「あれは、あなたたちの仕業だったのね」
一九九八年五月二十日。僕らは魔女の住処を訪れる。
場所はクラスの連絡網を見て探しあてた。そこは二階建ての小さなアパートで、どうやら本当に彼女はひとり暮らしをしているようだった。
階段はアルミ製でやたらと音が響いた。のぼりきったところで振りかえると、うしろで連れの二人が不安げにあたりを見まわしている。彼らの探しものはすぐにわかった。僕も気になっていたためだ。二階からだとアパートの敷地が一望できて、車が一台もおかれていないことが知れる。それどころか自転車の影もない。ここまでの道のりは僕らの見慣れた風景だった。犬と散歩する主婦、声をあげて駆けていく子どもたち。駅からも学校からもそう遠くない立地で、暮らすにはいい場所と思われた。なのにこのアパートだけ、どうして人気が感じられないのか。
角の二〇九号室が彼女の部屋であるはずだった。
「ここで……間違ってないよな?」と、連れが呟く。
「連絡網にはそう書いてあったけど……」と、もう一人の少女が答える。
表札は掲げられておらず、それがまた僕らを尻ごみさせた。二〇九号室が他に存在しないかぎり、彼女の部屋はここのはず。だけど、このアパートの得体の知れなさが不安を煽るのだ。もしも手違いで別のドアを叩いてしまったら? どうなるんだろう。なにかとりかえしのつかないことが起きてしまいそうな気がする。
魔女の住処。
とうとう僕らはこんなところまでやってきてしまった。
「で、誰がいく?」
尋ねれば、二人はやや震えた声で口をそろえた。
「そりゃ……おまえの役目だろ」
「そ、そうだよ。言いだしっぺは、あたしたちじゃないし」
こんな時まで仲よくしやがって、と胸中で呟いた。
確かに今日ここに誘ったのは僕だ。でも、おまえらだって十分のり気だったじゃないか。そもそもあの日、おまえらにそそのかされなければ、魔女の住処を訪れることだってなかった。
「……だけど、後悔してももう遅いか」
「そ、そうとも! 今さら降りたってチップは戻ってこないぜ」
「貸し一つだからな、レオ」
そう言って、インターホンに手をかけた。
内心おそるおそるではあったが、実は話しながら気づいた点もあった。
この二〇九号室にだけ、外に傘が立てかけてある。
そういえば昨日はひどい雨だった。そして今日は打って変わっての晴天である。とっくに傘は乾いているのだが、中にひきあげていない。傘を干す手間をかける人間が、片づける手間を惜しむだろうか? おそらく、この部屋の住人は丸一日、部屋から外にでなかったのだ。
魔女の彼女も、今日は学校にきていない。ゆえに僕らの方から訪ねてきたんだった。
目をつぶり、インターホンを押しこんだ。
ポーンと音が響き、しばし無言の時が流れる。これからの話を考えると心臓の高鳴りが耐えがたく、だからこそ、むこうから返事があった時には思わず大きく息を吐きだしてしまった。
「……はい」
眠たげな猫を彷彿とさせる、あの声だ。インターホン越しでも確かにわかる彼女の声だった。
横の二人と顔を見あわせた。どちらも気恥ずかしさを隠すような苦笑い。やれやれ、根拠のない不安に随分と踊らされてしまったもんだ。
「どなた?」
再度の問いかけに、あわてて応えた。
「同じクラスの御厨です」
するとドアのむこうから、怪訝な様子が伝わってくる。
「……なんの用」
僕はあらかじめ用意してきた理由を口にした。
「学校で配られたプリントを持ってきたんだけど」
「プリント?」
ガチャリと鍵がまわされる音がした。
ドアが開く。その先には、僕らがよく知る魔女の姿があった。ただし、普段教室で見る彼女からは想像できないほど、なんとも可愛らしいパジャマを着ていた。特にその柄は……いや、やめておこう。腰まで届く髪もひどく乱れており、もしや今の今まで寝ていたのかもしれない。
少々肩をすかされた気分。色々と考えてきたはずの台詞も、こんな調子に化けてしまう。
「や」
彼女から返答はなかったが、驚いた様子は見てとれた。外にいるのは僕だけと思っていたのだろう。隣に立つ二人の姿を確認し、その瞳がやや大きくなった。
「……プリントは」
「あ、ああ。これ」
鞄からとりだし、手わたした。確か数学のプリントだったはずだ。
彼女は一瞥すると、僕に問いかけてきた。
「わざわざこれを届けに?」
「明日までの提出なんだ」
嘘じゃあない。でも、教師から届けてくれと頼まれたわけでもなかった。
このプリントは、僕が自前でコピーしたものだ。
「それに、元気かなと気になって」
「今日は風邪で休んだのよ。先生にもそう伝えたはずだけど」
元気そうに見える?と言外に伝えられた。
あらためて見れば、彼女の顔はいつにもまして色が白く、おまけに目元だけがウサギみたいに赤く腫れていた。魔女相手とはいえ、こんな時に押しかけるべきではなかったかもしれない。
でも、先にも触れたとおり、僕らにはあとにひけない事情があった。なにせ、あれからもう一月が経つ。この機会を逃せば、冷めたピザになってしまうだろう。あの件について、後味の悪さだけを残すのは避けたかった。
僕は隣の二人と目配せをし、意を決してきりだした。
「確かめたかったのは、実はキミのことじゃないんだ」
これから言う台詞は、ブラックジャックで例えるなら見せ札のエースだ。
彼女がすでに二十一をひきあてていれば、僕らの負け。かといって、全然お話にならない手では勝負を降りられてしまう。お互いにちょうどよく戦える手がそろっている条件でのみ、チップを積みあげての楽しい駆けひきができる。
「猫の話がしたい」
むかいあう瞳が一層大きく見ひらかれ、次の瞬間にその口元が少しだけ釣りあがったのを、僕は見逃さなかった。
どうやらゲームは成立のようだ。こちらも笑みがこぼれてしまいそうになる。
本当のことを言おう。この話にのったのは二人にそそのかされたからだけじゃなかった。いつもは低温で伏し目がちな魔女が、こんな顔をするところを、僕はずっと見てみたかったんだ。
「あれは、あなたたちの仕業だったのね」
彼女は一つ、煙を吐きだすように溜息をつくと、僕らを部屋の中へ招き入れたのだった。