「僕の教室にいた魔女は」
思いかえせば、大学の頃は知らないやつと飲むことが多かった。
自分の人見知りするたちを考えると冗談みたいな話だが、とにかく誰かについて店をはしごするのが当時の楽しみだった。ひとり遠く離れた土地に進学したせいで、ノートを借りるのにもサークルを選ぶのにも、新しい輪に入って行かざるをえなかったことが、きっと僕の心を鋼にしたのだろう。今からでは信じられないが、酔ってべろべろになった赤の他人と益体のない話で笑いあうのが、無性に好きな時期だった。
彼女と出会ったのも、そんな流れからだった。
「高校の頃って、クラスに一人か二人はおかしなやつがいなかったかい?」
と、だしぬけに彼女が言う。
妙な女だった。薄茶色の髪に真っ赤なルージュ、やたらと胸を強調した出で立ちなのに、不思議と性別を感じさせない。男のような喋り方をすると思えば、その仕草は上品な猫のよう。酒には強いんだか弱いんだか、やたらと飲んで、話す度にふわふわと笑った。そのちぐはぐな印象が面白くて、同期の集まりを抜けだし、バーへ誘ったのだった。店内にはピアノがおいてあり、奏者は時折歌ったりもしながらジャズのスタンダードナンバーをとめどなく弾いていた。
「高校か。なかなか思いだせないな。そんなに遠い昔の話でもないのに」
「なに言ってるのさ。私はつい昨日のことのように憶えてるよ。あの青春の日々! なにをやっても楽しかった」
「青春だって?」つい吹きだしてしまう。「僕は今の方が楽しいぜ。なにせ、あの頃はビールの味も知らなかった」
「ただ苦いだけだと思ってたのになぁ」などと、こしゃくなかえし方をする彼女。「でも、逆に考えて。ほら、あの頃はお酒がなくたって楽しかったんだよ」
「ああ……」
確かに一理ある、と肯いた。素面で床を笑い転げるなんて、今では正気の沙汰じゃない。そんな子どもの特権を使っていた頃が、自分にもあったような気がする。
「だから、そんなに昔じゃあないでしょ。思いだしてごらんよ、あの不思議な空間を。いつだってカビた匂いがしたあの教室には、妙なやつが必ず一人はいたはずさ」
そう言って、彼女はグラスを傾けた。からりと氷が音を鳴らし、金色の液体が怪しく揺れた。
「たとえば、私の友達には一人、魔女がいてね」
「――魔女?」
「そうさ。こんな風に誰かと知りあった時には、必ず話したくなる」
グラスがカウンターにおかれる。その縁には、赤い口紅の跡。僕の視線に気づいたのか、彼女はいたずらっぽく微笑んで、それを拭きとった。
「ずっと自己主張の少ない子だなと思ってた。友達だったけどね、でもこっちから話しかけないと一日、誰とも喋ってないんじゃないかって心配しちゃうくらいでさ。無口ってわけじゃないんだけど、自分のことを話すのがひどく苦手そうに見えた。背もとてもちっちゃくてねぇ」
「わかるよ。僕もそんな感じだった気がする」
「うそつき」
嘘じゃないと言ってもどうやら信じてはもらえないらしい。
「でね、恥ずかしい話なのだけど、私はそれまで親友のつもりでいたんだ。中学からのつきあいでさ、遊びにだって二人でよく行った。だから、高校に入って知らない人も増えて、そして考えた。私だって新しいクラスメイトと仲よくなるのに辟易してるんだから、彼女ならなおさらだろう。……本当に恥ずかしい話、守ってあげないとって思ってたんだよ」
「でも、それは思い違いだった?」
「うん。魔女を子羊と思いこんでいたなんてさ」
テーブルの上には、黒いパッケージのJPS。彼女の煙草だ。
彼女の長い指がそれを一本つかむと、不意に強い色香が漂った。ジッポーが火をともす。その表面には「Remember 1999」と刻まれている。煙を吐きだす赤い唇に、自然と視線が吸い寄せられてしまう。……不思議な女だ。男友達と同じように飲んでいたつもりはなかったが、別に下心があって誘ったわけでもないのに。
僕はごまかすように新しいビールをバーテンに頼んだ。
「ふふ」
そんな気持ちを知ってか知らずか、彼女はまた猫のように笑う。
「ある日、彼女が学校にこなくなった。唐突にね。一日、二日休むことはこれまでもあったけど、さすがに三日つづけてとなると、おかしいって気づいた。四日目には心配でたまらなくなった。担任の先生は風邪だと言う。家に電話をかけてみても……ああ、ほら、あの頃は携帯も持ってなかったしね、家に電話をかけたんだ。すると母親がとって、熱がさがらないから電話を代われないと言う。やっぱりおかしいと感じた。彼女の母親はなんというか、心配するというよりも、なにかうしろめたさを隠しているようで、それで思わず家に押しかけてしまった」
「それまでに彼女の家を訪ねたことは」
「なかった。親友だとか言いながら一度も遊びに行ったことがなかったんだ。自分でもそれに気がついて愕然とした。もしかして私は彼女のことをなにも知らないんじゃないか? そんな風に不安になってね。ベルを押すと母親がでてきて一旦は断られたんだけど、友達なんですって譲らないでいると、とうとう観念して中に入れてくれたよ。最後は笑顔だったのが妙に気になったな。彼女の部屋は二階にあった。ノックすると、ややあって本人が顔を見せた」
紫煙をくゆらせる彼女。僕はいつのまにかビールを飲むことを忘れている。
「彼女は汗だくだったよ。シャツが胸元まで濡れていたのを憶えてる。だけど、なにかがおかしかった。なんだと思う? 彼女は髪もぐしゃぐしゃで、化粧もしてなかったし、病人の出で立ちとそう変わらなかったんだけど……彼女は右手に、あるものを持っていたんだ」
「――それは」
「ダンベルだったんだ」
……。
ダンベル、それは僕の知識が間違っていなければ、金属棒などの両端に重りをつけたトレーニング用の器具である。主に筋力を鍛えるために使う。っていうか、他に使い方を知らない。
「……ダンベル?」
「そう、ダンベル」
「ダンボールとかの言い間違いじゃなくて?」
「いや、どちらかという鉄アレイ的な」
「……鉄アレイ的な」
「ダンベル」
しばしの間、僕らの間には静寂が漂った。
正確に言えば、店内にはピアノの音だけが軽やかに流れていた。他には周囲の客のざわめきすら聞こえない。僕は平静をとり戻すためビールを一口飲もうとしたが、見事に失敗した。
「ぶはっ、ははは!」
「うわっ、きたない。大丈夫?」
「大丈夫じゃねーよ! 冷たい! ていうか、なんだそりゃ」
耐えきれず吹きだしてしまったビールを、慌ててぬぐう。横で彼女は困り顔。こんなにウケるとは思わなかったよ、などとうそぶく。でも、してやったりという色が隠しきれていない。
「いやね、彼女は言うんだよ。この前、体重計にのったら大変なことになっていた。なまった体に筋肉をとり戻さないとって、ダンベルを握りしめて……」
「その悲しそうな声色はやめろ!」
「そうは言うけどね。私は彼女のことなんて、なにも知らなかったんだよ。中学からずっと友達でいたつもりだったのに……。目の前で筋トレを再開された時の私の気持ちがわかるかい?」
「わかんねーよ!」
「だよねぇ」
そこで彼女はあっけらかんとした調子に戻った。灰皿で煙草をつぶし、楽しげにグラスを手にとる。氷がからりと鳴った。その音を合図に、僕の横隔膜もようやく痙攣をやめてくれた。
ちくしょう、少しでも真面目な話だと思った自分が馬鹿だったよ。
気をとり直したくて、あらためてビールに口をつけ、一気に空にした。
「つまりはあれか。その子は実はとんでもない筋肉マニアだったとか」
「マニアっていうかね、私もその日初めて知ったのだけど、彼女は齢十五にして実戦空手の有段者だったんだ。道場では大人を相手にしても負け知らずだったそうな」
「学校じゃおとなしい子だったのに?」
「演技だったんだ。知りあった時からずっと、目立たないように女の子の仮面を被っていたのさ。でも、その正体は……ねぇ、人間の手ってコーラの瓶を真っ二つにできるんだよ?」
「マジか、ってそりゃさすがに嘘だろ」
「いや本当の話。チョップで瓶の首がすこーんってさ。噴水みたいに泡が噴いて大変だったよ」
「どれどれ」
僕は試しにビールのハイネケンを瓶で頼んでみた。バーテンはなかなか気が利くようで、すぐにカウンターへおいてくれた。実を言うと僕も腕には覚えがあった。空手少女の話のあとでは恥ずかしいが、黒帯ならこっちも持っている。手先の強さにはちょっと自信があるんだ。
以心伝心、彼女がにやりと瓶に両手を添えた。これで他の客には迷惑をかけない。バーテンは少しだけ眉をひそめたが、見逃してくれるようだ。これなら遠慮なくいける――!
僕は思いきり瓶にむかって手刀を放ち。
その結果に納得して、静かに呟いた。
「こいつを真っ二つにできるのなら、確かにそいつは魔女だわ……」
瓶は割れるどころかヒビすら入っていない。一方、こっちはあまりの痛さに涙がでてきた。
「キミって結構、あれだね。馬鹿だね」
「僕を騙したのか……」
「まさか」と彼女は目を細め、その赤い唇に微笑を浮かべた。
栓抜きを使って、ジョッキに注いでくれる。泡の立て具合も見事なものだ。
「魔女の話は嘘じゃないよ。証拠にはならないかもだけど、彼女のエピソードはまだまだある。あれから何ヶ月か経った頃かな、彼女、また学校にこなくなったんだ」
「とうとう熊とでも戦いにいったのか」
「彼女が人喰い熊と対峙するのは、もう少しあとの話である! って、そうじゃなくて。実は入院しちゃったんだよ、あの子。いきなり教室でぶっ倒れたんだ」
「それは、びっくりしただろう」
「そりゃあね。でも、本当に驚いたのはそのあとだった。彼女は幸いにも一命をとりとめたのだけど、医者が言うには生きてるのが不思議な状態だったそう。なぜならその時、彼女の……」
彼女は周りに視線をやると、急に声をひそめ、僕の耳にそっと唇を近づけた。
「その時、彼女の体脂肪率は、五パーセントをきっていたらしい」
僕はビールを吐いた。
もう駄目だ。こいつの話はまともにとりあうべきじゃない。
にこにこと顔を寄せる彼女を押しのけ、バーテンに頼んでやった。
「彼女に座布団を一つ」
「……ロックにしますか、それとも水割りにしますか」
「あんたもか!」
僕のツッコミに、バーテンは口元だけで笑みをつくると、しばらくして本当にグラスを差し入れてくれた。笑い上戸の彼女が先ほどから舐めているバーボンウィスキーだった。元からおいてあったコースターにもう一枚重ねてくれて、それが座布団の代わりらしい。
「さて」
彼女は新しいグラスを傾け、熱い吐息をつく。
「今度はそっちの番だ。昔を振りかえってみなよ。キミの教室にもきっと魔女がいたはずだ」
「そんなこと言われてもな……。ダンベルのあとじゃ気がひける」
「おや。気がひける、って言うからにはネタはあるのかい?」
「ああ、いや、どうかな。これは笑えるかどうか」
彼女は亜麻色の髪の毛を耳元までかきあげながら、僕の瞳を覗きこむようにして。
「私のターンはこれ終わり。もったいぶらずに、そっちのカードも見せておくれ」
高校の教室というあの狭い空間には、確かに独特の雰囲気があったように思う。たとえ一人、変なやつが紛れていたとしても、その中にいてはなかなか気づけない、そんな雰囲気が。
もう何年も前の話だし、おまけに酒がまわっているときてる。頭にもやがかかり、ちゃんと話せるかどうか怪しかったが、しかし、目の前の彼女を退屈させるのも忍びなかった。
記憶をたどり、語りはじめた。再び煙草に火をつけた彼女は、目を細めてこちらを見ていた。
「僕の教室にいた魔女は」




