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1999remember  作者: 板空六花
七不思議を撃破せよ
12/48

「おかーさーん。おにいちゃん、頭がおかしくなったー」

 ジリリリリ、と。

 けたたましいベルに飛び起こされた。頭の上を探るが、いつもの場所に目覚ましがない。どこに投げつけてしまったかと頭をかいて身を起こせば、そこは見知った部屋ではなかった。

 吊るしのスーツが床に落ちてない。それだけで自室でないことは明白だった。昨日、うっかり飲み過ぎて、同僚の部屋にでも転がりこんだのか? そういえば、頭の奥がもやっとして、鈍痛もする。だけど、他人の部屋にしては、どこかで見たような……。

「――そうか」

 帰ってきていたのだった。

 寝ぼけ眼には、五年ぶりの実家がまだ、よその家に映った。昨日寝る前にも見たはずの光景なのに異邦者の気分であるのは、きっと妹のやつにしこたま飲まされたからに違いない。とりあえず布団を抜けだし、机の上で鳴りっぱなしの目覚ましをとめると、周りに目をやった

 壁に掛けたカレンダーもオードリー・ヘップバーンのポスターも、記憶をたどれば昔のままのように思えた。電子ピアノにうっすらと積もった埃は、まぁ、今では愛嬌だ。本棚を見れば懐かしいタイトルが並んでいて、つい手にとりたくなってしまう。このシリーズ、読んでたよなぁと背表紙をなでたところで、階下から呼ぶ声があった。

 手すりを使いながら階段をおりる。リビングへの扉を開けると、かぐわしい朝食の匂いが鼻をくすぐった。母親がキッチンに立っていた。

「あんた、まだパジャマだったの?」

 高校時代にもよく言われたな、と思わず苦笑してしまう。

 ここも部屋の間取りは変わっていない様子。テーブルにつくと、揺れるカーテンの隙間から朝日が差し、目をちかちかとさせた。

「母さんは変わらないな。すげー若く見える」

「そんなこと言って、ごまかそうとしても駄目よ」

 とは言われても、親は基本褒めておくべきだ。帰郷の際にはなおさらで、あながち嘘でもない。僕が今年二十八になるのだから、むこうは五十は超えているはず。なのに、エプロンを着る母のうしろ髪には白いもの一つ混じっていない。

「なにじろじろ見てるのよ。さっさとすませちゃいなさい」

 語調はきついものの、どうやら先ほどの世辞は功を奏したらしい。母親は鼻歌交じりにコーヒーを入れてくれた。

「砂糖はどのくらい入れる?」

「ブラックでいいよ」

「いつのまにそんな大人ぶるようになったの?」

 男子三日会わざれば刮目して見よって言うだろ、とかえしてやると、今度は鼻で笑われてしまう。親というのは、いつまでも子の成長を認めないもんだと聞くが、やれやれ。この年になっても経験するとは思わなんだ。

 高校までここで暮らした。手にとったコップも、テーブルに並んでいく朝食も、そういえば覚えのある。少しずつ記憶の蓋が開いていく感触があるものの、でも、帰ってきたという実感にはまだ遠かった。体がふわふわするというか、なんというか。先に見た夢の所為だろうか。

 そう考えていたところ、背中に声をかけられた。

「おはよう」

 振りむけば、制服を着た妹の姿があった。

「おにいちゃん、なんでまだパジャマなの? そんなにのんびりしてて大丈夫?」

 母さんと同じこと言うのな、と笑いかけて、そのまま時が静止した。

 とりあえず落ちつこう。そう思ってカップを口に運ぶが、こらえきれず吹きだしてしまう。

 ティッシュはどこだ? 衛生兵を呼べ! ようやく見つけて濡れた顎をぬぐうと、僕は半眼になって目の前の妹を眺めた。

 彼女は制服を着ている。

「どうしたの、おにいちゃん」

「いや、美咲。どうかしてるのはおまえだろ……」

「はあ?」

「なんで、中学の制服なんてひっぱりだして、着てるんだ……?」

 いくら嫁入り前で色々振りかえりたいからって、それはないだろ。

 でも悲しいかな、精一杯のツッコミも届かなかったようで、不思議そうに首をかしげられた。

「どうしたのおにいちゃん。まだ寝ぼけてる?」

「だから、ボケてるのはおまえだろ。もう二十六だぞ? コスプレとか年を考えろよっ」

「おにいちゃん……?」

「その呼び方もやめてくれ。いくら久しぶりだってなぁ。電話じゃちゃんと〝兄さん〟って言ってただろーが」

 彼女は自分の年が意味するところもわかっていない様子。そのヘアスタイルは一昔前に流行ったお姫様カットで、細身の体型と相まって、まるで本物の中学生のように見える。スカートの丈はうんと短く、健康的な太ももが……ああ、僕の妹やばい。二十六歳なのに超やばい。

「まぁいいけどさ。美咲。みーちゃん? おまえ、その趣味、旦那さんにだけは絶対に内緒にしておけよ。そういうのが好きなのは、特殊な趣味の人だけだぜ」

「おかーさーん。おにいちゃん、頭がおかしくなったー」

「聞けよぉぉぉ!」

 怒鳴るとまた頭が痛くなってきた。どうにもこの状況は二日酔いに優しくない。だけど、この齟齬というか違和感はなんなのか。大変なものを見落としてしまっているような。

 やはり、まずは気を落ちつかせねばとコーヒーをすすった。母親は昔からこういうものに凝るたちで、酸味の利いた味が舌の上を転がる。こんな朝じゃなければ、ゆっくりと楽しみたいところなのだが、さて。

「もしかして……美咲、おまえ」

 制服姿の美咲は、母親にすがりつくようにして、こちらを窺っている。そんな彼女に、僕は真面目に問いかけた。

「もしかして、胸が小さくなったんじゃないか?!」

「おかーさーん!」

 すまない、真面目にというのは嘘だった。

「あんたねぇ、ふざけるのはいいけど、そろそろ食べないと遅刻するわよ」

「遅刻? 母さんまでよしてくれよ。今日くらいのんびりさせてくれ」

「今日はずっとそのネタで行くの? お母さん、飽きてきたんだけど」

 本当に遅れるわよ、と言われ、僕は口を閉じた。

 先ほどから感じている言葉にならない感覚。それは喉元までせりあがってきていたが、あまりにも突拍子もない考えだと躊躇われた。「ちょっとトイレに」と席を立つ。リビングを抜けだし、個室に入る。うしろ手にドアを閉めた。便座はあげぬまま、壁にかけられた鏡を見た。

 昔、事故にあって、僕の額にはプロレスラーのような傷跡がある。

 人に会う度にネタにできるくらい、それはそれは派手な代物なのだが。

 前髪をあげて見たそこには、なにも残っていなかった。

 リビングに戻ると、朝食を終えた美咲が鞄を持って待っていた。正面に立つと、中学の制服に包まれたその体が、記憶にあるものよりも一まわり小さいとわかる。ダイエットのしすぎで胸板が薄くなることはあれど――背が縮むなんてありえない。

 テーブルのむこうから、若づくりだとばかり思っていた母親が、馬鹿な息子を見る目で投げかけてきた。

「あんたもさっさと着替えてきなさい。そろそろ行く時間でしょ」

 どこへ?と聞いてみたのは、最後の抵抗だ。

 僕は奇妙な諦念をもって、次の宣告を受けとめたのだった。

「学校に決まってるじゃない」

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