「あなたは本物の幽霊を見たことがある?」
さて、音楽室の時計がそろそろ十二時を指そうとしている。僕らが鍵盤を掃除する間、シイは図書室に本をとりに行くとでていった。自分で仕掛けた罠とは言え、この暗い校舎では懐中電灯だけじゃ心許なかったらしく、「いーやーだぁぁぁ」ともがくロリ子の首筋を捕まえて道連れに。それを見て、レオも他の片付けもしてくるからと申しわけなさそうについていった。
偽の血痕は絵の具でつくったものらしく、布巾を水にひたすとすぐに元どおりとなった。手持ちぶさたとなった僕はピアノの椅子に座り、鍵盤へ指をすべらせる。
「楽しい夜だったよ。この年になって、あんな風に笑えるとは思ってもなかった」
「あら。あなたがお望みなら、このくらいいつでも用意するのよ」
クロエが近づいてきて、ピアノ椅子のもう半分に腰かけた。彼女の身に触れる肩から背中にかけてが、じんわりと熱をもつ。そのままでいるのが自然という雰囲気だった。
「今夜ももう少し騙されてくれていたなら、まだ面白いだしものがあったのにね」
「ん……。そうか、『旧宿舎の怪』」
はたして最後の七不思議とはなんだったのか、聞けば意外な答えがかえってきた。
「あれはね、中身がカラッポのお話だったの」
「どういうこと?」
「旧宿舎には幽霊がでる――語られるのは、そのフレーズだけでさ。他の七不思議と違って、幽霊とは誰なのか、寂しいのか、怒っているのか、なにをして、なんのためにでてくるのか、そういうのが一切わからないの。だから今宵の仕掛けを考えるのには苦労したんだけどね」
「もしかして、シイが一人だけ制服できたのも?」
「鋭いわね。宿舎の地下ですすり泣く、女生徒の霊を演じてもらう予定だったのよ。彼女は頭から大量の血を流しながら、えびぞりに階段を駆けのぼり――」
「シイにそんなことさせるつもりだったのかよ!」
そこまで了承済で制服を着てきたのだとしたら、彼女に対する見方を考え直さなければならない。少なくとも、明日から尊敬の念をこめて〝さん〟づけにしよう。そんな僕のくだらない話に、彼女は体を揺らして笑った。
しかし、結局最後までたどりつけなかった。謎を解いた後になって、もったいない真似をしてしまったと思う。大人になって、騙されていると知りながらも踊る楽しさをようやく覚えたつもりだったのに、今夜は子どものように信じてこんでしまった。
「あら、これで終わりみたいな言い方ね」
耳元で魔女が囁いた。熱い吐息がくすぐったい。
「わたしは七不思議を撃破するって言ったのよ。旧宿舎に行かなきゃ終われないわ」
「でも、もうネタは割れちまったんだぜ」
「それなら、これからつくればいいだけの話じゃない? 今度はわたしたち五人でさ」
どうして、彼女と話すのはこんなにも楽しいのか。
アルコールも用意されていない夜なのに、笑みがこぼれて仕方ない。レオたちが戻ってくるまでの短い間だったが、僕らはこれからの悪巧みについて色々と意見を交わした。中でも次の言葉は、この夢から目を覚ました後もきっと忘れないだろう。
「わたしたちのしたことが、十年も二十年も先まで残るのよ。それって素敵だと思わない?」
そう思う。自然と、赤い唇に視線がひき寄せられていた。この先、彼女はどんな道を歩いていくのかと考える。僕は誰も知りあいのいない四国の大学へと進み、その後、遠い街を転々とする。あの日を境にJPSの味を覚え、金色のジッポーを買う。さして面白くもない未来だが、それでも彼女との空白を埋められるくらいの話はあるはずだ。そして、もしも再会できたなら、最初のフレーズはこれしかない。
昔、僕の教室には魔女がいて――。
「あなたは本物の幽霊を見たことがある?」
ふと、そんな台詞を投げかけられた。
「君はあるのか」
尋ねかえすと彼女は、僕をはかるような曖昧な笑みを浮かべた。どことなく、実家の部屋の壁に貼ったままにされているだろう、あのポスターを彷彿とさせる表情だった。
「なら、今度は僕にも見せてくれよ。楽しみにしてるからさ」
流れにまかせて、次の週末にでもと誘ってみた。大学の頃に戻ったつもりで、努めて何気ない調子を装った。彼女の驚いた時の癖なのだろう、黒目がちな瞳が見開かれる。しばしの沈黙。似合わない真似をしてしまったかもしれない、そう不安になったところで、呆れたとばかりに大きく溜息をつかれてしまった。
「次の週末って明日よ」
しかし、どうしてだろう、返事はノーではなく「仕方がないわね」であった。簡単に時間と場所を決め、どこそこのランチが美味しいらしいという情報まで与えられる。もしかして今、彼女の魔女以外の顔を初めて見ているのかもしれない。そう考えていると、彼女に気どられたのか「明日は死ぬほど怖い思いをさせてあげるんだから」と舌をだされてしまった。
明日か。目覚めた後に尋ねてみよう。この日の約束がまだ有効であるかどうか。
それから三人が帰ってきて、旧宿舎を探検しながら、新しい怪奇譚について話しあった。オンコについては、クロエの創作をもうお披露目してしまったから、それ以外の六つについてだ。
『一年二組の座敷童子』、彼女は一度、ここを去ってしまったが、とある儀式を行えばもう一度姿を現してくれるらしい。そのためには図書館のどこかに眠るウィジャ盤が必要だ。
『トイレの花子さん』、彼女は寂しがりやだ。去ってしまった座敷童子の代わりを探しつづけている。友達になるのは易いが、卒業するまでに上手くさよならを告げなければ、暗い個室に閉じこめられてしまうだろう。
『図書室の少女の影』、嫉妬深い彼女からウィジャ盤を奪うには、いくつかの手順の踏む必要がある。その時には理科室の市松人形が手を貸してくれるかもしれない。
『理科室の呪いの生き人形』、彼女の目はすべてを見とおす。七不思議の亡霊たちが真に求めているものについては、まず彼女に訊けばいい。その呪いを解くことができればの話だが。
『音楽室の狂いピアノ』、その演奏を最後まで聴いた者には、一つだけ願いをかなえてくれるそうだ。だが、奏者に気に入られるためには、旧宿舎に残された楽譜を探さなければならない。
そして『旧宿舎の怪』、うち捨てられたこの建物には、一人の魔女が今でも住んでいるという。黒帽子に血の色の口紅。背中まで届く髪は蛇のよう。闇に溶けこむその佇まいに魅せられてしまった者は、例外なく夜から帰れない。彼女の所有物を譲り受けるためには、とっておきの物語が必要だ。御堂山高校に囚われた少年少女たちに代わる生贄を、彼女は待っているのだ。
この日、僕らがつくった七不思議は、十年先の世界でも聴けるのだろうか。
それが楽しみでならない。




