「転校する君に、片想いのままなんて無理でした」
教室の隅っこ。
窓側の席から見える空は、もう夏の色に近づいていた。
「ねえ、真奈。知ってた? 祐樹くん、転校するんだって」
隣の席の奈々(なな)が、そんなことを言ったのは、6月のはじめのこと。
机に肘をついて、スマホをいじりながら、さらっと流すみたいに。
「……え?」
私は思わず聞き返していた。
聞き返すほどの関係でもないのに、口が勝手に動いた。
奈々は少し驚いた顔をして、でもすぐに笑った。
「なんか、お父さんの仕事の都合だって。あと2ヶ月くらいで引っ越すってさ。
……って、もしかして真奈、祐樹くんのこと好き?」
「そ、そんなことないよ!」
思わず声が裏返った。
何でもないふりをしたかったのに、どう考えても“何でもある”反応だった。
奈々がにやっと笑う。
「へぇ〜?」
その顔がちょっとむかついて、私は視線を逸らす。
窓の外では、まだ青いアジサイが風に揺れていた。
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そこからだった。
——彼を目で追うようになったのは。
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それまでは、「同じクラスの男子のひとり」だったはずなのに。
話したことなんて、たぶん一年間で三回くらい。
席は近いけど、授業中はいつも静かで、本を読んでいるか、ノートに何かを書いている。
そんな祐樹くんを、私はずっと「関係ない人」として見ていた。
だけど——「あと二ヶ月で転校する」って知ってから、突然、目が離せなくなった。
朝、教室に入ってくるタイミング。
黒板の前で、担任に何か話している横顔。
机の上に置いてある、名前も知らない小説。
全部、全部、急に意味を持ち始めた。
声をかけたい。
でも、何を話せばいいかわからない。
休み時間。席を立った祐樹くんとすれ違っただけで、心臓が跳ねた。
奈々が「真奈、見すぎ」と小声で笑ってくるたびに、耳まで熱くなる。
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そんなある日。修学旅行の班決めが行われた。
教室は、なんだかいつもよりざわついている。班は五人。男女混合可。自由に決めていいということになり、みんなあちこちで声をかけ合っていた。
「真奈、一緒に回ろ! あ、でも私、他に声かけられてるとこもあって……うーん、どうしよ」
奈々は私の机にかがみ込んで、スマホを見ながら言った。どうやら数人と話が進みかけているらしい。
「いいよ、無理しなくて」
そう言ったけど、心のどこかで、少し不安になっていた。誰と組むか、考えていなかったから。
「じゃあさ、祐樹くんとか誘ってみたら?」
「……え?」
「だって同じ班になったら、話すチャンスもあるでしょ?」
奈々はイタズラっぽく笑って、ちょんと私の肩をつついた。冗談みたいに言っているけど、私が戸惑っているのをちゃんと見抜いてる。
「それに、静かだからって避けてたら、永遠に話せないよ?」
——奈々の言う通りだ。
迷っているうちに、先生が「まだ班が決まっていない人は声をかけ合って」と言い出す。クラスのあちこちで、立ち上がる人が増えてきた。
私は、机の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
そして、祐樹くんの席をちらっと見る。彼はまだ誰とも組んでいない様子で、手帳のようなものを開いて、静かにページをめくっていた。
「……行ってくる」
「おお、がんばれ!」
奈々の笑い声が背中を押した。
私はゆっくりと立ち上がり、彼の席へと向かう。心臓の音がうるさい。
「あの……祐樹くん、班……決まってないよね?」
彼が顔を上げた。
目が合う。思っていたよりも、まっすぐな瞳。
「……うん。まだ」
「よかったら、私と——じゃなくて、私たちと、同じ班にならない?」
少し慌てて言い直す。私と、奈々と、あと二人はなんとかなる気がした。とにかく、一緒になりたかった。
祐樹くんは、少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「……うん、いいよ」
その返事に、胸がじんわりと熱くなった。
それから数日かけて班が確定し、修学旅行の準備が始まった。行き先は京都と奈良。お寺巡りや自由行動、班ごとのプラン作成——やることはたくさんあったけど、全部が楽しみになった。
「せっかくだし、班でお化け屋敷入ろうよ〜!」
「え、私ちょっとムリ……」
「祐樹くんはいける?」
「……たぶん」
打ち合わせのたびに、彼と話す機会が増えていく。
奈々がさりげなく話題を振ってくれることもあって、祐樹くんは思っていたよりも、ちゃんと受け答えしてくれる人だった。
修学旅行の前日。配られたしおりに、班別のスケジュールを書き込んで、持ち物をチェックして、明日の集合時間を確認する。
ドキドキと、そわそわが止まらない。
——明日、もっと近づけたらいいのに。
そう思いながら、私はカバンにしおりをしまった。
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朝早く、学校の体育館には教室よりも少しだけざわついた声が響いていた。
普段は静かな私も、今日は胸の高鳴りを押さえきれない。
「おはよう、真奈!」
「おはよう、みんな!」
奈々が笑顔で近づいてきて、私も自然と笑顔を返す。班のメンバーが集まり、ワイワイと荷物の確認をしている。
「今日は楽しもうね!」
「おー!」
そんな元気な声に包まれて、私は緊張を忘れようと努めた。
ほどなくして、体育館での集合時間を迎え、全校生徒でバスに乗り込む。窓の外には、まだ薄明るい朝の空が広がっている。
バスの中では、ゲームが始まった。
班ごとに座り、新幹線の席も決まっているけれど、まだ時間はたっぷりある。
「ねえ、トランプある?」
「あるよ!」
奈々がバッグからトランプを取り出し、カードゲームが始まる。
「ジョーカーを引いたら、罰ゲームね」
「うわ、それ怖い!」
笑い声が弾け、私は自然と笑顔になった。祐樹くんは、隣の席に静かに座っている。あまり話さないけれど、時々ふっと笑うのが見える。
途中、お菓子の袋が回ってきた。ポテトチップス、チョコレート、グミ。みんなで少しずつ分け合いながら、気づくと車内の空気がぐっと和やかになっていた。
「真奈、これ食べてみて」
奈々が甘いグミを差し出す。
私は頷いて受け取った。
新幹線の窓の外には、流れるように田園風景が広がっていく。
旅の始まりを感じさせる景色。
私はふと隣の祐樹くんを見る。イヤホンを外し、小さな声で言った。
「カードゲーム、楽しい?」
祐樹くんは目を細めて、うなずいた。
「うん、みんなが楽しそうだから」
その言葉が、心にじんわり染みた。
そんなふうにして、新幹線は奈良へと向かっていった。
---
奈良の駅からバスで揺られて、みんなで大きな公園に降り立った。
青空が広がり、風が心地よく緑の葉を揺らしている。
「見て見て!お弁当、すごくない?」
奈々が蓋をぱかっと開けると、中には彩り豊かなおかずが並んでいて、思わずみんなの声が弾んだ。
班のメンバーもそれぞれのお弁当を見せ合いっこしながら、にぎやかに食べ始める。
私はそっとおにぎりをつまみ、ひと口かじった。
そのとき、誰かの視線を感じてふと横を見ると、祐樹くんが静かにこちらを見ていた。
少し離れた木陰のベンチに座っているのに、まるで気づいていたかのように。
「ねえ、真奈。何かついてるよ」
声は低くて静かだった。
「ん?」
返事をした瞬間、彼が手を伸ばしてきて、私の口元をそっと指先で触れた。
はっとして、思わず目を見開く。
そこには、知らずについていた小さな白いお米の粒。
「あ、ぁあ……ありがとう」
言おうとして、声が震えてしまった。
まごつきながら、口を開けて言葉を探すけれど、うまく出てこない。
「ご、ごめん、なんか……恥ずかしくて……」
慌てて顔を背けると、少しだけ笑みを浮かべた祐樹くんが、そっと一歩下がった。
「気にしなくていいよ」
その一言に、心臓が跳ねた。
あたりは再び賑やかな笑い声と話し声に包まれ、奈々が手を振って呼んでいる。
「さあ、食べよ!」
私は深呼吸して、ゆっくりと口元を拭いながら、改めてお弁当へと向き直った。
でも、心のどこかで祐樹くんのやさしさが、ずっと残っていた。
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お弁当を食べ終わると、班のみんなは少しずつ話題を変え始めた。
「ねえねえ、午後はどこから行く?」
「私はやっぱり東大寺に行きたいな!」
「じゃあ、鹿せんべい買いに行こうよ!」
「わあ、それ楽しそう!」
奈々が楽しそうに声をあげ、私たちの班はまた賑やかになった。
祐樹くんは相変わらず静かで、あまり話さないけれど、時折ふっと笑う顔が見られた。
そんな彼の横顔を見つめていると、自然と心が落ち着くのに気づいた。
「そういえば、真奈、明日の班別自由行動の予定は?」
奈々が振ってきて、少しドキッとする。
「まだ考えてない。みんなで話し合わなきゃね」
「うん、夜の旅館で作戦会議しようよ」
その言葉にみんなが賛成し、笑顔でうなずいた。
午後の観光へと歩き出すと、初夏の陽射しが少しずつ強くなってきた。
私たちは鹿と戯れながら、次の目的地へと向かっていく。
祐樹くんがふと、「気をつけてね」と私の肩に軽く触れた瞬間、胸が熱くなるのを感じた。
その小さな優しさに、私はまた少しだけ強くなれた気がした。
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夕食を終え、旅館の廊下には静かな空気が漂っていた。
男の子と女の子は別々の部屋に分かれ、私は奈々と一緒に布団に入っていたが、心はまったく落ち着かなかった。
「ねえ、真奈……」
奈々が小さな声で囁く。
「祐樹くんの部屋、ちょっと見に行かない?」
私は一瞬戸惑った。
「え? なんで急に?」
「だって、今日ぜんぜん話せなかったし、何か言いたいことがあるんじゃないかって思って」
その言葉に、胸がドキドキして、逃げ出したい気持ちと反対に、行きたい気持ちが混ざった。
「……うん、行こう」
二人で静かに部屋を出て、廊下へと足を踏み出す。
暗い廊下は月明かりと廊下灯がぼんやりと照らし、影が長く伸びていた。
話さずに歩く二人の距離は近く、私の心臓の音だけがやけに大きく聞こえた。
「真奈、緊張してる?」
奈々が小さく笑いかける。
「うん……でも、行かないと後悔しそうで」
祐樹の部屋の前に来ると、私は震える手でそっとノックしようとした。
その瞬間——
「おい、そこの君たち!」
急に先生の声が響いた。
「こんな時間に廊下をうろうろするんじゃない!」
慌てて振り返ると、先生が真っ直ぐにこちらを見つめている。
「す、すみません!」
私たちは息を飲み、慌てて部屋へと走り出した。
心臓が破裂しそうなほどドキドキして、頭の中が真っ白になった。
部屋の扉を閉めて、二人とも息を切らせて座り込んだ。
「はあ……はあ……」
奈々が苦笑いしながら言った。
「こんなことになるなんてね」
「うん……でも、やっぱり行きたかった」
私は窓の外の夜空を見上げ、遠くの山の影をぼんやり眺めた。
「祐樹くんも、同じ空を見てるかな」
静かな夜に、私の小さな想いが静かに広がっていく気がした。
---
最終日、クラスのみんなで訪れたテーマパーク。
午前中はグループごとに自由行動で、私たちは絶叫系や食べ歩きを楽しんで、笑い疲れるくらい笑った。
そして午後。
一番の目玉(?)と言われていた「お化け屋敷」へ、祐樹くん、奈々、私の三人で入ることになった。
「やっぱりこれ、めっちゃ怖いって噂だよ……」
「真奈、叫ばないでよ?鼓膜やられる」
奈々がふざけて笑うけど、正直、心臓の音がもうお化け屋敷級。
中に入ると、薄暗い廊下に、ひんやりとした空気。
かすかに聞こえる音楽と、時折響く「キャー!」の悲鳴。
「うわ、なんか出た!?今の人形!?本物!?」
「奈々落ち着いて……」
祐樹くんの声も、さすがに少し緊張していた。
前が暗くて、足元もよく見えない。
私は祐樹くんの少し後ろを歩きながら、手に汗をにぎっていた。
──その時。
「ひゃああああああ!!」
何かが目の前にばっと飛び出してきた瞬間、私は思わず叫んで、逃げるように前へ走って──
「わっ……!」
足が何かに引っかかって、ぐらりとバランスを崩した。
そのまま、目の前にいた祐樹くんに――思いっきり抱きついてしまった。
「ご、ごめ……っ!?」
急いで離れようとした瞬間、激痛が走った。
「いった……!足……!」
崩れるようにしゃがみこんだ私は、思わず声を詰まらせる。
片足がつってしまったのか、引きつるような痛みに耐えきれなくて、涙がにじんだ。
「真奈、大丈夫……? 足、痛めた?」
祐樹くんがしゃがみ込んで、私の顔をのぞき込んだ。
その目は、すごく真剣で、優しかった。
私は黙ってうなずくしかできなかった。
みっともないし、恥ずかしいし、何より自分が情けなかった。
すると祐樹くんは、ふっと息を吐いて、立ち上がった。
「おいで。おんぶするから」
「えっ……!?」
思わず目を見開いたけれど、彼はもう背中を向けてしゃがんでいた。
迷っている私を振り返って、「無理しないで」と静かに言った。
私はそっと手をのばし、彼の背中に体を預けた。
ぎゅっと肩にしがみつくと、祐樹くんの体温が伝わってきて、顔が一気に熱くなる。
「……ありがとう」
声が震えて、かすれた。
ちゃんと言えたか自信がなかったけど、祐樹くんは「うん」とだけ、短く答えて歩き出した。
闇の中を、彼の背中に支えられながら進む。
お化け屋敷なのに、不思議と怖くなかった。
むしろ、心臓がどんどん早くなるのは、彼のせいだった。
---
「……やばい。カゴ、重っ……」
私はお土産売り場の片隅で立ち尽くしていた。
気づけば手にしたカゴはパンパン。ご当地限定のお菓子に、ゆるキャラのストラップ、友達へのバラまき用のお守りキーホルダー……。並べられているもの全部が、どこか“思い出”に見えて、つい手が伸びてしまっていた。
「えっ、真奈!? ちょっと、これ全部買うの?」
後ろから奈々がカゴをのぞきこんで、目をまん丸にする。
「え、うん……そのつもり、だったけど……やっぱ多い?」
「多いどころじゃないって!これ、修学旅行っていうより引っ越しの荷造りだよ!?しかもさっき『高いな』って言ってたのにー!」
「う、うん……でもこれ、祐樹くんが好きそうなクッキーあって……つい……」
「おおおおい、祐樹フィルターかかりすぎ!笑」
奈々が笑いながら私の肩をポンポン叩く。
でも確かに、自分でもちょっと買いすぎたなって思ってきた。レジの前で財布を握りしめる想像をしただけで、軽く胃がキュッとなる。
「……あの、真奈?」
後ろから声がして振り返ると、ちょうど祐樹くんがいて、こっちのカゴを見て目を見開いていた。
「これ、全部買うの?」
「っ……! い、いや、えっと、そんなことない、よ?」
「……今、買うつもりだったよね」
「……は、はい」
観念して頷くと、祐樹くんはちょっとだけ吹き出した。
「買いすぎ。絶対持ちきれないし、絶対食べきれないよ」
「うぅ……でも、せっかくだし、思い出に……」
祐樹くんはしばらく無言でカゴの中を見て、ある小さなクマ型のクッキー缶を手に取った。
「じゃあ、これだけは一緒に買って。……俺も、ほしかった」
「……えっ?」
「さっき見てたの、これ。おそろいになるなって思ってたけど、見つかったか」
ふっと笑うその顔に、胸がドクンと高鳴る。
「じゃ、あとは必要な分だけ残して、半分くらいは返却コーナーに戻してこ。な?」
「……う、うんっ」
なんだか買いすぎを注意されてるのに、それさえ優しくて、嬉しくて、
私はちょっと赤くなった頬を隠すように、慌てて商品棚に向かって歩き出した。
---
「はい、みんなー!もっと詰めて詰めて!カメラこっちだよー!」
先生の大きな声が響く中、私たちは東大寺の大仏殿を背に、ぞろぞろと並んでいった。
青空の下、大きな屋根が広がっていて、ずっと見上げていたくなる景色。
「真奈、もうちょっと右。……そうそう。祐樹、そのままー!」
「はいはーい!」
奈々に引っ張られながら、私は祐樹くんの隣に立つことになった。
ドキドキしてるのがバレそうで、自然な顔を保つのが大変。
「はいっ、いくよー!3、2、1――」
カシャッ。
「もう一枚いくよー!変顔でもピースでもいいよー!3、2、1――」
「――わっ、鹿っ!?うしろ!うしろ!」
「ぎゃー!!せんべい持ってたー!!」
誰かが叫んだ直後、わちゃわちゃと笑い声が広がる。
その空気に混じって、祐樹くんが小さく笑った。
「なんか、最後まで騒がしいよな、うちらの班」
「……うん。でも、楽しかったね」
私がそう言うと、祐樹くんはちょっとだけ、照れくさそうに目を細めた。
「また、こういうの……あったらいいな」
「……うん。私も、そう思う」
その瞬間、ちょうど最後のシャッター音が響いた。
きっとこの写真、私にとって一生忘れられない一枚になる。
笑顔と、あったかい気持ちと、ちょっとだけ切なさと――全部が詰まった、修学旅行の終わり。
---
「ちょ、見てこれ〜!お化け屋敷のときの動画まだある!」
「えー!?やめてってば!消してよ〜!」
休み時間の教室。
教卓のまわりには数人がスマホを囲んで、動画を見ながら爆笑していた。
あの日のテンションがそのまま、教室に流れ込んでるみたい。
「うわ、これ私の絶叫!?ちょっと、声枯れてるんだけど!」
「お前、真奈に抱きついたとこ撮れてんじゃん祐樹〜!ニヤニヤしてんぞおい〜!」
「う、うるさいな……!べつに、あれはその、びっくりしてただけで……!」
顔を赤くしながら目を逸らす祐樹くんに、周囲からわっと笑い声が上がる。
私はといえば、自分の席でノートを開いたまま、耳まで真っ赤だった。
(ま、またからかわれてる……)
奈々がニヤニヤしながら私の肩をつつく。
「真奈、昨日もその話されたんでしょ〜?」
「うう……みんな忘れてくれたらいいのに……」
「まあまあ、しばらくは無理だよ。クラス全員で見たんだから、あの名シーン」
「名シーンって何……」
けれど、どこか嫌じゃなかった。
みんなが笑ってて、わいわいしてて、まるでまだ修学旅行が続いてるみたい。
「……なあ、次は文化祭か?」
「うん。準備、いつからだっけ?」
「お化け屋敷やるなら、もう一回入るか?祐樹」
「やだよ……あれ、ほんと怖かったんだからな」
教室の窓の外では、夏の終わりのような光が揺れていた。
日常が戻ってきたようで、でもちょっとだけ、特別な何かが残っている。
修学旅行で深まった距離感も、変わらずそこにある気がして、私はそっと笑った。
---
「じゃあ、また明日〜!」
「部活がんばってね〜!」
廊下に響く声と、ドタバタとした足音。
教室の扉が閉まり、だんだんと静かになっていく。
私は、まだ机に向かっていた。プリントをまとめて、ペンをペンケースにしまって。
荷物をゆっくり鞄に入れていると、教室の後ろの窓際に立つ人影に気づいた。
「あ……祐樹くん?」
「……あ、うん。真奈、まだ残ってたんだ」
「うん、ちょっとノートまとめてて……」
祐樹くんは、気まずそうに頭をかきながら、私の近くまでやってきた。
「……その、さ」
「……?」
「修学旅行のこと……ありがとな」
急に言われて、胸がきゅっとなる。
「な、なんで?」
「いろいろ。お菓子分けてくれたし、お弁当のときも……それに」
少し視線を逸らしながら、彼が続ける。
「お化け屋敷のとき、驚いたけど……あの、真奈が俺の背中にしがみついたとき、なんか、守らなきゃって思って……」
「……!」
「そしたら今度は足痛いって泣くし、びっくりしてさ。けど……ちょっと、嬉しかった」
祐樹くんの声は、照れ隠しのように早口になっていく。
「べ、別に変な意味じゃなくて!でも、なんか、ちゃんと覚えてたっていうか……」
「……うん。わたしも」
私はそっと笑って、頷いた。
「祐樹くんが、おんぶしてくれて、すっごく安心した。ありがとう」
「そ、そっか……」
二人の間に流れる、あったかい沈黙。
教室の窓から、夕陽が差し込んで、祐樹くんの髪の輪郭を金色に縁取っていた。
「……また、どっか行けたらいいな」
祐樹くんが、ふとつぶやく。
「え?」
「修学旅行、楽しかったからさ。今度は、クラス行事とかじゃなくて……もっと自由な感じで」
「……!」
頬が熱くなるのを感じながら、私は目を伏せた。
だけど──小さく、うなずいた。
「……うん、行きたい。楽しみにしてる」
またひとつ、「思い出」ができた。
けれどそれは、もう思い出にするにはもったいないくらいの、ちょっと未来の話の始まりだった。
---
夏の夕方。放課後の体育館裏には、セミの声と、湿った風が静かに吹いていた。
「……来てくれて、ありがとう」
真奈は、制服の裾をぎゅっと握りしめたまま、うつむいていた。
目の前には、数日前にLINEを交換したばかりの祐樹。
いつもの穏やかな表情で、黙って彼女の言葉を待っている。
「……修学旅行のとき、助けてくれたこととか、全部……ずっと、嬉しかったです」
勇気をふりしぼって顔を上げた。
でも、目が合った瞬間、心臓が爆発しそうになって――
「だ、だからっ、私……!」
そこまで言ったところで、顔が熱すぎて言葉が続かなかった。
「無理無理無理無理……!!!」と心の中で叫びながら、真奈はその場から走り出そうとした。
だが――
「待って、真奈!」
後ろから、あたたかくて大きな手が、彼女の手首を優しくつかんだ。
「走って逃げるの、なし。俺の気持ち、聞かせて?」
祐樹の声は低くて優しくて、背中からすこし汗ばんだ風をまとっていた。
真奈は、止まった。
動けない。
振り返るのがこわくて、そのままうつむいたまま、小さく口をひらく。
「……す、すき、です……。ずっと、前から……。」
風の音にかき消されそうな声だったけれど、
それでも祐樹は聞き逃さなかった。
彼はそっと真奈の横に並び、ふわりと笑った。
「……俺も。好き。真奈のこと」
一瞬、時間が止まった気がした。
真奈は、ぽかんと彼を見上げ――
「……う、うそ……」
「うそじゃないって」
「……え、えええ……っ……!」
もう無理。感情が爆発する。
顔を手で隠して、ぐしゃぐしゃになりながら笑ったり泣いたりしてる真奈を見て、
祐樹はやわらかく笑った。
「じゃあさ、夏休み、どっか行こうよ。LINEするね」
「……うんっ」
---
夏の朝。まだ少し肌寒い駅のホームに、真奈は立っていた。
人のざわめき、アナウンスの音、スーツケースを転がす音。
そんな中で、祐樹の姿を見つけた瞬間、心がぎゅっとなった。
「……来てくれたんだ」
祐樹が、驚いたように目を丸くして笑った。
大きなリュックを背負って、Tシャツ姿。
いつもと違う私服が、少し遠くに行ってしまう人みたいで、真奈は一瞬だけ言葉を失った。
「言ってたでしょ、私、ちゃんと見送るって」
そう言った声は、ちょっと震えていたかもしれない。
だけど祐樹は何も言わずに、そのまま横に立ってくれた。
「……そっか。ありがとう」
列車の発車時刻まで、あと3分。
時間は、優しくも残酷に流れていく。
「LINE、するね。うるさいくらい送っていい?」
「うん。どんとこい」
「……ちゃんと返してね?」
「真奈のは、絶対既読つけてすぐ読むよ」
そう言って祐樹が笑う。
その笑顔があたたかすぎて、涙がこみあげそうになる。
「――じゃあ、行ってくる」
祐樹が列車に足を踏み入れた瞬間、
真奈は思わず駆け寄って、彼の袖をつかんだ。
「……行かないでって言ったら、困る?」
祐樹は一瞬驚いた顔をして、でもすぐに優しく微笑んだ。
「困るけど……言ってくれて、嬉しい」
ドアが閉まりかけていた。
祐樹はぎりぎりのタイミングで手を伸ばして、真奈の頭をポンと優しく撫でた。
「またすぐ会おう。すぐ帰るよ」
そして――新幹線のドアが、静かに閉まった。
列車が動き出し、だんだん小さくなっていく車体を、真奈は黙って見送った。
手を振ることも、涙を流すこともできなくて、
ただ胸の奥が熱くなっていた。
---
真奈が祐樹を見送った後、駅のベンチに座り込み、スマホの画面をじっと見つめる。
そこには祐樹からのメッセージが届いている。
> 【ゆうき】
「夏休み、体に気をつけて。俺もがんばる。絶対また会おうな。」
小さく息を吐いて、真奈は頷く。
「うん、絶対……」
画面を見つめるその瞳には、もう少し大人びた、強い決意が宿っている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
真奈と祐樹の夏の恋を描くのは楽しく、私もワクワクしながら書きました。
続編やスピンオフも予定していますので、よければまた読んでくださいね。(たぶん)
暑い季節、どうかお体に気をつけてお過ごしください。
もしよければ、感想や評価を一言でもいただけると励みになります!
それでは、また!