「おかーさーん。おにいちゃん、頭がおかしくなったー」
ジリリリリ、と。
けたたましいベルに飛び起こされた。頭の上を探るが、いつもの場所に目覚ましがない。どこに投げつけてしまったかと頭をかいて身を起こせば、そこは見知った部屋ではなかった。
吊るしのスーツが床に落ちてない。それだけで自室でないことは明白だった。昨日、うっかり飲み過ぎて、同僚の部屋にでも転がりこんだのか? そういえば、頭の奥がもやっとして、鈍痛もする。だけど、他人の部屋にしては、どこかで見たような……。
「――そうか」
帰ってきていたのだった。
寝ぼけ眼には、五年ぶりの実家がまだ、よその家に映った。昨日寝る前にも見たはずの光景なのに異邦者の気分であるのは、きっと妹のやつにしこたま飲まされたからに違いない。とりあえず布団を抜けだし、机の上で鳴りっぱなしの目覚ましをとめると、周りに目をやった
壁に掛けたカレンダーもオードリー・ヘップバーンのポスターも、記憶をたどれば昔のままのように思えた。電子ピアノにうっすらと積もった埃は、まぁ、今では愛嬌だ。本棚を見れば懐かしいタイトルが並んでいて、つい手にとりたくなってしまう。このシリーズ、読んでたよなぁと背表紙をなでたところで、階下から呼ぶ声があった。
手すりを使いながら階段をおりる。リビングへの扉を開けると、かぐわしい朝食の匂いが鼻をくすぐった。母親がキッチンに立っていた。
「あんた、まだパジャマだったの?」
高校時代にもよく言われたな、と思わず苦笑してしまう。
ここも部屋の間取りは変わっていない様子。テーブルにつくと、揺れるカーテンの隙間から朝日が差し、目をちかちかとさせた。
「母さんは変わらないな。すげー若く見える」
「そんなこと言って、ごまかそうとしても駄目よ」
とは言われても、親は基本褒めておくべきだ。帰郷の際にはなおさらで、あながち嘘でもない。僕が今年二十八になるのだから、むこうは五十は超えているはず。なのに、エプロンを着る母のうしろ髪には白いもの一つ混じっていない。
「なにじろじろ見てるのよ。さっさとすませちゃいなさい」
語調はきついものの、どうやら先ほどの世辞は功を奏したらしい。母親は鼻歌交じりにコーヒーを入れてくれた。
「砂糖はどのくらい入れる?」
「ブラックでいいよ」
「いつのまにそんな大人ぶるようになったの?」
男子三日会わざれば刮目して見よって言うだろ、とかえしてやると、今度は鼻で笑われてしまう。親というのは、いつまでも子の成長を認めないもんだと聞くが、やれやれ。この年になっても経験するとは思わなんだ。
高校までここで暮らした。手にとったコップも、テーブルに並んでいく朝食も、そういえば覚えのある。少しずつ記憶の蓋が開いていく感触があるものの、でも、帰ってきたという実感にはまだ遠かった。体がふわふわするというか、なんというか。先に見た夢の所為だろうか。
そう考えていたところ、背中に声をかけられた。
「おはよう」
振りむけば、制服を着た妹の姿があった。
「おにいちゃん、なんでまだパジャマなの? そんなにのんびりしてて大丈夫?」
母さんと同じこと言うのな、と笑いかけて、そのまま時が静止した。
とりあえず落ちつこう。そう思ってカップを口に運ぶが、こらえきれず吹きだしてしまう。
ティッシュはどこだ? 衛生兵を呼べ! ようやく見つけて濡れた顎をぬぐうと、僕は半眼になって目の前の妹を眺めた。
彼女は制服を着ている。
「どうしたの、おにいちゃん」
「いや、美咲。どうかしてるのはおまえだろ……」
「はあ?」
「なんで、中学の制服なんてひっぱりだして、着てるんだ……?」
いくら嫁入り前で色々振りかえりたいからって、それはないだろ。
でも悲しいかな、精一杯のツッコミも届かなかったようで、不思議そうに首をかしげられた。
「どうしたのおにいちゃん。まだ寝ぼけてる?」
「だから、ボケてるのはおまえだろ。もう二十六だぞ? コスプレとか年を考えろよっ」
「おにいちゃん……?」
「その呼び方もやめてくれ。いくら久しぶりだってなぁ。電話じゃちゃんと〝兄さん〟って言ってただろーが」
彼女は自分の年が意味するところもわかっていない様子。そのヘアスタイルは一昔前に流行ったお姫様カットで、細身の体型と相まって、まるで本物の中学生のように見える。スカートの丈はうんと短く、健康的な太ももが……ああ、僕の妹やばい。二十六歳なのに超やばい。
「まぁいいけどさ。美咲。みーちゃん? おまえ、その趣味、旦那さんにだけは絶対に内緒にしておけよ。そういうのが好きなのは、特殊な趣味の人だけだぜ」
「おかーさーん。おにいちゃん、頭がおかしくなったー」
「聞けよぉぉぉ!」
怒鳴るとまた頭が痛くなってきた。どうにもこの状況は二日酔いに優しくない。だけど、この齟齬というか違和感はなんなのか。大変なものを見落としてしまっているような。
やはり、まずは気を落ちつかせねばとコーヒーをすすった。母親は昔からこういうものに凝るたちで、酸味の利いた味が舌の上を転がる。こんな朝じゃなければ、ゆっくりと楽しみたいところなのだが、さて。
「もしかして……美咲、おまえ」
制服姿の美咲は、母親にすがりつくようにして、こちらを窺っている。そんな彼女に、僕は真面目に問いかけた。
「もしかして、胸が小さくなったんじゃないか?!」
「おかーさーん!」
すまない、真面目にというのは嘘だった。
「あんたねぇ、ふざけるのはいいけど、そろそろ食べないと遅刻するわよ」
「遅刻? 母さんまでよしてくれよ。今日くらいのんびりさせてくれ」
「今日はずっとそのネタで行くの? お母さん、飽きてきたんだけど」
本当に遅れるわよ、と言われ、僕は口を閉じた。
先ほどから感じている言葉にならない感覚。それは喉元までせりあがってきていたが、あまりにも突拍子もない考えだと躊躇われた。「ちょっとトイレに」と席を立つ。リビングを抜けだし、個室に入る。うしろ手にドアを閉めた。便座はあげぬまま、壁にかけられた鏡を見た。
昔、事故にあって、僕の額にはプロレスラーのような傷跡がある。
人に会う度にネタにできるくらい、それはそれは派手な代物なのだが。
前髪をあげて見たそこには、なにも残っていなかった。
リビングに戻ると、朝食を終えた美咲が鞄を持って待っていた。正面に立つと、中学の制服に包まれたその体が、記憶にあるものよりも一まわり小さいとわかる。ダイエットのしすぎで胸板が薄くなることはあれど――背が縮むなんてありえない。
テーブルのむこうから、若づくりだとばかり思っていた母親が、馬鹿な息子を見る目で投げかけてきた。
「あんたもさっさと着替えてきなさい。そろそろ行く時間でしょ」
どこへ?と聞いてみたのは、最後の抵抗だ。
僕は奇妙な諦念をもって、次の宣告を受けとめたのだった。
「学校に決まってるじゃない」




