思いきり空振りをした。

「待て。もう一回だ」

「いくらでも、オズ様のおおせのままに」

 今度は一転して緩やかなサーブだった。これは手心……! 俗にいう手心というやつを加えられたのか……?! どうやら先のたった一度のミスで、運動ができない子だと勘違いされてしまったみたいだ。浅はかなやつめ。いいだろう、見せてやるよ。真に武道に長けた者が球技に本気をだした時、いったいどんな奇跡を生みだすのかということを!

 空振った。

 僕は「わあ、待ってよボールさん」と笑顔でピンポン球を追いかけた。

「おいおい。さっき教えたの、もう忘れちまったのか? あっちの二人を見習えよ、あんなにラリーがつづいてる」

 壁にあたり跳ねかえってきた球を拾い、振りかえって浴衣姿の彼女たちを眺めた。クロエは見た目どおりというか、腕は僕よりも少し……いや、僕と似たりよったりという感じに不安定なコースで球を打つ。思いきり白線近くへおくったかと思えば、ぎりぎりネットの近くに落としてしまったりもする。それでもラリーが終わらないのは、ロリ子が持ち前の超反応でことごとく拾い、彼女の手元にかえしているからだ。なにも知らないレオの目には、それが白熱した戦いに映っているのかもしれない。怖ろしいことにだ。

 かこん、かこん、と小気味のよい音が響く中で、僕らはしばし白球と戯れた。レオは野球部の経験からか教え方も上手く、僕の才能をみるみるうちに開花させ、白球を打ちかえすだけに特化したマシーンに仕立てあげた。すごい! この球、なんか曲がる! ……けれども、そこで彼の相手はロリ子に譲った。ささやかな気遣いであった。これだけ卓球の上手い二人だ、きっと愛のラリーも紡げるはず。

 台を挟み、ロリ子がレオとむかいあう。すると彼女はもじもじと頬を赤らめ、こう呟いた。

「わたし、卓球とかやったことなくて……」

 僕と魔女は無言で、彼女にピンポン球をぶつけた。

 昼間歩き詰めだったこともあり、それから小一時間といったところでお開きとなった。ロリ子との激闘を制したレオが、タオルで汗を拭きながら僕らに言う。

「汗かいちまったな。もう一度、温泉にはいろうか」

「何度つかってもいいだなんて、本当に温泉って素敵ね……」

 すっかり虜になってくれたらしいクロエに、レオが悪い笑みを浮かべた。

「ところで知ってるか、クロエ。昼間のあれもあって、気になって聞いてみたんだが、ここには悪霊が住まう露天があるらしい」

「ほう」

 とたんに目がきらきらしだすのが彼女の面白いところだ。この人はなんでこんなに本当におばけが好きなんだなと感心してしまう。

「昔から水場は好かれやすいって聞くけれど、ここの露天はちょっとばかしレベルが違う。今年に入ってもう十人も溺れてるらしい。幸いにも死者はまだでてないが、このペースだと時間の問題だろう。そして、被害者は一様に『急に胸が苦しくなって』と証言しているんだ」

「ほうほう。そいつは惹かれるわね」

「ああ。だけど一つ問題があってな。大きな問題だ」

「なによ、わたしが幽霊なんかを怖がると思って?」

 眉をあげ、ずいと顔を寄せるクロエに、レオは視線を逸らして大仰に溜息をつく。

「でもなぁ、いくらおれたちの魔女さんと言ってもなぁ、こればっかりはなぁ」

「いい加減にしなさい。わたしがどれだけの怪奇をぶっ倒してきたと思ってるのよ」

「そこ、混浴なんだよ」

 クロエの動きがぴたりと静止した。

 あとにしてきた卓球台の方から子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。

「……ほ、ほほう」

 かろうじて絞りだした声には、なんとも形容しがたい色がにじみ、額には一筋の汗。彼女の首あたりからは、油を差し忘れたバルブのごとくギギギィと音が漏れ聞こえてきそうだった

「つまり、あれか。ライオン君はわたしがびびって、そこに行けないと言っている。幽霊にも負けないわたしが、こともあろうに、こ、こここ、混浴なんかに」

「ああ、そう言ってるんだよ、魔女さん。ちなみにおれなら()()()()?」

 彼女は、じとーっと半眼になってレオを睨みつけた。しかし、それでは敗北を悔しがっているようにも見えると気がついたのか、一転負けじと腕を組み、余裕を演出しはじめる。

「とかなんとか言っちゃって、あなたこそ、そんな勇気ないんじゃないの? なにせ、女の子にラブレターをもらっても返事一つ書けない度胸なしだ。混浴なんてとてもとても」

 僕の隣でロリ子が嬉しそうににやついていた。ラブレターに返事を書かない、そこだけを拾って喜んでいるみたいだ。でも、もらうこと自体はいいのか? そう内心ツッコミをいれたところで、彼女がぼそりと呟いた。「彼氏がモテるのは嬉しいのだよ」……ああ、君たち九割方つきあってるんだっけ。

 そういえば僕も一通もらったよな、と不意に思い起こす。なるほど、度胸なしが二人か。

「言ったなぁ、クロエぇぇ。おまえは混浴にくるんだなぁぁ?」

「フフフ、あなたこそどうなの。まさかそこまで言っておいて、怖じ気づくなんてないわよねぇ。いい? あなた一人でくるのよ、ライオンくぅぅん?」

 今度はロリ子の方から僕の脇をつついてきた。あなたはどうするの?と目線だけで尋ねられる。その時、脳裏に一つの格言がよぎっていた。

『据え膳食わぬは男の恥』

 いや、間違った。

『君子、危うきに近寄らず』

 ロリ子には軽く肩を竦めてみせる。誰だって命は惜しい。そうだろ?

 すると彼女は「そうね」と呟いて口の端をあげた。治ったはずの肩が痛みだす。やれやれ、身をもって教えられた格言だったな。

 ばちばちと火花を散らすライオンと魔女を両側からひきはがし、僕らは一度、バスタオルをとりに部屋へ戻ることにした。エレベータにのろうとしたら、なぜか少女二人に蹴りだされてしまったので、ひぃひぃ息をきらしながら四階まで階段をのぼった。部屋割りは、まぁ当然のことだが僕とレオ、それにクロエとロリ子である。チェックインの際にロリ子が無言の圧力をかけてきたものの、さすがにそれは色々まずいだろうと断った結果だった。

 けど、もしロリ子がレオと同じ部屋を選んだら、こっちはクロエと一緒になっていたわけで。

 僕らの前では勝ち気な態度をとろうとする、黒髪の彼女の姿を思い浮かべる。

 ――いやいや、なにを考えてるんだ。

 頭を振ってうしろをむくと、部屋のベッドの脇でレオが青い顔をして突っ立っていた。先ほどまでの調子はどこへやら、不気味なほどに静かだ。

「どうした、レオ。ひどい顔だぞ」

「大変だ……」

 彼は呟き、ぶるぶると体を震わせた。

「お、おなかが、いたい」

 ……それは大変だ!

 彼はよろよろと立ちあがり、そのまま幽鬼のごとき体でトイレへむかった。がちゃりと扉が閉まる音が聞こえたところで、僕は気を遣ってイヤホンで耳をふさいだ。ブランキー・ジェット・シティの赤いタンバリン、会社帰りのコンビニでよく流れていた曲だ。聴く度にどこか懐かしい気分になると思っていたら、これもレオに教わったものだったらしい。昨年の学祭では僕らの同好会でバンドを組んで演奏し、舞台は大いに盛りあがった。ずっとラブソングだとばかり思っていたが、彼によると、実は子どもが生まれて初めて愛を知った男の歌なのだそうだ。それを聞いて、僕はこの曲を好んで再生するようになった。

 と、一曲口ずさんだところでイヤホンを外し、ドア越しに問いかけてみる。

「具合はどうだい、レオ」

「おれは……もう、駄目だ。生きていけない」

「調子にのってアイスを二つも食べるからだろう」

「それについては、かの有名な登山家、イギリスのジョージ・マロリーが至言を残している。なぜアイスを二つ食べたのか? そこにアイスが――ぐああッッ!!」

 マロリーはその台詞を語ったとされる山で遭難し、命を落としている。

 僕は嘆息とともに音楽の世界へ戻った。そういえば、次のライブの曲にとレオからもらった音源があった。バンド名は確かノッキング・スリーだったか。僕らとそう年の変わらないインディーズらしいが、なかなかいい音をだすらしい。やれやれ、クラシックなんか忘れてしまいそうだなと、苦笑まじりにカセットを入れ替えた。とたんに重厚なサウンドが耳に流れこむ。

 肩を叩かれたのは、二曲目を聞き終えた頃だ。

「……おまえに頼みがある、オズ」

 いつのまにか便座から解放されたらしい。音をとめて視線をあげれば、そこにはなにかを決断した男の顔があった。

「レオ……」

「もう、おれが言うことがわかってるみたいだな。嬉しいぜ、以心伝心って感じで」

「いや待て。なにか、すごく、嫌な予感がするんだ」

「おれの代わりに混浴に行ってくれぇ!」

「待てよぉぉぉぉ!!」

 僕の絶叫にレオは「うっ」と腹を押さえ、内股になり、じりじりと後ずさりはじめた。しかし、彼の瞳は未だ火をともしたままだ。

「答えろ、オズ……! おまえの座右の銘はなんだァ!」

「く、君子、危うきに近寄らず……」

 そう答えると一転して、呆れた仕草で深い溜息をつかれてしまった。

「やれやれ、もう一度だけ聞くぞ。それ以上はおれの腹がもたないからな。……いいか? 正直に言ってくれ。おまえの、座右の銘は、なんだ?」

「いやだから、君子――」

 レオが眉をひそめる。違うだろ、本当はそうじゃないだろ、という意思表示だ。

「君子、危うきに――」

 僕の脳裏を一つの光景が駆け抜ける。露天の風呂と白い湯気。魔女の彼女とバスタオル。それはひと夏の思い出。それは青春の一ページ!

「据え膳食わぬは男の恥だァ!」

「オズぅぅぅ、よく言ったぁぁぁぁぁ!!」

 叫ぶだけ叫ぶと、レオは再びトイレに飛びこんだ。だが、だすものもだし尽くしたらしく、ドアを挟んで、今度は幾分かマシな調子で会話がつづけられる。

「おれはな、オズ。あの魔女はくると踏んでいるんだよ。あいつの負けず嫌いは、この一年で十分にわかった。あれなら必ずくる……! だが、今のおれでは、そこへたどりつくことができない……」

 なんだか彼が格好よく思えてきた。そのかすれた吐息が、その苦渋に満ちた声が、男には似合わぬ色気すら感じさせている。

「オズ、おまえが行くんだ」

「だけど……どうする? 僕が代わりに行くとしよう。それでもレオがいないっていう事実にはなんら変わりないんだぜ。あいつと鉢あわせたあと、どうするんだ。結局おまえは魔女から卑怯者のそしりを受ける羽目になる。僕は殴られても眼福だが……おまえはそれでいいのか?!」

「確かに、おれがいないと気づかれたなら、あいつは高らかに笑って勝ち誇るだろう。言うだけ言って自分はこない臆病者だと。クズであると! だがな、オズ。あくまでも、それは気づかれたらの話なんだよ。いいか、よく考えてみろ。あいつが混浴にやってきたところを鮮明に想像しろ。場所は露天だ。そこらじゅう湯気が立っている。視界はずいぶんとよくない。そんな状況下、おまえが誰であるかを確かめるためには、やつは顔が判別できる距離まで近づいてこなければならない」

「ま、待て。おまえは、なにを考えている?」

「はたしてやつは、おまえの傍までやってくるだろうか。いいか、温泉だぞ。ここはプールじゃない、もちろん水着なんてもっての他だ。その時、あいつは、全裸なんだぞ――!」

 ごくり、と唾を飲みこんだ。

 もし、今彼がドアを開けてでてきたとしても、僕には眩しすぎてまっすぐに見られないだろう。神々しさを感じる……! そう、かつてイギリスの音楽シーンを熱狂の渦に巻きこんだ伝説のパンクロッカー、あのシド・ヴィシャスのごとく、彼は燦然と輝いている! たとえ、トイレの個室の中であってもだ!

「おまえは、おれのふりをするんだよ、オズ。黙ってそうしていれば――」

「そ、そうしていれば……?」

「おまえは地上の楽園に行ける」

「すごい……」

 僕は腰をあげ、バスタオルを探しに洗面所へむかった。かごに丁寧にたたんでおかれたそれを手にとると、一つ大きく深呼吸をする。かつてこの過去へ戻って、初めて夜のアルバイトをはじめた時と同じように、慎重に、しかし力強く。ああ、僕はやる。僕はやるんだ。室内にひきかえすと、レオがドアから腕だけをだして親指を立てていた。

「おれの面子のために、そしておまえ自身のために、行ってくれ、オズ――!」

「ああ、僕はやるぞ、レオ! 必ずだ!」

 親友に見送られて、颯爽と部屋の外へ駈けだした。

 体が軽い。この一年、鍛えに鍛えた筋肉は、今日この日のためのものであったのだ。部屋でロスした時間はブランキーとノッキング・スリーで三曲分。まだ十分に間にあうはずだ。廊下を曲がり、階段を駆けおり、ほらもうすぐそこだ。僕は一心不乱にのれんをくぐり、無人の脱衣所へ転がるようにして飛びこんだ。

 全裸になるまでは五秒もかからなかった。浴衣と帯を棚につっこみ、タオル一枚を片手に浴室の扉を開けた。とたんに視界を覆いつくす真っ白な湯気をかきわけて進む。夕食前の時間帯からか、はたまた神様が計らってくれたのか、男湯には誰もいなかった。露天風呂はこのさらに奥だ。卓球の前にレオと入ったから覚えている。だが、問題はその先、混浴への道のりだ。

「なるほど、露天同士がつながっているのか」

 屋外への引き戸をくぐったその先で、混浴への案内を見た。あるいは、それは天国への扉だったのかもしれない。タオルで前を隠しながら、ここからは慎重に歩を進める。風流なことに湯の小川がそのまま通路になっていた。この流れに沿って行けば、ほらもうすぐそこだ。

 とうとう、その時が訪れた。

 目前には『この先、混浴』の看板。控えめの照明に、艶めかしく光を映す岩肌、そのむこうではうっそうと草木が茂っている。満月が低く顔を覗かせていた。そして、僕は。

 僕は!

「……まぁ、そうだよなぁ」

 無人の浴場を見たのであった。

 誰だよ、魔女は絶対にくるとか自信満々に言ったやつは。

「ちょっと期待しちまったじゃないか。まったく」

 あらためて周囲に誰もいないことを確認してから、一番奥の岩べりに背をつけ、腰を落ちつけた。ここには体を洗うためのスペースは設けられておらず、正面には建物からの目を隔てるためであろう、竹の柵が並んでいる。体のむきを変えて背後を見れば、木々の合間から洞爺湖が見えた。湖面には見事に月のシルエットが浮かんでいた。この柵と自然に仕切られた小さな浴場は、俗世から遠く感じられ、なんだか自分ひとりだけの世界を手に入れた気分であった。

 ちょうどいい機会なのかもしれない。

 流れの早い高校生活の中でふと訪れた、つかの間の静寂。考えごとをするなら、今がうってつけだろう。ほどよい湯の温度が時間を緩やかにしていく。

「あれから、もう一年が経つんだよな」

 僕が少年に戻ってから、とうとう季節が一巡してしまった。

 あの日、自分の身になにが起こったのか。覚えているのは、妹の結婚式に備えて部屋の明かりを消したところまでだ。そのままいけば、翌日は機上の人になっていたはず。

 だけど、そうはならなかった。僕は一九九八年の六月に不時着し、顔も忘れてしまった旧友たちと再会することになる。心優しい委員長のシイ、お調子者のレオ、猫かぶりのロリ子、そして魔女のクロエ。黄金の仲間たち。この一年と少しの間を通して、彼女らとは部活をやり、バンドを組み、夜を明かして話しこんだり、今日のように童心に戻って色々なところへ行った。その中で幾度となく考えてきた疑問がある。

 僕はどうして忘れてしまっていたんだろう?

 こんなにも一癖も二癖もある楽しいやつらだ。たとえ十年が経ったとしても、そうそう忘れられるはずがない。現に自室の隅に追いやられていたあのノートには、あのルージュの彼女に語った思い出がつぶさに記されていた。……いや、あれも酒の力を借りての話だったか。それにしてもだ。会社に入って、転勤を経験して、泥のような日々にとらわれたとしても、あの四人は泡と消えてしまうやつらじゃない。ならば、いったいどうして?

 別の方向からも考えられる。

 はたして僕は、今、夢を見ているのだろうか。

 あるいは本当に? 十年前に戻ってきているのかもしれない。あまりに毎日が楽しすぎて、これまで深く思うことはなかったが、一夜の幻にしてはあまりに長い時を過ごしていやしないか。タイムスリップ。子どもの頃にそんなドラマを見た。あれはどんな結末だったっけ……。

「ただ、一つ言えるのは」

 いずれ過去は未来に追いついてしまうのだ。

 仮にこのまま十年が経つとして、僕はまた受験勉強をして、大学に通い、就職活動をして、つまらない会社生活をおくることになる。そして、いずれは妹の結婚式を前にしたあの日に逆戻りというわけだ。そうするとどうなる? 平然とそれからの未来がつづいていくのか? ……とてもそうは思えない。同じ人生を送れば、同じ結果となって然りだろう。その時はきっと、再びこの過去へと戻ってくるのだ。おそらく、何度でも、何度でも。

 これが単なる夢ならいい。

 だが、そうでないのなら、見つけなければならないのだろう。

 僕はなにをするために過去へ戻ってきたのか。

 この世界には、やりなおさなければならない、()()()があるんだ。

「だけど――」

 月を見ながら、湯につかって目を閉じる。

「永遠にこの時がつづけばいいのにな」

「そうかしら」

 ――心臓が、跳ねあがった。

 深い湖に沈んでいた思考が急速に浮かびあがる。背後から確かに声が聞こえた。気のせいじゃない。女の声だった。

 ありえないという単語がざわめきとなって心を満たす。だって、この温泉にきた経緯を振りかえってみろ。ここまでの旅行費用はなにをして手に入れた? 会社に通い、漫然とデスクワークをこなした結果じゃない。この街から都会の札幌までを踵をすり減らして歩き、アルバイトとはいえ、全身の神経をとがらせて仕事に挑んだ成果だ。尾行など腐るほどやり抜いた自分の経験にかけて言う、先までここには本当に誰もいなかったのだ。

 だが、誰もいなかったはずの露天で、ぴちゃりと湯が跳ねる音がする。

 不意に、レオが語った話が脳裏をよぎった。昔から水場は死者に好かれやすく、ここでは何人も、急に胸が苦しくなって溺れる者があとを絶えないという。体が石になってしまったがごとく硬直していた。息を吐きだそうにも、肺がうまく言うことを聞いてくれない。胸の鼓動が血管を伝わり、全身をどくんどくんと打っている。

「だ、誰――」

 言い終わる前に、ぺたりと肩に重みが加わった。

「ねぇ、ずっとこの機会を待っていたの」

 女――いや、少女の声だ。それがいつのまにかすぐ後ろに迫っていた。肩にかかっているのは、そいつの手だ。ただ、触れられているだけじゃない、まるで身動きがとれない。のせられた手には万力のごとき力がこめられていて、振りむく機会も失われてしまう。

「まぁ、そうね。こんなにも楽しい毎日なんだもの。この時が、永遠につづけばいいのにって、あなたがそう思ってくれるのも当然かもしれないわね」

 今や両のてのひらが肩にのせられていた。頬に流れ落ちる汗は、湯の温度によるものだけではない。言うなれば、蟷螂。その刃がこの両肩にかかっているのだ。

 幽霊。まさか本物の……。

「ねぇ、レオくん?」

 魔女だった。

 なんてことはない、僕らの教室の魔女だった。

 それもそうか。レオが言うとおり、この魔女さんはくると言ったら必ずくる人だったのだ。疑ってごめんよ、レオ。そしてありがとう。本当にありがとう! 彼女の並々ならぬプライドの前では混浴など! ああ、全裸など!

 ……。

 ぜ、全裸などォ?!

「こんな風に、二人きりになれるこの時を、ずっと待っていたのよ」

 胸の鼓動がますます強くなっていく。

 ここは温泉。隔絶された二人だけの空間。そこで背後から僕の肩に手をかける彼女は、僕と同じように、一糸まとわぬ姿でいるのだ。そうに違いない。湯の中にタオルを持ちこむのは、ほら、あれだ、マナー違反ですから?

「永遠とは、停滞よ。どんなに楽しい日々がつづいても、あなたの隣を歩いていても、永遠のままではその先に行けやしない。そう思うの」

 背中に温かいものが押しつけられる感触があった。湯の中でも確かに感じる、それ以上の熱。

 今度は脇の下から手を差しこまれる。完全なる密着であった。もはや身動きすら封じられてしまう。彼女の火照る肌。その温度が、両の乳房をとおして僕の、せせせ、背中に!

 嗚呼、なんて表現すればいいんだ、この柔らかさは……。今さらながら国語の授業と真面目にむきあってこなかった己に激しい後悔を抱く。僕の言語力ではこれ以上、彼女のおっぱいについて正しくお伝えすることができない。ただただ、幸せを噛みしめる他なく……!

「ねぇ、レオくん」

 だけど、そう呟くのだ、この魔女さんは。

 僕を完全にあいつだと勘違いしている。そりゃあ、この湯気の濃い中だしね、互いに顔を見れない状況だけれども、それにしたってなぁ。僕はあんなにガキっぽくないし、ちょっと……ちょぉっとあいつの方がイケメンで、背も高いかもしれないけど、でも、なんだ。なんだったら、僕はあいつに勝てるんだ?

 そんな思考がぐるぐるとまわる。ええと、筋肉とかなら勝てるのか?

「レオくん、聞いて」

 こんなにも幸せな状況なのに、彼女がレオに囁きかけているつもりなのが、胸にいがいがとしたものを感じさせる。

「あなたは、あたしの王子さまなの」

 その確定的な台詞に、息が詰まった。

「中学で、初めてあたしに声をかけてくれた時のこと、覚えてる?」

 僕の知らない昔話。聞く度に固くて重たい石を胃に飲みこんでしまった気分にさせられる。

「あれは二年生になったばかりの頃だったよね。あなたはもう野球部の副キャプテンになって、みんなから好かれていた。ファンの女の子も多かったよね。シイちゃんも、ふふ、最初はあなた狙いだったんじゃないかなって思ってる。今言ったら、絶対怒られちゃうけどね。――一方、あたしはひどいものだったよ。昔みたいな馬鹿はやらない、おとなしい、みんなから好かれる女の子でいようと思っても、周りの人間は小学からずっと同じで、そうはさせてくれなかった」

 これまで、この気持ちに名前をつけようとは思わなった。それはどうしてだろう? きっと永遠を感じていたからだ。いつまでも変わらず、楽しいやつらとの日々がつづいていくなら、それでいいんだと心のどこかで考えていたから。

 だけど、僕は。

 僕は彼女を――。

「でも、あなただけは、あたしを女の子として扱ってくれた」

 背中の感触が一層強くなる。脇の下から差し入れられた手が、肩に食いこみ、もはや痛いくらいだ。彼女の吐息が耳にかかっている。一言告げられる度に心臓が高鳴り、でも別な理由から胸が苦しくなる。僕らはこんなにも近くにいるというのに、どこか遠く。

「ねぇ、あなたがつけてくれた名前、本当に好きよ」

 彼女は囁く。

「〝ロリ子〟だなんて、他の人が聞いたらびっくりしちゃうあだ名なのにね」

「え」

「でも、あなたがつけてくれたんだもの。あなたを思う気持ちと同じくらいに、あたしはこの名前が好きなの――」

「ちょ、ちょっと待って!」

 振りほどこうとしても、彼女の手はがっちりと僕をホールドして離してくれない。でも、待ってくれ! 彼女の柔肌が僕の背中にぎゅっと押しつけられる。でも、ちょ、ちょっと待って!

「僕の名前は〝レオ〟じゃない!」

「は――?」

 勇気と全身の力を総動員して、彼女の手をひきはがし振りかえった。

 そこには白い肌を上気させたオカッパの子が、小さな胸を湯気の合間にさらけだしていた。

「僕の名前は〝オズ〟! 御厨浩平だァ――!」

 次の瞬間、僕は初めて彼女の少女らしい悲鳴を聞くことになる。

 音速の右拳を顔面に食らうのは、その僅か一秒にも満たぬあとのことだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ