「クロエは意外とおっぱいが大きかったんだな」
おかしい。おかしい。おかしい。
頭を抱えてバスに揺られているうちに、本当に学校へついてしまった。
御堂山高校。街の外れに建てられた我が母校は、小高い丘の上にある。バスはそのふもとまでしか通っておらず、正門までの坂道が昔はとてもおっくうだった。本当に十年ぶりに訪れるのであれば、懐かしさにそれを楽しむ余裕もあったろう。だが、今の僕は気が気でない。左右を学生たちに囲まれて、あまりの場違い感に心臓が変に動いている。
これは夢だ。悪い夢をみているんだ。
証拠にまるで頭が働かない。体も己のものでない気がする。きっと自分はまだ実家の布団の中にいて、暢気にいびきをかいているのだろう。そうでなければ、そろそろ三十にもなる男が制服を着て学校にやってくるなど狂気の絵図だ。あるいは家族が仕掛けたドッキリなら、家をでた時点で慌ててとめにきているはず。
とはいえ、本当に夢なら、もっと都合よく場面が変わってくれるものじゃあないか?
僕は母校の玄関にたどりついて、さっそく壁にぶちあたっていた。学校というものは、会社とは違い、土足が許されない。通り過ぎる生徒たちも、例外なく下駄箱から上靴をとりだしている。しかし、己の学年も出席番号もわからなければ、僕はその場に立ちつくす他なかった。
「なーにやってんだ、こんなところで」
「ひぃ!」
急に背を叩かれて、変な声が漏れてしまった。
振りかえると一人の男子生徒がきょとんとした顔で立っていた。
「どうしたんだ。早くいかねーと遅刻しちまうぞ。ほら」
僕のものらしい上靴を放ってくれる。その行動だけで、彼が地上に舞い降りた天使に見えてきた……という冗談は抜きにしても、実際整った顔をした少年だった。上背もあり、がっしりとした体つき、それに黒の短髪というのはテレビで見る高校球児のよう。
「なに突っ立ってんだよ。どうかしたのか」
「いや、君のイケメン具合について考えていた」
「……ああ、いつものオズだな。いつものとおり、どうかしてやがる」
彼とは知りあいであるらしい。もらった上靴を履くと「行こうぜ」と誘われてしまう。このまま教室まで連れて行ってくれるとありがたいのだが――。
「――え、オズって」
「この前、みんなで決めただろ。おまえのあだ名」
あの日記を思いだした。
バーで語った昔話には、四人の少年少女が登場した。魔女のクロエ、三つ編み委員長のシイ、その友達のロリ子に、お調子者のレオ。全員があだ名で呼びあうという奇妙な輪の中で、僕だけが、不自然に触れられていなかった。
「御厨と書いて、オズと読ませる。我ながらいい発想だと思うんだが」
……理由は間違いなく、恥ずかしかったからだろう。
っていうか、おまえが考えたと言ったね、今。
「そういう君は、間違いなく呉緒だな」
「レオだ」
「呉緒、いい名前じゃないか」
「すみません、お願いしますからかっこよくレオって呼んでください」
どうやら、ノートに描かれていた人物に相違ないようだった。
「――って、どこまで行くんだ、オズ」
お調子者の彼にひきとめられたのは、一年二組の教室の前だった。
そういうことか、と独りごちる。やはり夢なのだ。ここまで大仕掛けのいたずらとか、まさかのタイムスリップなど疑ってしまったが、なんてことはなかった。僕の人生の物語には秘密の抜け穴も、未知の毒薬も登場する余地はない。北海道への飛行機にのる前夜、気まぐれで読みかえした日記の所為で、こんな夢を見てしまっている。
学年と季節から、これはオンコと化け猫の謎を明かしたつづきなのだろう。記憶もあやふやな過去を夢で見るなんて不思議な気分だが、そうとわかれば、なんだか楽しむ余裕がでてきた。
「諸君、おはよう!」
レオの横から大きな声で挨拶をし、教室を見わたした。中学を卒業してまだいくばくも立たない少年少女たちが、ぎょっとした様子で僕に視線を集めた。数名がもごもごと挨拶をかえしてくる。その戸惑いの匂いを嗅いで、口元が自然と緩んだ。窓際に鞄のかけられていない空き席がある。僕は大股で教壇の前を横切り、そこに腰をおろして足を組んだ。職場ではとてもできない振る舞いだが、ここじゃあ関係ない。一度はやってみたかったんだ。
「お、おい……オズ?」
レオ少年が慌てて追いすがってきた。僕は悠然と構えて彼を見あげる。
「なにか?」
「おまえ、そこは――」
「早く席についた方がいいぜ、レオ。もうすぐ先生がくるんじゃないか」
「いや、そうじゃなくてな……」
あの日記の中では、僕は窓際に座っていたように描かれていた。ならば、ここらへんに座っておけば問題なく話は進むだろう。はてさて、これはいったいどんな夢なのか。原作を知らない映画を見ている気分にさせられる。
「オズ、今日はずっとそのネタでいくのか」
「問題でも?」
「いや……おまえがいいなら、それでいいが……」
彼は深々と息を吐きだすと、諦めた様子で背をむけた。母親と同じ台詞が気になったものの、それよりも次の展開が待ち遠しかった。このまま高校の授業がはじまるのか。記憶の隅に追いやられた過去を掘り起こそうとする。せいぜい大学時代までしか遡れないが、勉強と名のつくものは、おしなべて退屈でならなかった。それが今は楽しみで仕方ない。
しばらく何人かの生徒が教室に駆けこんできて、息を切らしながら自席についた。その彼らは例外なく他のクラスメイトに肩を叩かれ、こちらを見て、ぽかんと口を開けた。僕の態度がそんなに気になるか? はたまた、僕にかかった若がえりの魔法がすでに切れていて、おっさんが教室にいるという奇異な光景にざわめいているのかもしれない。おかしさにひき攣れそうになる胃を押さえながら、僕は時が満ちるのを待った。
そして、やってきたらしい。
最後に教室のドアをくぐったのは、黒髪の少女だった。腰まで伸ばされ、癖をもって波打つその髪がやたらと目についた。クラスメイトたちが突如として静まりかえる。どうしたことかと周囲を窺ううちに、視界に影が落ちた。少女が僕のそばで立ちどまっていた。
「あなた――」
彼女がまじまじと覗きこんでくる。対して僕は、女の子にしては意外に背が高いんだなと、そんな感想を抱く。制服の裾から覗く手は、これまで日差しを避けて歩いてきたかのように白く、スカートから伸びる両の足は、折れてしまうんじゃないかと心配になるほどすらりと細かった。綺麗なやつだなぁとぼんやり考えていると、彼女が再び口を開いた。
「よく、そこに座る気になれたわね」
「なんだ、ここは呪われた席かなにかか?」
「あら、よくわかったじゃない。背中を見てごらんなさい」
言われて素直に振りかえってみる。そこにはなにもなく、しいて言えば、うしろの席の男子生徒が「違う違う」と両手を振っているのみだ。
「そこにはね。六年前に病で死んだ女子生徒の霊が、今でも授業を受けにきているのよ」
「はあ? 幽霊?」
突然の電波思考についていけない。なんなんだ、こいつ。頭お花畑か? 呆れて視線を戻した途端、今度はうしろから「ぶっ」と吹きだす声が聞こえた。
もう一度、男子生徒の方を見る。彼は手で口を押さえながら、器用にも首を振っていた。
「まだ見えないようね。まぁ、いいわ。うかつに座ったことを、きっと後悔するから」
いつのまにか後頭部に違和感を感じていた。まるで見えない手で掴まれているような……よせよせ、冗談だろ? そう思うが、なにか重い。どうしても気になって、うしろ手で探った。
ぺたり、と乾いた感触があった。
驚いて掴みとる。糊の粘りが毛を巻きぞえにし、痛みが走った。顔をしかめながら確かめたそれは、なんというか――お札のようなもの。〝のような〟と断言できないのは、仰々しくデザインされたそれには、ひらがなで大きく「ばか」と書いてあったからだ。
「……手癖の悪いやつだな、クロエ」
その名を口にしてみた。
黒髪の彼女は得意げに両手を広げてみせた。
「死んだ人はおばけになって、あなたのうしろに立つのよ、オズくん」
「やめてくれよ」
本物の魔女は、裁判や弾圧ですでに絶えてしまったと聞く。少なくともこの現代に住むかぎり、会う機会など一生ないものと思っていた。
悪くない。悪くない夢だ。
高校時代など忘れてしまったとばかり思っていたが、うっすらと記憶の影がちらつきはじめた。夢から覚めたら、あのノートを読みかえそう。いや、そういえば北海道に帰ってきたんだったか? なら卒業アルバムを開いて、連絡先を探すのもいい。
クラスメイトの魔女の彼女に、僕は久方ぶりの笑みをおくった。
「クロエは意外とおっぱいが大きかったんだな」
「……」
蹴られた。
「ま、待て。僕はただ、イメージとの相違をだな――ぐぼぉ!」
たとえば空手の足技といえば、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。相手の顎を蹴あげる様か、それとも距離を突き放す前蹴りか。どちらもリングに映える技だが、それが一番の威力を持つかというと不正解である。人体の中で最も固い部位は? そう、踵だ。人類が二足歩行をはじめた時から四百万年もの間、力強く大地を踏みしめてきた踵こそが、最も蹴り技に特化した箇所であり、そこから繰りだされる下腹部への連撃は――やめて! 僕つぶれちゃう!
「あなたねぇ。次そんな軽口を叩いたら、呪い殺すわよ」
「呪いって、痛っ、ちょっ! こんな物理攻撃だっけ!?」
「あと面倒だからストレートに言うけど」
彼女は乱れた癖毛をかきあげて、やれやれと吐き捨てた。
「わたしの席からどいてくれる? 朝っぱらから、喧嘩売ってるのかしら」
なるほど、レオや皆が指摘したかったのは、これだったのか……。
そこでようやく教師がやってきた。教師は僕と同じくらいの年頃――いや、高校生という意味でなく、現実の僕と同じ三十手前に見えた。彼は教壇につくと、室内のただならぬ雰囲気を察知し、こちらに視線をむけた。
「どうした黒田。喧嘩か?」
「彼から、ひどいセクハラを受けまして」
「またか」
どういう意味ですか、先生……。
ようやく下腹部への強い刺激から解放され、ほうほうの体で隣の席へと逃げのびた。ここが本来の僕の席なのだろう。さっきから夢のくせに妙なところで細かい。四方に目をやれば、男子も女子もそろって苦笑いを浮かべていた。「さすが御厨」「俺たちにできないことを平然と」そんな会話まで聞こえる始末で、いったいこの世界の僕はどんな振る舞いをしてきたんだ?
クラスの委員長と思われる三つ編みの女子が「起立」と号令をかけた。教師への礼を終えて、ホームルームがはじまった。中間試験が近いことや、セクハラは唾棄すべき犯罪である旨がとうとうと話される。先生、僕の方を見ないでくれ。そんな風に顔を覆っていると、隣から魔女の囁きが届いた。
「あなた、まさか今日の約束まで忘れてないわよね」
「約束って?」
溜息混じりの彼女の声が耳朶を打った。
「今夜、十時に校門に集合よ。前からみんなで決めてたじゃない」




