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【短編小説】柔軟剤のあの人

作者: 青いひつじ


木々の隙間から溢れた光が地面に散らばる。枝が風に揺れると、海面に浮かぶダイヤモンドのようにゆらゆらと輝いた。少女はベンチに座ってそれを眺めていた。

時々目を瞑って、緑を含んだ太陽の温かい匂いを思いっきり吸い込んだ。

そこはグラウンドのあるとても広い公園だった。向こうにはいくつかの遊具も見えるが、少女はただベンチに座って空と地面を交互に眺めるだけだった。


少しすると、少女の座るベンチに年配の男性が近づいてきて、隣に腰かけた。空いているベンチはいくつかあったが、まるでそこしか見えていないかのように真っ直ぐ向かってきた様子から、ここが彼の定位置なのだろうと少女は考えた。

男性は姿勢を正すと、吹いてきた風に大きく息を吸った。茶色のハンチング帽に黒のサングラス、左手に握られた白杖。少女が初めて見るその杖を覗き込んだが、男性は気にせず、ピンと伸ばした背筋のまま前を見つめるだけ。彼には、少女が見えていないようだった。



ふたりの間に流れるのは、温かい頬をなでる風と、それにのって鼻先を掠める柔軟剤の匂いだけだった。

しばらくして少女は、鞄から一冊のノートとボールペンを取りだすと、ペラペラとノートをめくりなにかを書きはじめた。紙の上を滑るペンの音に、隣の男性はなにか気づいたようなそぶりを見せ、そっと少女の方を向いた。


『今日はなにを』


そこまで言って、男性はハッと口元を覆い言葉を続けるのをやめた。自分に話しかけているのかと、少女は手を止めて顔を上げた。少女の目に映った男性は、まずいことをしたという様子で固まっていた。不思議に思いながらも「日記だよ」と答えよとして、少女もそれをやめた。少女は不自然な男性の視線に疑問を抱いた。男性は少女の少し隣を、まるでもうひとり別の誰かがいるかのように見つめている。つま先はお互いの方を向いているが、男性がどこを見ているのか少女には掴めなかった。その不思議な感覚に戸惑い、言葉を止めてしまったのだ。

少女が再度言葉を放とうとした時、男性は口元に置いていた手をそっと太ももの上に戻した。


『そうだよね。聞こえていないよね。1ヶ月も会っていなかったから、つい嬉しくて、声に出してしまったよ。もう君に会えないのかと思った』


少女は、ボールペンをノートの真ん中に挟み静かに閉じると、男性の話に耳を傾けた。


『私はね、もう長くないんだ。しばらくの間放置していた種は、気づけばあちらこちらに飛んでしまったようだ。自分でも分かっていた。だから不思議と、それほど悲しくはないんだ』


少女は途中、男性が自分を誰かと勘違いしていることに気付いたが、そのまま聞き続けた。そうするのが男性のためだと思ったからだ。彼は、少女の隣に向けていた視線をゆっくりと前に移した。


『ここでその音を聞いたあの日から、僕は君のことが好きだったんだ。最後に君に会えて、悔いなくこの世を去っていける』


吹いた風に飛ばされた葉が、ひらひらと舞って地面に落ちた。言い終えると、男性はゆるりと立ち上がり、出口へ向かって歩いていってしまった。

去っていく背中が見えなくなると、少女は閉じていたノートを開き、また何かを書き始めた。




日が落ちると、公園は先ほどまでの色を失っていくようにぼんやりと暗くなり、少女は母親の元へ帰った。


「ただいま」


『あら、遅いから心配してたのよ。初めてきた場所だから迷子になったかしらって』


「公園に行ってたの」


『あぁ、あの病院前の公園ね。大きかったでしょ』


「うん」


玄関から入ってすぐ隣にある洗面所。蛇口をひねると、きんと冷たい水が少女の手をつたった。


『今日はここまでにして、ホテルに戻ろっか。明日はお掃除屋さん来てくれるから』


ひとつに束ねた髪を解きながら、少女の母親が言った。少女は、ペットボトルの麦茶を口に運びながら部屋を見渡した。


「おばあちゃん、ずっとここでひとりだったんだね」


『そうね。‥‥私、悪いことしちゃったかなってずっとひっかかってたんだ。よくない娘だったかなぁーって』


「おばあちゃん、寂しかったのかな」


『どうだろうね。もう聞けないや。でも、好きな人はいたみたいよ』


「え!好きな人?」


『そうそう。さっきタンス整理してたら、ノートが出てきたの』


母親は机の上のノートを開き、少女は駆け寄ってそれを覗いた。


「えー、誰の似顔絵だろー。近所の人なのかなー」


『さぁ、誰だろうね。あ、タイトルがある。柔軟剤のあの人だって。毎日描いてたみたいよ。お母さん、絵描くのなんて好きじゃなかったはずけど、この人のことは忘れたくなかったのかな』


そう言いながらパラパラとノートをめくる母親の顔を見て、少女は尋ねた。


「お母さん、どうして泣いてるの?」


母親は驚いた様子で、慌てて涙を拭った。少女は急いで、居間にあったティッシュ箱を母親に届けた。


『ふふ。ありがとう。少しだけ安心したんだ。ずっとひとりで寂しい思いをして、最後の時まで本当にひとりだったのかなって思ってたから。でももしかしたら、そうじゃなかったのかもしれないね』


似顔絵を眺める優しい目から、また一粒の雫が溢れた。





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