「死んだらみんな天国にいくのよ。知らなかったの?」
夏だ! 休みだ! 温泉だ!
洞爺湖、そこはめくるめく夢の世界。僕らが生まれるよりもはるか昔、およそ十一万年前に火山がすごい噴火を起こして、超でかい湖と、超やばい温泉を生みだした。街は完全なる観光地であり、歩けば無料の足湯が点在し、花火大会は夜ごとに行われ、ホテルはまさに酒池肉林――ここではそんな都市伝説のごとき経験ができるという。まさにワンダーランド。気分は今まさにハイボルテージ。これから体験する未知なる世界に、バスから降りたった時からうきうきわくわくしていたのだが。
「なのにどうして、僕らはこんなところへやってきてしまったのか……」
目の前には廃墟が広がっている。
洞爺湖より歩きに歩いて小一時間。地元の人すら立ち入らないだろう閑散とした土地に、ぽつんとその建物は佇んでいた。もとは民宿であったらしい。しかし現在は寂れに寂れ、屋根すら崩れ落ち、空にむけてぽっかりと口を開いている。周囲には他に目立ったものはない。ひび割れたアスファルトの駐車場と、その隙間から生える雑草くらいなものだ。あとは遠くに見えるまばらな民家だけである。くすんだ風景に溶けこんで、黒帽子の魔女がくるりと振りむいた。
「あら、わたしの希望どおりよ? 褒めてつかわすわ」
「あ、ありがたき、幸せ……」
彼女が大きく両腕を広げる。ポーズの意味を問うと「ハグの時間よ」と言うものだから頭が痛い。恐れ多いので、ハイタッチと気持ちだけもらっておくことにする。
僕らはこんなところにきてまで、また肝試しを行おうとしていたのだった。
「だけどオズ。大丈夫なのか、この建物。探検中に生き埋めになるなんてオチはないだろうな」
恒例の懐中電灯を手にレオが言った。まだ太陽は高いものの、建物に入ればいずれ必要になる。これまでの冒険から彼ももう慣れたもので、陽気の中でもヤブ蚊対策にしっかり長袖の服を着込んでいる。そして、その腕には怯える子鹿の表情でしがみつくロリ子。……こいつはこいつで、なんてあざといやつだろう。
「その点は大丈夫だよ。一階はこんな感じだけど、地下はコンクリートでできてるそうだから」
「地下? もとは宿なのに地下にもぐるってのか」とレオが眉をあげる。
「ああ。珍しい構造でさ。ここ、ちょっとした丘になってて、崖に沿って建てられてるんだ。だから二階がもうない今では、入り口が最上階になってる。話によると地下も二階まであって、その最奥には……」
一体なにが待っているのか? それはこれからのお楽しみだ。
僕らは連れだって廃墟に足を踏みいれる。七月の陽光が、フロントの名残を残す黒電話をじりじりと焦がしていた。木くずと砂利の混じった床は、一歩踏みだすごとに乾いた音を鳴らす。やがて僕らは地下へとつづく階段を見つける。
「結構、暗いな」
「やだ……本当に、こんなところに入るの……?」
レオの腕を一層強く抱きしめるロリ子さんに、僕は思わず半眼になってしまう。だが、一瞬鋭い視線で牽制されて、余計なことは言うまじと心に決めた。せっかく治った左肩をまた外されてはたまらない。まぁ、彼女との約束も忘れてはないし、馬に蹴られるつもりもないけどさ。
ともあれ、僕らは廃屋の地下へと足を踏みいれた。一気に視界が暗闇に飲まれる。懐中電灯の細い光を頼りに、壁に手をあて、そろそろと歩かざるをえない。地上とは打って変わって湿度が高く感じられ、コンクリートはうっすらと水気を含んでいる。
「レオ、ロリ子。二人とも気をつけて」
先頭を歩くバカップルに声をかけた。
「いいか、ここは長い間放置された場所だ。夜の学校を探検するのとは少しわけが違う」
「なんだってんだ。すげー埃っぽいのは確かだが……」
「ほら、下をよく見てみろ。うかつに歩けばそいつに触れちまうぞ」
言うとレオが隣の彼女の足元を照らした。そこにあったのは――。
「ぎゃぁぁぁぁ!」
ロリ子の絶叫がコンクリートの壁を跳ねかえり、わんわんと耳に響いた。
そうなのだ。こういった廃墟にはつきものの、あれなのだ。あれ的なものが床の隅にげじげじうじゃうじゃと沸いているのである。
「なにこれぇぇぇ! あたしの足よりも大きいよーっ!」
「落ちつけロリ子! ちょっ、暴れるな。踏んだらそれ、大変なことになるぞ!」
恐慌に陥る二人に、僕は努めて冷ややかに囁いた。
「知ってるか。ムカデの腹の中にはムカニエルという寄生虫が」
「いない! そんなのいないし!」とロリ子が悲鳴をあげる。
「踏み潰すと、その虫汁を介して――」
「おまえ、まじでいい加減にやめやがれッ」とレオには腹を殴られてしまった。
うしろでは魔女がくつくつと喉を鳴らしていた。無意識でなのか、彼女は僕の背中に触れている。手のひらを通じて、体温が近くに感じられる。今日は彼女に楽しんでもらうために用意した場だ。うまくホストを勤めなければならない。
それからもワンダーランドであった。さすが元民宿とだけあって、部屋数はやたらと多い。視界があまりきかぬ中、次々と扉をあけていく。
「やめろ、その扉は!」
「ぎゃー! わら人形が大量にー!」
「そこには人体模型も!」
「ホルマリン漬けの幼児だぁぁぁ!」
「そして、床にはムカニエル!」
「やめろぉぉぉぉ!」
ぜいぜいと息を切らして、最下階までやってきた。フロアの中央にちょっとした広間があり、そこで四人輪になって仲よく横隔膜の痛みをこらえている。あまりにはしゃぎすぎた所為で座りこんでしまいたかったが、居並ぶスプリングの飛びだしたソファーにはどんな虫が隠れているかもわからない。だが嬉しいことに、魔女様はご満悦のようであった。
「こ、こここ、ここに泊まりましょう! 泊まっちまおう!」
「待て待てクロエ。僕が用意した旅館はどうなる」
「温泉? そこに幽霊はいるのかしら!」
「いや、そっちにはいないけどさ。たぶん」
彼女は長い癖毛についた土埃を落とすと、ソファーのそばに鎮座するテーブルを軽く払って腰かけた。とり残されておかれたコップ、主なき椅子と、遠くには蜘蛛の巣のはった食器棚。これも彼女が気にいるだろうと思っていた雰囲気だ。
「しかし、宿に人体模型はないでしょうに」
堪えきれないといった風に彼女が吹きだす。
「あと、ホルマリン漬けね。ここ、本当は病院だったの? それとも天国かどこかかしら」
「天国には幽霊がいるのかい」
「死んだらみんな天国にいくのよ。知らなかったの?」
楽しそうにはにかむ魔女の彼女。そんな彼女と同じ趣味の人間が、この廃墟を彩った。初めは暗がりにわら人形をおくという、お茶目ないたずらだった。次に訪れた者は苦笑混じりに建物周囲の花をつみ、ひとまとめにして入り口においた。以後、ここは『殺人事件が起きて廃業になった民宿』として噂されるようになり、日を重ねるごとにエスカレートしていった。まったく人体模型など、どこから仕入れてきたんだろう。朽ちてから輝くなんて皮肉な、けれどロマンのある話だなと僕は思う。
休憩を終えて、歩きだした。まだ探索すべき部屋は残されている。たとえば、今レオが開けた扉の奥には機械仕掛けの振り子時計があり、今でも針をとめていないという。そして、時刻はちょうど五時を指すところ。きっと時計を見つけると同時に、鳩っぽいものが飛びだし彼らに襲いかかるであろう――と。
「まったく楽しい夜ね。これもあなたの仕込みなのかしら」
魔女が僕のうしろから囁いた。
「うん? もうバレたか。確かにあの鳩時計は先週、僕が電池を――」
「足音が一つ増えてるの」
口を閉じて、その場で耳をすました。とり急ぎ先を行く二人にも声をかけ、呼び戻す。
「どうした、オズ」
「いや、クロエが……。あっちの方から音が聞こえるって」
言うや否や、キィ、ィ、ィという蝶番の鳴き声があがった。どこかで聞いたようなシーンだ。視界のむこうにある折れた通路の最奥で、扉が開いたのだ。そして僕の耳にも、ひたり、ひたりと確かに足音が聞こえはじめた。なにかが、こちらに近づいてきていた。
「まさか、嘘でしょ……」
そうロリ子が呟くと同時に、それは一際大きく床板を踏み鳴らし。
嗚呼、その姿をあらわにしたのだ。




