「跪け」
少しだけ未来の話をしよう。
三年後、僕は北海道をでる。母方の親戚に下宿させてもらいながら、遠い四国の大学に通いはじめる。人並みにサークルなんかに入ったりして、端から見ればそこそこ楽しいキャンパスライフをおくるようになる。この僕が、だ。十年後には死んだ魚の目で飲んだくれている僕にも、そういう時期が確かにあった。
入ったサークルは驚くなかれ――空手だった。レオあたりが知れば、全然イメージにあわないと膝を叩いて笑っただろう。自分でも空手を選んだ理由はもう忘れた。妹がやっていたからか。ただ、胴着の帯を初めて締めた時、これで強くなれると思ったのはよく憶えている。
その年までろくに運動をしてこなかったこともあり、体はみるみるうちに変わっていった。まず腕が太くなった。力こぶができるようになった。やがて腹筋も割れ、殴ったり蹴られたりに抵抗がなくなった。勤勉に打ちこんだおかげで、二年が経つ頃には帯の色は黒くなっていた。
空手を学んで変わったのは肉体面だけじゃない。ものの感じ方にも大きく影響があったと思う。たとえば、段位をとった時には周りの先輩方から褒められて、世辞とはわかっていたが「才能がある」「どうしてもっと早く入門しなかった」とまで言われてしまって、正直あれだ、すごく嬉しかったんだ。ピアノにだけむかっていた中学の頃は、なにを弾いても苦しいばかりだったのに。
でも結局、そこで空手からは離れることになる。
一旦、話を戻そう。
僕が御堂山高校に再び通いだして、一年が経とうとしていた。ウィンドウズのOSが変わった。スケルトンのiMacが発売された。僕のウォークマンからは椎名林檎が流れている。夢とは大抵、夢と自覚した時点で終わりを迎えるものと思っていたが、あれから何度ベッドに潜りこんでも妹の結婚式が訪れることはなかった。
あるいは本当に? 僕はタイムスリップしてしまったのかもしれない。でも、なんのためだろう。高校時代には確かに楽しい思い出もあったかもしれないが、事実それはとてもとても楽しかったけれど、それでも過去に戻ってまでやり直したかったとは思えない。そして、もしこの世界で他にやるべきことがあるのなら、今日まで幾度もチャンスが訪れたはずだ。
ある時、宝くじを買ってみた。もしも僕に違う未来を進めというならば、ここで億の金が転がりこみ、会社員になるなんて選択肢は塵と消えたに違いない。結果は言うまでもないだろう。紙くずをゴミ箱に捨てた時の、あのむなしさといったら……。
そんな馬鹿な空想を真面目に試してしまうほど長い時間を、僕はこの世界で過ごしている。
たとえば、こんなことまでも。
――ホテルの中へ、女と、その肩を抱いた中年の男が入っていく。
その一部始終を僕のビデオカメラがつぶさに記録していた。何度使っても、この暗視機能には驚かされる。日没後も十分に顔の判別ができ、対象がネオンの横を通り過ぎてもハレーションを起こさない。それに光学ズームをつけても十分とりまわしがきくコンパクトさは、一九九九年においても時代の古めかしさを感じさせない。借り物であることが悔やまれるくらいだ。
二人が完全に建物に消えるのを待って、僕はカメラを三脚から外しリュックにしまった。周囲に視線がないことを確認し、足早にその場を離れる。それなりの重さを背負っていたが、走りだしても息を切らすことはなかった。体が軽い。酒と煙草で病んだ十年後では考えられないことだ。それどころか一年前の自分とも比べものにならない。
七不思議の冒険を終えたのち、僕がしたのはまず肉体を鍛えることだった。大学時代をなぞるようにジョギングからはじめ、腕立てに腹筋、やがて機材をつかったトレーニングにいたり、少しずつ筋肉をつけていった。年をとって腹まわりが危なくなってからは、いかに少ない食事で満足するかに苦心したものだったが、食べて体をつくるなんて久しぶりの感覚だった。
たどりつく場所が同じでも、同じ道を通っていくのはつまらない。そしてどうせなら、風を切って走った方が気持ちいい。そう考えて選んだのが、このバイトだ。
探偵……の小間使いといったところか。高校生というのもあって、最初は書類を打ったり猫探しに駆りだされるだけだったが、年にあわぬ振る舞いからか最近になってこういった仕事も任せられるようになった。未来ではスーツをきたサラリーマンがなにをという感じだが、存外これが肌にあった。車で張りこめない場所で写真を撮るなら、今や事務所でも一位二位を争えるくらいだ。街をぶらぶらしていても見咎められない子どもの体は、なかなかに重宝された。
今だってそうだ。僕は誰にも注目を浴びることなく通りを走り抜けると、別の暗がりに身を滑りこませた。路地裏の壁に寄りかかり、額に吹きだした汗をぬぐう。
「これが夢だろうが――」
あるいは、そうでなかろうが。
楽しまなきゃ損だぜ、と思う。どうせ将来にはクソみたいな会社生活が待っている。せっかく与えられたモラトリアムなのだから、それまでは好きに生きてやろうじゃないか。
ビデオカメラには鮮明に対象の顔が映されていた。これなら尾行は今日で最後になりそうだ。対象の素性は知らされないのが常だったが、今回に限っては所長から「気をつけてね」と一言添えられていた。それがどういう意味かは想像したくないものの、下手を打てばやばいヤマだったのだろう、僕は手早くチェックを済ませると事務所に戻るため再びリュックを――。
ぽん、と肩を叩かれた。
反射的に振りむきかける体を無理矢理、地面に転がした。初めに見えたのは拳だった。天地が逆転した視界に異様なものが映りこんでいた。
そいつは黒づくめだった。靴も、黒い。ジーンズも黒く、体のラインを隠す雨合羽のような上着までも黒い。そして、なにより異様であったのは、その顔にあたる部分。
それはブリキの人形だった。僕のあだ名と同じ、竜巻により不思議な国に飛ばされてしまった少女と旅する、あの童話の木こりの仮面をつけていた。
背筋がぞくりと震えた。
こいつは、かかわってはいけないやつだ。
直感が告げるままに体がうしろへ逃げだそうとする。ところが、踵をかえした瞬間にそれは叶わぬものと知った。行きどまりだ。どうしてここに足を踏み入れた時、退路を確認しなかった? 確かに警告を受けていたはずなのに――!
思考にノイズが走った。アスファルトを踏みしめる乾いた靴音が、再び僕を仮面の木こりと相対させる。まだそいつは手の届く距離には遠く、間にあったと安心したのもつかの間。
骨を通じて聞く鈍い音に、顎を蹴りあげられたのだと知った。
衝撃と痛みはあとからやってくる。頸椎がつぶれ、同時に喉が伸び切れたかのような感覚。脳がぐわんぐわん揺らいでいた。それでも体を動かせたのは、ひとえに日頃の鍛錬のおかけだ。ラグビー選手を真似て首の筋肉を鍛えていたのが紙一重で命を助けた。紙一重? そうだ。前にあげた腕が、仮面の木こりの追撃をかろうじて防いでいる。
そのままバックステップを踏んで距離をとる。倒れぬ僕に、やつは驚いているようだった。そりゃお互い様だ。僕だって一撃目の蹴りはまるで捉えられなかった。
「待て」
相手が一歩踏みだしたのを見て、慌てて手のひらを前にやった。
「おまえの狙いは、このビデオか?」
先のやりとりで地面に転がったリュックサック、それを指して慎重に言葉を選んだ。
「もしそうなら、ここにおいていく。それで見逃してくれないか。こっちもそこまで賭けろとは言われてないんだよ。ただのアルバイトでね、できれば無事に家へ帰りたい」
仮面の木こりはわずかな間、リュックに視線をやっていたが、無言のままやがてまた一つ歩を進めた。
やはり駄目か。僕は半身になり正中線を隠す。右手を顎の手前におき、左手はそのまま前へ。冷静になって見れば、やつの体は僕より一まわりも小さい。先のような不意打ちでなければ分は悪くないのではないか。いやむしろ、こちらの方が。
「空手を少しかじっているようだが」
僕の構えを見てなのか、初めて仮面の怪人が人語を話した。意外なことに、それは女の声であった。だが、おぞましいほどに低く、かすれ、血が通っていない。
「しかし、その重心は狙いが違うな。どうして空手を捨てた」
一目で見抜かれたのを驚くよりも先に、胸がずきりと痛んだ。
やめたのは限界を感じたからだ。空手の技は、多くが近距離を想定してつくられているというのに、掴みや投げの要素がひどく薄い。僕が漫画のモデルにでもなる傑物であれば、それでも遅れをとることはなかったろうが、実際は――酔っぱらいの喧嘩を勇んで買ってしまうチンピラでしかなかった。ある夜、濡れた地面の上で馬乗りにされながら、それを心底思い知らされたのだった。
代わりに心を寄せたのは柔道だった。空手をやっていた時よりも貪欲に強さを求めた。街角の道場で、ひたすら掴まれたり組み伏せられたりした際の対処法を身に染みこませた。もちろん自分でやる方法も。あの夜の失態を振りかえれば、こちらの方が現実的な武器と思えたのだ。
「無駄口はいいからこいよ、変態野郎。その面白い仮面をはぎとってやるぜ」
軽口を言い終える前に、一息で距離を詰められた。跳ねあがる心臓を必死に押さえつけて、その軌道を見極める。顎をひいた。一撃だ。一撃さえ耐えきれば、あとはやつの袖をとって思うがまま。笑いだしそうになっている自分に気づく。そうさ、僕はやっぱりチンピラさ。
ごしゃり。顔面に鉄の拳が突き刺さった。
鼻腔の奥から、勢いよく熱い液体が吹きだした。「う、お、お」と漏れる叫びをとめられない。僕の左手は空を切っていた。やつの引き手が早すぎるのだ。イメージはボクシングのジャブ。だが、それにしては重すぎる。
二撃めもまともに顔で受けて、ようやく正体がわかった。
正拳突き――やつが放ったのは、僕が諦めた、空手の技だった!
「ちっ、くしょう」
ならばと直接相手の襟を掴みにいった。鼻を打たれた攻防で、すんなり組ませてくれる相手ではないとわかってる。相当な使い手だ。だが、人間の反射というものからは、誰もが逃げられない。こちらが掴みかかれば、相手は必ず振り払おうとする。僕が狙うのはその腕だ。
脇固め。柔道ではただのオーソドックスな間接技と思われがちだが、路上で使うこれは恐るべき威力を発揮する。僕が最も信頼をおく技だ。なぜならば、一度腕を掴めば逃れようもなく、地に身を捨てるだけで相手の肘をぐしゃぐしゃに破壊できる。
そうまでしなければ危険な相手と感じていた。一度目のアタックはゆるりと水中を泳ぐ魚のようにかわされる。だが、初撃はフェイク。右足を持ちあげ、まわし蹴りで怪人の側頭部を狙った。流れる動きでやつの掌が受けに舞う。しかし、こいつもフェイクなのだ。蹴り足を振り抜かず前へとおろし、地を踏みしめる。相応間合い。そして、とうとうやつの腕を掴んだ。
「安易に距離を詰める。柔を覚え、拳の恐ろしさを忘れたか」
魔の囁きがすぐ下から聞こえた。おかしい、僕はまだやつの腕をひき寄せては――。
刹那、急速に視界が狭まり、赤黒く染まった。
「跪け」
意志に反して膝が砕ける。アスファルトからの硬い衝撃を受けてようやく、懐へ潜りこまれ鳩尾を打ち抜かれたのだと気づいた。次の瞬間には胃液が逆流している。なのに、目の前には吐きかける相手がいない。
左腕の軋みに、逆に間接をとられたことを知る。
「や、やめ――」
「跪け」
路地裏の闇の中に、己の絶叫が鳴り響くのを聞いた。




