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1999remember  作者: 板空六花
七不思議を撃破せよ
10/48

「あなたのいた世界は楽しかった?」

「あなたのいた世界は楽しかった?」と彼女は言った。


   ※


 二〇一〇年六月十七日。今日もなにもない一日だった。

 そんな一行をキーボードに叩き、僕は煙混じりの溜息をつく。

 灰皿の中でくすぶる煙草をまた口に運び、フィルタ近くまで吸いこんだ。なにもない一日、か。無理に詩的にしようとしても、むなしいばかりだ。雑然とした室内に目をやる。床には三日は洗っていないシャツが無造作に捨てられ、丸まった靴下がいくつも転がっている。嫌になって見あげれば、そこにはタールでくすんだ天井があるだけ。

 日記は大学の頃からつづけている数少ない趣味だ。十年物のデスクトップには、他にも短い文面が並んでいる。

『六月十日、八時に出社。十九時に帰宅。ビールを飲む』

『六月十一日、八時に出社。仕様書の差し替えあり。やけくそで日付が変わるも、帰りには日本酒の旨い店に行く』

 これではもはや日記でなく、日報だ。あるいは酒道楽の記録でしかない。

 社会人になって六年になる。日々に面白さを求める年ではもうないが、これではなんのために書いているかわからない。読みかえしてもさして感慨も持てない文章は、トイレで流し読む新聞よりも記憶に残らぬものだ。

 僕は今、流れに流れて大阪でひとり暮らしている。田舎の三流大学をでたのち、かろうじて東京の会社に滑りこめたと思っていたら、その後カレンダーを二つ消費するよりも早く転勤になった。東京で少し仲よくなった女の子も、最近ではぱったりと連絡が途絶えてしまった。こちらからメールを打つことも、もうない。かといって大阪で新しく出会いを求めようにも、すでにできあがった輪の中に入っていくのは、ひどく骨の折れる作業だった。

 こうしてデスクにむかう度に考える。たとえば大学受験の時、僕はこんな人生をおくるために必死で勉強してたのか? 就職活動の時、そうだ、あの頃はもっと仕事に夢とか希望とかを持っていた気がするぞ。

 少なくとも今の会社に入るまでは、このプログラマという職種に未来を感じていたと思う。月面に人類の足跡を残したあのアポロ十一号だって、ソースコードを燃料に空を飛んだのだ。そこまで大それたことでなくとも僕だっていつかは、と若き日の御厨青年が淡い期待を抱いたのも無理からぬ話だろう。しかし現実はどうだ? ここ数年してきたのは、新しいパソコンが発売される度にソフトのご機嫌を窺うだけの仕事だった。人類を宇宙におくりだすどころか、明日会社を辞めたって誰にも気にされないに違いない。自分がいなくとも地球はまわる。そんな益体もない空想に浸ってしまうくらい、僕、御厨(みくりや)浩平(こうへい)は腐り果てていた。

 大阪にきて、ようやく平日に愚痴を交わせるくらいの友はできた。店を渡り歩き、くだらない話に花を咲かすことにも慣れてきた。でも、その様はまるで川底に沈む空き缶のようで、休日にひとり自室で煙草をふかす時間も次第に増えていった。

 本当になにもない、平坦な日々。

 それが僕のこれからもつづく人生だ。もう十分知れたことなのに、あえて書きつけようとしたのはなぜなのか? それもこれも、気まぐれに漁った本棚で見つけた一冊のノートにある。

 大学時代、北海道からでてきた青年にはなにもかもが珍しく映ったのだろう、よく喫茶店に入ってコーヒーだけでねばりながら、人と話した記録をとった。先のバーでのくだりもその一部だ。よほど楽しい夜だったのか、ノートには幾日分にも渡って事細かに記されていた。女の子を会ったその日に二人きりで飲みに誘うだなんて、昔の自分の度胸には感心させられる。

 しかし、魔女か。

 あの日、あれほど熱を持って話した過去が、どうしても思いだせない。

 クロエ? シイ? 高校生になってまであだ名で呼びあうなんて……なんとまぁ、仲のいいことだが、十年も経てば顔も浮かんでこなかった。当時は携帯も持っていなかったし、卒業してそれきりのパターンだったのかもしれない。大学のやつらと同じだ。東京で知りあった彼女とも。あらためてノートを手にとりめくってみたが、その中身はひどく空虚に感じられ、終いには投げ捨ててしまった。

「まったく……」

 本日何度目かの溜息を吐きだしたところで、自室に電子音が鳴り響いた。

 薄汚れた部屋の中をどこだどこだと探しまわったところ、発信源は同じ机の上。先ほど投げた日記の近くで、型遅れの携帯が小刻みに震えていた。壁時計の短針はすでに十二の文字を指している。こんな時間にどこの馬鹿だと呆れたが、それでも無視できなかったのは、ふと気づかされてしまったためだ。ここしばらく自室で電話をした覚えがなかった。会社帰りに飲み屋の前で連絡をとる以外、かける相手もかけてくる相手も、とうの昔に消えてしまっていたから。

 じゃあ、いったい誰が? 携帯を開いたところで、ようやく相手に思いいたる。このメロディを登録したのは、そういえば。

「……もしもし」

『あ、よかった。まだ寝てなかったんだね』

 案の定、彼女だった。

 いや、〝彼女〟なんて呼び方、あの日記に影響されすぎだ。それとも、ひとり暮らしが長すぎてどうかしてしまったのか。

『兄さん。明日帰ってきてくれるんでしょ? 何時の飛行機にのるの?』

 北海道に残してきた妹だ。名は美咲(みさき)。姓の御厨は、もう少しで変わってしまう。

「そうだな。夜にはそっちにつけるようにするよ」

『……相変わらずなんだから』

 もう五年は会ってないが、妹がよくする癖を覚えている。眉をぎゅっとしかめ、その眉間を中指でなぞる。今も受話器を片手にやっているのかもしれない。

『こっちで靴もスーツも買うって言ってたじゃない。みんなで久しぶりにご飯も食べたいし……ねぇ、私、もう家をでていくんだよ? 結婚、するんだから』

「そうだったな」

 色気のない返事に自分自身に呆れてしまう。ここで気の利いた台詞が言えるようなら、僕の人生も随分と変わっていただろうに。飲んでは振られてを繰りかえすこともなかったはずだ。

『ねぇ、聞いてるの?』

「ああ、悪かった。おまえの晴れ姿だもんな。写真だって撮らなきゃな」

 昼には帰るよと話して、電話を切った。

 暗闇が満ちた室内でまた孤独に煙草を吸う。デスクの明かりだけが夜を照らしてくれる。ここには、それ以外になにもない。なにも見えない。どうしようもない、僕の流れついた場所だ。

 せめて明日は、起きたらすぐに空港へむかおう。

 久方ぶりの北海道への旅路を思い、僕は明かりを消した。

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