第一幕:Be quiet
背の高いビルや商店街、たまに木なんかも立ち並ぶ、田舎と都会の中間みたいな街並み。
その片隅で、くぐもった爆発音と土煙が立ち上る。
少し高めのビルが一つ、轟音をたてて沈んでゆく。
その一発を口火に、二発、三発と立て続けに爆発が起きた。
爆風で車が二台ほど宙に放り出される。
大きな道路に沿って繰り返される爆発は、まるで何かを追いかけているかのようだった。
しばらくして、砂埃を含む灰色の爆煙の中からポッと、二人の少年が飛び出してきた。
適度に着こなした制服からして、二人とも中学生らしい。
片方の少年は楽しそうに爆笑しながら、もう一方の少年は無表情でポケットに手を突っ込みながら、道路を飛ぶように走っていく。
二人の背後で、また何度か爆発が起きた。
「狛、電話鳴ってる」
「まじか!誰ー?」
少し茶髪の狛と呼ばれた少年が、爆笑しながら軽快に叫び、携帯電話に耳を当てる。狛のケータイは、まだガラケーだった。
「もすもーす!あ、氷粋ねーちゃん?今?今ねー、采と一緒に爆発に追われてるとこ。にししし♪」
「狛、来る」
采と呼ばれた黒髪の少年が眠そうな目でのんびり呟き、ポケットに手を突っ込んで走りながら、軽く上に跳んだ。
次の瞬間、足元に大きな岩の塊が着弾する。
それを見た狛が、さらに豪快に笑った。
「あははは!うぉっ……とぉ。ねーちゃんごめん!あとでかけなおす!」
そう言って電話を切った狛は、横目でチラリと采を確認。続けて背後の爆煙を一瞬だけ視界に入れ、いたずらっぽく笑った。
「うし!采、そろそろやるかぁ!」
「ん」
二人は同時に体の向きを反転し、爆煙に立ち向かうかたちでブレーキをかけた。
すると、何故か連続爆撃までもが止む。
そして、収まり始めた灰色の煙の中から、円盤型のUFOらしきものに乗った、信楽焼の狸みたいな体型の人間が現れる。
わかりやすく言うと、脂ぎって太っている。
金の匂いがしそうなピカピカの白い学ランは、大きな腹が動く度にはちきれそうだ。
クラスにおける『金持ちのお坊っちゃん』的立ち位置を体現したような少年だった。
「やっとあきるぁめたか愚民!いや貧民! 全く、ガラケー風情が馬鹿にしやがって! 最新のHaiphone6の威力、とくと見やがるぇぃ!」
瓦礫が崩れる音の中、拡声器もないのに聞こえてくるほどの大声を張り上げる狸。違った、太っちょ。
狛はニヤリと笑うと、片手でガラケーのキーを叩き、『( -ω-)っ鎚』と打ち込んだ。送信。
そしてケータイがおもむろに光を放ち――形を変える。
柄が長く、アート作品のような変わったデザインのハンマーへと。
狛は白い歯を見せつけるように笑い、叫んだ。
「ガラケーなめんな!ブクブクだぬき!」
狸の眉間に青筋が浮かぶ。
「た……たぬきだとぉ?」
采は手をポケットから出し、やる気なさそうに、しかし痛烈な追い討ちをお見舞いする。
「私腹を肥やした腹で腹太鼓でも打ってろばーか。ばーかばーかばーか」
狸の青筋がブチっと音をたててキレた。
「ク・ソ・ガ・キ・がぁあああああああああ!やっちまぇ側近ズ!」
「「あいさー!」」
どこからともなく現れた黒服サングラスの男たちが、陣形などお構いなしに殺到してくる。
「咬ませ犬諸君、あ・り・が・と……さんっ!」
振りかぶったハンマーを横凪ぎに振り抜き、側近ズを雑魚キャラよろしく蹴散らす狛。
その隙を突いて突撃してくる側近ズ第二波は、ふらりと割って入った采の、メガホンを介して放たれる『砲喉』によって一人残らず吹き飛ばされた。
「メガホンなんていつ出したんだよ~?」
「さっき。ちょうどたぬきが叫んでた時」
狸が攻撃の準備をしているにも関わらず、のんびりお喋りを始める狛と采。
そのナメきった態度に、狸の怒りはさらにヒートアップする。
「ぜ……絶対に許さんぞぉおおおおお!」
最新の機能を駆使して創り出された多重魔法が唸りをあげ、巨大な拳の形となって二人に襲いかからんとする。
勝利の確信を得た狸は、勝ちどきの高笑いを掲げた。
「ふははは!見たか、この巨人の拳!潔くぺっちゃんこに潰れ…………え?」
高笑いの姿勢から視線を下げた狸は、あまりの驚愕に目を見開いた。
巨大な拳が、跡形もなく消えていたのだ。痕跡一つ残らず、まるで最初から存在しなかったとでも言うように。
何が起きたのか理解が追いつかない。
「Haiphone系、なんだかんだ言って防御だけは堅いんだよなー……。いつものでいく?」
「狛に任せる」
「じゃあいつもの、ふぉーめーしょんAで!」
「りょーかーい」
相談を終えた狛はハンマーを大きく振りかぶり……。
「みょるにるぅ……」
ぶん投げる。
「ふるぅ……」
高速で回転するハンマー;ミョルニルは、狸よりかなり高い位置を通り抜けていった。
しかし、たぬきも馬鹿ではなかった。
彼は、北欧神話におけるトールのハンマー、ミョルニルは、投擲されてもブーメランのように帰ってくることを知っていたのだ。
「甘いわぁ!」
叫んで回れ右し、迫ってくるミョルニルに一点集中型のバリアを張る。
「新型Haiphoneは伊達じゃないぃぃぃ!」
猛烈な加速を得たミョルニルが、一直線に強固なバリアへと突っ込み、火花散る魔力と魔力の力比べが始ま――らなかった。
「へ?」
驚き、再び。
ミョルニルが、バリア命中と同時にクラッカーのように弾け飛び、中から紙吹雪と白い紙が飛び出してきたのである。
紙には、ハ・ズ・レの三文字が。
そしてたぬきの背後に浮かぶ、本物のミョルニルを振り上げた狛の姿。
たぬきが振り向くよりも早く、ミョルニルが振り抜かれる。
「すいんぐぅううううっ!」
「技名まだ続いてたんぎゃああああああああああ!」
こうしてたぬきは星になった。
やっと街が静かになる。
「いぇーい♪ガラケーの大勝利!」
「見事に騙されてくれたなー。やっぱり金持ちのボンボンはダメだ」
瓦礫と残骸で溢れる街に、高々と鳴り響くハイタッチの音。
この戦いは以降、ただの私的な喧嘩が仮想空間をぶち壊しかけたという圧倒的かつ衝撃的な伝説として、この中学校に語り継がれるのである。
★
「あん時は、すっごかったよなーっ!」
「な」
「なー……じゃないでしょっ!」
ソファでくつろぐ二人に向かって、エプロン姿の少女、友野 氷粋は叱責を飛ばした。
「三人で謝りに行ったの、忘れた!? まったく、もう少し穏便に過ごしてくれないと、あたしも保護者としての立場ってもんが……」
「ひーちゃん。あれ、謝ってない」
采が相変わらず脱力感溢れる声で口を挟んだ。狛もうんうんと相槌を打つ。
「そーだぞねーちゃん。狸の方に非があったのがわかったら、ねーちゃんそりゃもう悪鬼のごとく……」
「そ、そうだっけ……」
慌てて視線を落とし、料理に集中しているふりをする氷粋。
そんな彼女を視界に入れつつ、采は読みかけの本を閉じた。
「あの時のひーちゃんはかなり怖かった」
「そ、そんなこと……」
「笑顔で胸ぐら掴んでた」
「あは、あははは……」
「しかも狸の親御さんの」
「忘れてっ!傷を抉らないでっ!」
涙を流して懇願する氷粋。きっとその原因は玉葱のみじん切り。
「ねーちゃん、晩御飯何ー?」
狛が、ぐでーっとソファからずり落ちながら問う。
「えっと、ハンバーグだよ。手伝ってくれる?」
「やだ」
「采、お願い。狛には最初から期待してないもーん」
その時、おもむろに立ち上がった采が、本を置いてキッチンまで行き、氷粋の額に手を当てた。
突然の触れ合いに、慌てた氷粋の頬が朱に染まる。
「あとはやるから、ひーちゃんは風呂入ってきて。風邪っぽいでしょ」
「ぇ……でも」
「えー、なんだよー。風邪気味なら言ってくれたら最初っからやったのにさー」
狛もひょいっと立ち上がると、手を洗って水をパッパッと払う。
「最初からやってあげればよかったんだけど、食材の管理はひーちゃんがやってるから、勝手にやっちゃいけないと思って」
そう言って采は、いつもの表情を崩さぬまま、氷粋の頭をぽんぽんと撫でる。
狛もきちんと腕捲りをして、お手伝いモードに入っている。
「そうだぞねーちゃん!早く風呂入って寝ろ!飯は代わりに食っといてやるから!」
それじゃ意味ないじゃん!とか思いながらも、采に背を押されて、氷粋は台所から締め出されてしまった。
仕方ないからお言葉に甘え、氷粋はお風呂の準備を始めた。
お風呂は一人の時間で、そういう時はどうしても昔を思い出してしまう。
戦災孤児であった氷粋は、過去に一度だけ起きた魔法戦争の終戦の年に生まれ、すぐに両親を亡くした。
当然両親の記憶などなく、一番古い記憶は孤児院で孤独に遊んでいる自分の姿だけである。
「だいぶ消えてきたかな……」
服を脱ぎ捨てながら、右のわき腹あたりに少し残った痣を見る。
これは、一番嫌な記憶の残り滓だ。
小学生時代は引き取り先で学費などを払ってもらい、親切にもされて割と幸せだった。
しかし中学入学後、金銭的な事情から引き取り先が変わり、状況は一変した。
そこでの度重なる虐待に耐えかねた氷粋は、家を逃げ出し、果ては裁判沙汰にまで発展してしまう。
面倒を見てくれる人をなくし、心と身体の傷も癒えぬまま、学力はあるのに中学を出ても路頭に迷うしかない、まさにそうなろうとしていた時だった。
式御架門・須磨、狛と采の両親が氷粋を絶望の淵から救いあげてくれた。
仕事でほとんど家にいない彼らの代わりに、氷粋から見て一つ学年が下の双子、狛と采の面倒を見ることを条件として、学費と居住まで約束してくれた。
「あの人たちには頭が上がらないよ……」
最初の一年は遠慮が邪魔をして、采たちと打ち解けることもできず、正月に帰って来た須磨に優しく怒られた。
世話係は世話を焼くのが仕事よ?と。
今ではちゃんと保護者として叱れるくらいにはなった。
二人と暮らす中でも虐待で受けたトラウマと精神的な傷は消えず、まだ根深く奥底にくすぶっている。
けれど、大概のことは、既に懐かしい話だと思えるようになった。
シャワーが心地よく肌をたたく。
悪い記憶や悩みが洗い流されていく気分だった。
そうして、自然と口元が綻ぶ。
「二人とも、成長したなぁ……」
彼らと一緒に過ごしてもう四年になるが、二人はいつの間にか大人になっていく。
背はちょうど半年前くらいに、狛にも采にも抜かされたばかりだ。
なんとなく、大きくなるのは背だけだと思っていたが、気づかないうちに中身まで成長していたのだと思い知らされる。
「大人、か……」
シャワーを浴びながら呟く氷粋。
水が、生まれつきの色素の薄い茶髪を滑らかに伝って落ちてゆく。
自分の見えない所で強くなっていく二人の姿を見るのは、頼もしくもあり、嬉しくもあり、そして少し寂しくもある。
シャワーを止め、湯船に浸かった氷粋は、さっき采に撫でられた部分の髪に触れた。
「あったかい……わけないか」
湯船の熱気にあてられてか、氷粋の頬が僅かに赤らんだ。
夕食と皿洗いを終えた氷粋は、明日やることに頭を巡らす。
土曜日だって意外と忙しい。買い出しに掃除、加えて、お弁当。
采は帰宅部だが、狛は魔法系の部活に入っているため、休日でもお弁当がいるのだ。
氷粋を含む三人が通う桜村前高校は普通の公立高校で、アニメみたいに「高校時代から学食」的なご都合主義は持ち合わせていない。
月曜日から土曜日まで、普通にお弁当だ。
専業主婦の大変さはこの四年間で死ぬほど体験してきたが、早起きだけはどうしても慣れるものではない。
「あ、ねーちゃんもう寝る?」
ぼんやりと手を拭いていた氷粋は、狛の声で我に返った。
「え?あ、うん。ちょっと風邪っぽいし、そうしようかな」
成長期でただでさえ起きにくいのに、おまけに風邪気味。早めに寝なければ起きられない。
金曜の夜くらいゆっくりしたいという名残惜しさもあるが、自分の我が儘と養ってもらっている恩義なら、天秤にかけるまでもなく、恩義を取る他ない。
我が儘を押し殺すのには慣れた。そもそも、我が儘を言っていいような立場にいたこともないが。
「あんね、風邪っぽいとこに頼むのも申し訳ないんだけど、デザート欲しいなーなんて」
「デザート?んー……フルーツでいいなら」
「おう!フルーツがいい!」
魔法も、使わなければ錆びつく。鈍らせないための軽い運動と考えれば、これくらいは何の苦でもない。
「わかった、いいよ」
氷粋は狛と、ついでにくっついてきた采を引き連れてベランダに出た。
たくさんの鉢植えから顔を出した小さな芽たちが、緩やかな夜風に細かく揺れている。
高層マンションの七階にあたるこの部屋は、ベランダから少し身を乗り出せば街の夜景を見下ろせる。最初は少し、この高さが怖かった
「今日は……葡萄にしよっか」
氷粋は自身のスマホのロックを解除すると『プラント栽培』というアプリを起動し、いくつかの操作を行った。
「ねーちゃん、葡萄の種なんてあったっけ?」
氷粋は画面から目を離さないまま、一つの鉢植えを指差す。
「フルーツは基本的にそこに植えてあるから、腐ってなければそれが使える……はず」
高校に入って初めて買ってもらったケータイを、大事にそうに、そっと鉢植えの上に立てかけた。土の香りが微かに舞い上がる。
氷粋は胸の前で指を絡めると、祈るような形で、スマホに魔力を送り込んだ。
アプリに打ち込んだ式を元に、氷粋が設定した基本OS『フレイヤ』の持つ特性『豊穣』をフルに引き出し――開花させる。
鉢植えの上に薄緑の光で『(☆ω☆)』という術式が浮かび上がり、その中央から葡萄の蔓が芽を出した。
蔓は成長過程を早送りするように、異常な速度でぐんぐん伸びる。
「きた!」
狛の嬉しそうな声に微笑し、氷粋はさらに魔力を送る。
そして一分も経たないうちに、艶やかで大きな葡萄が4房、垂れ下がってきた。
粒の一つ一つが水を弾きそうなほどに輝きを放っている。
四つともちぎり取った狛が、うち一粒を味見し、その弾けるような瑞々しさに幸せそうな表情になった。
「おしまい。ありがとね、フレイヤ」
氷粋がスマホを再び手に取り、魔法解除のボタンを押すと、伸びた蔓が虐再生されるように、一気に鉢植えへと吸い込まれて跡形もなく消滅した。
「ねーちゃんありがとう!美味い!」
「ひーちゃん、上出来」
部屋に戻った二人が一緒に食べようと呼んでいる。
夜風は相変わらず心地よい温度ですり抜けていく。
(幸せだな……)
絶望もしたし、死んでみようかと思ったこともあった。
今だって、いつこんな幸せな生活が崩れ落ちてしまうのかを心の奥底で常に怯えている。
それでも、こんな風に「ああそんなこともあったなぁ」とか言って笑える日が少しでもあるのなら。未来の先に、たった一瞬でもそう思える瞬間を望める内は。
「今日の葡萄の品種、何になってるー?」
「味は巨峰っぽい……?」
「にしては皮の渋みが薄い。ひーちゃんも食べてみて」
「そうだね、こんなにたくさんあるもんね」
そんな日のためだけに生きてみるのも悪くないかな、と氷粋は、葡萄を摘みながら思うのである。
★
同時刻、防衛省・魔科学課司令部。
「監視塔より川崎司令に入電!魔導防壁が何者かに攻撃を受けている模様!」
司令官の川崎は、妙だと感じた。
世界魔法連盟WMLに加盟している日本の魔導防壁を攻撃することは、連盟の協定に基づいて、連盟国全てを敵に回すことを意味する。
この時代にそんなおおそれたことをするなんて、一体どこの国の者なのだろうか、と。
なんとなく疑問を抱きつつも、この緊急事態に早急に対処すべく、川崎は部下に指示を飛ばした。
「竹内、座標の割り出しを急げ!」
「はいっ!」
「岩田!航空会社に連絡を入れろ!緊急回線を使って構わん!」
「了解です!」
「竹内!防衛魔導師を向かわせる!座標まだか!」
「司令!」
「どうした!」
返しに怒気をはらんでしまったことを気にしつつ、声のした方を見ると、連絡回線を確認しているはずの竹内という若い男が、その場に棒立ちしていた。顔が若干青ざめている。
早急な対処が必要な時に何をやっているのか、と、川崎の頭に一瞬で血が上る。
「竹内っ!何をやってるんだ!今は緊急事た……」
「司令、七十四・二%です」
川崎の言葉に被せるように、震える声で報告する竹内の目は、信じられないものを見たように見開かれ、額には目視できるほどに脂汗が噴き出している。
いつも冷静で有能な部下の、明らかに尋常ではない様子に、何かを感じ取った川崎が声をかけようとしたが、それは竹内の悲鳴に似た叫びで遮られた。
「現在、日本領海および領空魔導防壁表面積の内、実に七十四・二%を未確認生物に覆われてますッ……!」
一瞬で空気が凍り付く。
「た、竹内……?それは何の……」
そして川崎自身も、そこから先の言葉を紡ぐことはできなかった。
川崎のパソコンに転送されてきた座標データは、まるでコンピューターウイルスが増殖するように高速でその数を増やし、わずか数秒足らずで液晶を赤く染め上げてしまったのである。
川崎は司令官としての立場も忘れ、部下の制止の声も聴かず、ただひたすら建物の屋上へと走った。
独特な香りを含む都会の風をなぎ払い、空を見上げる。
「司令!防衛魔導師にはなんと……」
「竹内か。空を……空を見てみろ」
背後から、唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。
「黒いな……竹内」
「……はい。空、近いっスね……」
雲一つない夜空は、まるで黒いペンキを被ったかのようにわざとらしい黒で埋め尽くされていた。
今宵の空はいやに近く、星は欠片も見あたらなかった。
★
午前十時の休憩時間。紅茶を飲んで一息つく。
忙しい朝がようやく終わったという実感が、紅茶の温かさと一緒に胸のあたりに広がる。
「やっとお休みだーっ!」
両手を高々と天に突きだした氷粋は――洗濯機の甲高い呼び声で再び卓上に突っ伏した。
「空気読めよ洗濯機」
「ひーちゃん、口調怖い」
「うわぁああっ!?采っ!?さっき出かけなかった!?」
洗面所からひょっこり顔を出す采。
完全に不意打ちだった。
「出たのは狛。さっき行ったのはゴミ捨て。今日はなんもないし、ただの暇人」
脱力感に満ちた声で言いながら、采は洗濯物で溢れかえったカゴをベランダに運ぶ。
少し寝癖の残った黒髪が、なんだか可愛らしい。
そんな采のポケットから垂れ下がる、小さな剣のキーホルダーをぼーっと見つめていた氷粋は、ふと前々から聞いてみたかったことを思い出した。
「ねぇ采……ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「ん、何?」
「狛もそうなんだけど、なんで頑なにガラケーなの?スマホにしないの?」
ずっと疑問に思っていたことだった。
つい最近まで料金の問題だと思い込んでいたため、新しい機種を使っている自分がなんとなく申し訳なくって、聞くに聞けないでいたのだ。
しかし、この前今より安い料金プランを見せたとき、料金の問題ではなく、単純に使いたいからガラケーを使っているのだと言って、二人に断られたのだった。
それまで少し負い目に感じていた氷粋としては、その理由を詳しく聞いてみたかったのである。
ベランダで洗濯物を干している采は、その表情に珍しく微笑を浮かべ、ハンガーを一つ手に取った。
「じゃあ一つ、たとえ話をしよっか。 野球の試合をするとして、誰にでも使い易いと評判の新しい金属バットと、長い間愛用して使い慣れた木製バット。大事な場面で、ひーちゃんはどっちを使う?」
「大事な場面なら……やっぱり愛用品かな……」
采は頷くと、ポケットからケータイを取り出す。
「ガラケーはそういう類のものだから。 使い易さで言えばスマホに劣るけど、術式の打ち込み速度なら負けない。あとスマホよりも正式な魔法に近い分、術者の体や魔力にマッチすることが多い」
「ふぅん……っぐふ!?」
わかったようなわからないようなで、のんびり紅茶を啜っていた氷粋は、危うくそれを吹き出しかけた。
采が流れ作業の中で無意識に手に取ったのが、たまたま氷粋の下着だったのである。
采自身は気づいていないのか気にしていないのかわからないが、当の本人である氷粋は慌てた。
(うわぁあああああっ!!いつも干すのあたしだからって油断してた!顔熱いっ!湯気出るっ!)
彼が氷粋の下着を持っていることにも、それを見て必要以上に慌てていることにも、今ここで采に気づかれるのはかなり困る。
なんというか、年頃の女子的に。加えて言うなら、恋する乙女心的に。
無理矢理でもなんでもいい、とにかく話で意識をそらさなければ。
「ね、ねぇ……采はなんで部活やんないの?やりたい部活とかあったでしょ?」
俯く氷粋は、紅茶の入ったマグカップを手の中で小刻みに揺らしながら、半ば上の空で聞いた。
だから、采が少し動揺して洗濯物を一〜二枚取り落としたことには気がつかなかった。
「別に……わざわざ休日を潰して行くような部活が見あたらなかっただけ。ひーちゃんこそ……」
「あたしは休日はゆっくり休みたい人なのーっ!」
少しぬるくなった紅茶を一気に飲み干し、氷粋も駆け足で洗濯物干しに加勢する。
残った自分の下着はさりげなく回収し、自分で干す。
しばらく無言で黙々と干していた二人だったが、不意に氷粋が微笑んだ。
「わかってるよ。采はあたしに気を使ってくれてるんだよね」
いつも冷静沈着な采が、慌てすぎて洗濯ばさみを取り落とすのがおかしくて、もっと笑顔が綻ぶ。
「狛がいない分、休日くらいはって手伝ってくれようとしてることも、あたしが独りが苦手なことに気を使ってくれてるのも、ちゃんとわかってる。ありがとね、采」
采は明後日の方向に目をそらし、少しだけむくれた。
「ひーちゃんのためなのは半分だけ」
「えー?じゃあ後の半分は狛?」
「多分」
「多分って何よ多分って」
こうやってじゃれ合う時間は、理屈抜きに、幸せ以外の何ものでもない。
「んーっ、今日も空が青いね!」
「ん」
いつまでも続いて欲しい時間。
それがどちらにとってなのかは……。
★
防衛省魔科学課司令部長官、川崎 裕之介は空を見上げ、思わず呟いた。
「青いな……」
「青いっスね」
背後で同じように上を見上げる、部下の竹内 司が応える。昨日と同じ場所で。
「晴天だな」
川崎が疲れたように呟き、
「晴天っスね」
竹内が呆然と返す。昨日と同じように。
二人はやり切れない気持ちをため息で多少なりとも吐き出し、屋上から出る階段を下った。
「で、どうだったんだ?魔法壁の損傷率と復旧の目処は?」
「損傷率は平均45%ほどです。今奴らが来たらおしまいですね……。復旧の方は、今夜の10時までに86%くらいまでは回復する予定だそうです」
「そうか……」
川崎は再びため息をついた。
昨日、魔法壁に猛攻撃を仕掛けた未確認生物たちは、午前三時くらいになると、日の出と共に一匹残らずどこかへ消えてしまった。
彼らの正体も、目的も、容姿すらも、何一つ観測できなかったのだ。
危険性を考慮すると、防衛魔導師の出動要請を出すのすら、現段階では難しい。
(まだ世間に公開すべきではない……か。今日中に上の奴らが対策を出してくれればいいが……)
正直言って、その望みは薄い。
日本の政府が緊急事態に極端に弱いことは、歴史が証言している。
(奴らからのダメージが今の規模のままで留まってくれる保証など、どこにもないというのに……)
ガンガンと足が鉄製の階段を叩く音が、鼓膜に鈍く突き刺さって、川崎の思考を妨害する。
このままでは、ほとんど何の対策も打てぬまま夜の到来を待つことになってしまう。
もし今夜、昨夜以上の力を引き連れて奴らが現れたとしたら、最悪の場合、今夜中にでも……。
「司令、調査団は何か成果を?」
自分ほど危機感を抱いていないらしい竹内に、川崎は内心感謝していた。
前向きな姿勢を捨てることなく話を交わしてくれる存在が近くにいなければ、自分はとうに折れていただろう、と。
「日本海付近で、カマキリの鎌のような真っ黒な物体が見つかった。サイズは三十倍だがな」
それを聞いた竹内は少しの間考え込み、
「運が良ければ……」
と呟いた。
「どうした?何かあるのか?」
川崎の問いに、竹内は慌てて首を横に振る。
「いえ、一般人には秘密ですもんね。すみません、忘れて下さい」
チラッと頭をよぎった発想は、そもそもの絶対条件を満たしていなかったのである。
しかし川崎は、なぜかそれを拒んだ。
「いい。竹内、手立てがあるなら話せ。責任は俺が取る。何かあるなら言ってくれ」
政府の無能さを笠に着て、何もせずに攻められるのを待つだけでは、防衛省の存在意義など無いも同然。
自分まで上層のぬるま湯につかる気はさらさらない。
川崎は、そういうタイプの人間であった。
「し、しかし……」
話そうか話すまいか迷っていた竹内は、川崎の瞳に映る決意の色を見て、ついに頷いた。
上司として以上に人として、信用と尊敬に足る人物が、そこにはいた。
「司令は『知識屋』をご存知ですか?」
政治に関わる人間が、民衆にとって有能であることは少ない。
それは歴史が証言している。
だが、いるところにはいるのである。
★
インターホンの音が壁越しに響き、しばらくしてドアが開く。
「いらっしゃい。待ってましたよ、采くん。氷粋ちゃんも」
ドアからひょこっと顔を出した、亜麻色の髪の綺麗な女性が、にっこりと微笑んだ。
「こんにちは、社さん」
「どうも」
706号室の住人、宮間 社。
柔らかい雰囲気を纏った素敵な女性で、背は氷粋と同じくらい。
今年で二十三になるらしいが、色白でかなり幼く見える。
采たちの部屋は707号室で、社はお隣さんにあたる。
「今日は狛くん、いないんですか?」
二人を中に招き入れながら、社が聞いた。
「午後二時だから、ええと……うん、今頃学校で彼女とイチャイチャしてると思います」
「あ、いいですね。今度彼女を紹介してくれるよう、お願いしてみようかしら。 ちなみに、そういう氷粋ちゃんは家で采くんとイチャイチャですか?」
「ちょ、にゃにょ……っ!」
「うふふ♪言葉になっていませんよ?」
赤面する氷粋たちにイタズラっぽく笑いかけ、後ろ手に鍵を閉める社。
部屋の中はアロマの淡い香りが漂っていた。
「ごめんなさい、いつも通り散らかっていますが」
すまなさそうに言う社だが、采は首を横に振った。
「これは散らかってるって言わないよ、社さん」
部屋の中には、大量という言葉では足りないほどの数の本があったが、全てきっちりと整列している。
「ああ、いえ、順番が散らかっているんです。並び替えして遊んでいたので」
そう言って髪を束ねながら、社はしなやかな苦笑を浮かべた。口にくわえているヘアゴムがなんとも愛らしい。
実は、彼女に手を出そうとする人はあんまりいない。
あまり人前に出ないのもあるが、いちいち仕草や表情が優美過ぎて、手を出すのが憚られるというのが主な理由だ。
「さて、早速お茶にしましょう」
歌うように言って、紅茶を注ぐ社。細い指先がガラスのポットによく似合う。
氷粋たちは勧められるままに椅子に腰掛けた。
「それにしても珍しいですね、社さんがお茶会に誘ってくれるなんて」
まだ緊張がほぐれないでいる氷粋は、喋りながらも少し俯き気味だ。
「今日は美味しいアップルパイが焼けたので……」
社がそう言った瞬間、急に采が小さくガッツポーズした。
「ひーちゃん、社さんのアップルパイは、天と地がひっくり返る」
「そ、そんなに?食べたこと無い……」
社は恥ずかしそうにはにかんで、フォークを配る。
「采くんの誕生日に、一度だけプレゼントしたことがあるんです。その日のパイがたまたま会心の出来だったので……」
ゴトッとテーブルの上に置かれたアップルパイは、大きく、これ以上ないほど黄金色に輝いていた。
円形のパイをきれいに切り分ける。
包丁がパイ生地の間をさっくりと切り進み、何の抵抗もなくストンと一番下まで下りた。
「どうぞ召し上がれ」
手渡されただけであたりに広がる、焼いたリンゴ特有の香りに食欲を刺激され、氷粋は無意識にフォークを手に取っていた。
尖った部分から二等辺三角形を作るようにフォークを通す。生地が軽いのに、なぜか形が全然崩れない。
「……いただきます」
余計な唾を飲み込み、パイを思い切って口に運ぶ。
たったの一噛みで、氷粋は、采の言っていたことを理解した。
サクサクの生地は仄かな甘みを有し、適度な酸味を残した炊きリンゴを絶妙に引き立てる。
雑味など欠片もなく、洗練された甘味と酸味のバランス。
そして何よりもすごいのが、生地の食感だった。
サクサクしているのに、噛み切る部分がどこにも無いのだ。
木の葉のように積み重なったパイ生地を噛みしめていくと、一瞬前までサクサクを味わっていたはずなのに、いつの間にかしっとりに変わっている。
何度やっても、その境界を見つけられない。
そうして、いつの間にか無くなってしまった皿の上のパイに、ある種の切なさを覚えるのである。
これが、全く同じやり方で何十回と繰り返す中に、ごく稀に生まれる、魔法のような、魔法では出せない美味しさであった。
「どうですか?美味しかったですか?って……氷粋ちゃん?」
「ぅくっ……くすん……美味しい、です……っ!」
気づくと、氷粋の目は勝手に涙を流していた。
上唇のあたりに感動とも悲哀とも知れない何かがこみ上げてきて、それが目から溢れ出す。
震える声で、氷粋は懇願した。
「や、社さん……もう一かけ、もう一かけだけもらえないでしょうか……」
驚いた社は、しかし嬉しそうににっこり笑った。
「もちろん!あなたを呼んで正解でしたね♪」
アップルパイは、まだ半分以上残っている。
何せティータイムは始まったばかりなのだから。
★
お茶会は片付けまで滞りなく終了した。
ひどく感動したらしい氷粋は、社のちょっとしたお願いをすんなりと聞き入れてくれた。
氷粋の潤んでキラキラした瞳が脳裏に浮かび、嬉しくなってクスリと笑みが零れる。
「さ、お仕事お仕事」
独りきりの静まり返った部屋で、社の細い指が黒電話のダイヤルをカラカラと回す。
おやつ時の優しい日差しを眺めながら、受話器を耳に当てる、その表情はなんだかとても楽しそうだった。
「もしもし?宮間です。今からお伺いしてもよろしくですか? ……そうですね、二十分くらいいただければ。 ええ、わかってます、六時までには結果が出ると思います」
電話の相手は焦っているようだったが、社の対応はいたって優雅で、とても落ち着いたものだった。
左手で黒いコードを弄びながら、社は時計をちらりと確認する。
「お願いしておいたものの方は大丈夫ですか? ……そうですね、できると思います。 あ、そうだ。三人ほど連れがいますが、構いませんよね?そうです。必要です」
社は傍らのメモ用紙に何かを書き込み、それをちぎり取った。
片手だけで器用に四つ折りし、ポケットに入れる。
「はい……はい。では、また後ほど。失礼します」
丁寧に受話器を置いて、一旦切るが、しかしすぐにまた持ち上げた。
今度は別の番号にダイヤルする。
「殿本さん、お出かけするので、お願いします」
わかりました、という返事だけが聞こえ、すぐに電話が切れた。
受話器を置いて、一つ伸びをする。
「んー……っと。今日も楽しい物語に出会えますように」
紺色のカーディガンを羽織り、肩からポーチを下げると、玄関に向かう社。
携帯電話を持たず、本を愛し、魔法陣を描いて魔法を使う変わり者。
知識欲の人、若い古典的魔女は、今日も新たな知識を求めて、物語を読み解く――。