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片田舎のアラフォー、何者にもなれない

「はぁ……」


 木刀を手に、気怠げな表情で男は溜息をつく。

 十年ほど前、年老いた父の後を継ぎ、晴れて剣術道場の師範になった……までは良かったのだが、それから限りなく続く修行と指導の毎日。

 男だらけの環境に長年身をやつしていたお陰で、“三十代後半で独身のおっさん”という不名誉な称号を得てしまった彼は、今日も今日とて惰性で剣を振るっていた。


「このままじゃ、なあ……」


 両親は口を開く度に孫の顔が見たいとうるさい。

 その会話の相手が面倒で、いつしか食卓を共にすることがなくなってしまったが、彼自身、結婚したいという気持ち自体はある。


「あるけど、さあ……」


 後退気味の髪をかき上げて、汗を払う。

 冴えない顔。それなりに動いているのに、腹も少し出てきた……ような気がする。

 そもそも出会いがないということもあるが、出会った所で、こんな自分を誰が選んでくれるというのか?

 考えるほどに溜め息しか出てこなかった。


 大陸の辺境、草と岩だらけの村で剣術道場を営む彼の家系は、昔こそ魔王の軍勢を相手に獅子奮迅の活躍をしたとして栄華を誇っていたものの、今やその面影はない。

 道場の屋根は苔まみれ、壁も木戸もボロボロで、村人からは「幽霊道場」と囁かれる始末だ。

 それでも生徒がいるのは奇跡と言っていい。

 週三回の稽古で、今日はちょうどその稽古の日にあたる。

 中庭に設けられた修練場に目を向けると、そこには農夫の老人が二人、鍛冶屋の頑固親父、それと羊飼いの少年。計四人が集まって来ている所だった。

 もっとも、少年は剣より村娘に夢中。老人達は稽古というより話し相手を探しに来ている様子。鍛冶屋に関しては完全に昔からの付き合いで来てくれているだけといった具合だが。


「こんな筈じゃなかったんだけどなぁ……」


 男は木刀を地面に突き立て、肩を落としながら空を見上げる。

 灰色の雲が低く垂れ込め、まるで彼の気分を映し出すかのようだった。


「師範! ぼーっとしてないで、そろそろ始めましょうや!」


 鍛冶屋の声が響く。

 齢六十の親父。還暦を過ぎてもなお、鍛冶仕事で鍛えた腕は太く、眼光は若い頃のそれだ。だが、師範と呼ばれた男には、その熱量に応える気力がない。


「はいはい、すぐ行くよ……」


 気のない返事をしながら、男は木刀を手にゆっくりと生徒のもとへ歩く。

 稽古場に集まった面々は、いつもの通りバラバラだ。

 農夫の老人二人は、すでに座り込んで世間話に花を咲かせているし、羊飼いの少年は、道場の隅で木刀を手に何かしら地面に絵を描いている――おそらく、村娘の顔でもなぞっているのだろう。


「ったく、みんなやる気あんのかねぇ……」


 なんて、一番無いのは自分だが。

 男は小さく呟くと、稽古を始めるために声を張った。


「おはよう、皆! それじゃあいつも通り、まずは基本の素振りをやるから、並んで」


 その声に老人達はのそのそと立ち上がり、少年は面倒くさそうに木刀を構える。鍛冶屋だけが「よっしゃ!」と気合の入った声を上げ、さっさと構えに入った。


「始め!」


 だが、稽古が始まって十分も経たない内に、


「あいたた、腰が痛い」

「ひ、膝が笑う」


 老人達が文句を言い始めて勝手に休憩。少年に至っては「師範、ちょっと水飲んできます!」と言って早々に脱走。

 結局、鍛冶屋と二人で軽く打ち合うだけに終わるこれが、いつもの光景だ。


「はい、今日はここまで。皆、お疲れ様でした」


 脱走した一人を除いて、それぞれの労をねぎらう。

 稽古が終わると、皆は三々五々帰っていった。

 鍛冶屋だけが残り、男の隣にどっかりと腰を下ろした。


「なぁ、師範。アンタ、最近ますます顔が死んでるぞ」


 鍛冶屋の言葉に、男は苦笑いを浮かべる。


「そりゃ、こんな毎日ですから……道場は傾く一方、生徒はこんなだし、僕自身も……ほら、この通り」


 男は自分の腹を軽く叩き、情けない顔で笑った。

 鍛冶屋は眉を寄せ、しばらく黙って男を見つめていたが、やがて口を開いた。


「だったら、動けよ。村に籠もってブツブツ言ってるだけじゃ、何も変わらんぞ」

「動くって……どこに? 何を? そもそも、こんな片田舎でできることなんて……」


 言葉を切る男の声には諦めの念が滲む。鍛冶屋はそれに構わず、ずいと顔を近づけた。


「だったら、村を出ろ! 昔、剣一本で大陸を渡り歩いた先祖の血が、お前にも流れてんだろ? いつまでもここで腐ってんじゃねぇ!」

「大陸を渡る……? また冗談を……僕、もうすぐ四十ですよ? そんな若者みたいな真似、できるわけ――」

「――できるかどうかは、やってみねぇと分からねぇ!」


 鍛冶屋の声が、静かな道場に響き渡る。

 男は言葉に詰まり、ただ鍛冶屋の顔を見つめるしかできなかった。


「……悪い。熱が入っちまった。ま、結局はアンタの人生だ。俺がとやかく言うことじゃねぇよな」

「いや、ありがとう……」

「しっかりやれよ、師範。アンタの両親も俺も、アンタには期待してんだからよ!」


 鍛冶屋は立ち上がり、肩を叩いて去っていく。

 その背中を見ながら、男の胸に小さな火が灯ったような――ことはなかった。


「期待……ねぇ」


 重い言葉だ。

 今の自分には、それに応えられる能力なんてない。

 きっとこれからも、この場所で細々と暮らして、なにもないままの人生が続くだろう。


「続く……かな?」


 目に入る景色に、思わず不安が漏れる。

 道場の庭は雑草だらけで、かつて父が丹精込めて手入れしていた石畳の小道も、今ではどこが道なのかすら分からないほど荒れ果てている。


「はぁ……」


 男は木刀を置き、道場の縁側に腰を下ろした。

 空は依然として灰色で、風が吹く度に庭の雑草がざわめく。

 遠くで羊の鳴き声が聞こえ、村の日常が淡々と進んでいることを感じさせた。

 だが、その日常の中にある自分の居場所が、ますます曖昧に思えてくる。


「大陸を渡る、か……」


 やってみなきゃ分からねぇ。

 鍛冶屋の言葉が頭をよぎる。

 あの熱量、あの眼光。まるで若い頃の自分を見ているようだった。

 昔の記憶。剣術を学び、道場を継ぐことが決まった時、その胸には確かに夢や希望があったと思う。

 だが、いつからかそれは日常の中で溶けて消え去り、後にはだだの義務感だけが残った。


「何をやってるんだ俺は……」


 ふと男は立ち上がり、道場の奥にある小さな物置に向かった。

 そこは、先祖が使っていた道具や書物が雑多に詰め込まれている場所だ。


「確かこの辺に……」


 埃をかぶった木箱を手に取って開ける。すると、ボロボロの巻物や錆びた刀の鍔が顔を出した。

 記憶が正しければ、その中に、かつて大陸を渡り歩いた先祖の記録が残されていた筈だ。

 子供の頃、父が語るその物語に目を輝かせたことを思い出す。

 魔王の軍勢を打ち倒し、名を馳せた剣士。村の誇りだったその先祖の血が、自分にも流れているという。


「そんなこと言われてもな……」


 手に取った書物を開いてみるが、ページは虫食いで穴だらけだった。

 文字はほとんど判読できず、かつての栄光はただの紙切れに成り果てている。

 これが自分の家系の現実だ。

 もはや栄華は遠い過去のもの。今の自分に、剣一本で世界に飛び出すような力も勇気もない。

 物置を出て、道場に戻る。

 誰もいない稽古場は静まり返り、木戸の隙間から差し込む薄い光だけが床を照らしている。

 男は木刀を握り直し、ゆっくりと素振りを始めた。一振り、二振り。幾度となく繰り返したその動作は淀みなく、身体はまだ剣の扱いを覚えている。

 だが、心が付いてこない。剣を振る度に、虚しさが胸に広がる。


「こんなことを続けて、何になるんだ……?」


 素振りを止め、木刀を床に置く。

 額に浮かんだ汗を拭い、男は再び縁側に座った。

 寂れた景色。かつて父が「我が魂」と呼んだ道場は、今や見る影もない。

 こうなったのは、自分のせいだ。

 そう思った時、父の声が、ふと脳裏に蘇る。


『――剣は心だ。心が死ねば、剣も死ぬ』


 思い出した言葉が、今の自分を突き刺す。

 心が、死んでいる。

 その通りだ。

 だから、剣も、道場も、そして自分自身も。すべてが朽ちていく。


 ――このままじゃいけない。


 分かっている。

 村を出ろと鍛冶屋は言ったが、どこへ行けばいい?

 何をすればいいんだ?

 三十を過ぎた男が、今さら新しい人生を始められる筈がない。

 出会いがない。希望がない。未来もない。そんな自分に……そんな思いがぐるぐると頭を巡り、男はまた溜息をついた。


 その夜、男は久しぶりに両親と食卓を囲んだ。

 母は相変わらず孫の話をちらつかせ、父は黙々と飯を食う。

 会話は途切れがちで、何度も気まずい沈黙が流れる。

 そんな中、男は箸を置き、ぼそっと呟いた。


「剣を置きたい……って言ったら、どう思う?」


 その言葉に、母が目を丸くし、父が箸を止めた。

 重い空気が食卓を包む。

 父はしばらく無言だったが、やがて低く、しかしはっきりと口を開いた。


「何故だ?」

「分からなくなったんだ。続ける意味が……」


 その答えに、父は「そうか……」と一言。


「意味は、自分で作るものだ。お前がそう思うなら、それまでのこと。後は、好きにすればいい」


 その言葉に、男は何も言えなかった。

 父の目には、かつての師範としての厳しさと、息子への失望が見えた気がした。


「ま、まあ、そんなに焦らなくてもいいじゃないの。ほら、それより食べなさい。食べれば元気になるから!」


 母は慌てて取り繕うように笑顔を作ったが、その笑顔はどこかぎこちなかった。

 食事を終え、自分の部屋に戻る。

 布団に横になりながら、男は天井を見つめた。

 父の言葉、鍛冶屋の言葉、そして自分の心の声。それらが絡み合い、胸の中で重くのしかかる。

 村を出ることも、道場を続けることも、どちらも自分には無理だ。そう思う度に絶望感に苛まれ、その夜は眠れなかった。


 翌朝、男はいつものように道場に立った。

 稽古の日ではないが、習慣で木刀を手にしている。

 庭の雑草が朝露に濡れ、灰色の空は昨日と変わらない。男は木刀を地面に突き立て、ぼんやりと空を見上げた。


「このまま、終わるのかな……」


 その呟きは、誰にも届かず、ただ風に散った。

 道場は静かで、村は眠っているようだった。

 空は相変わらず灰色の雲に覆われたままで、それは、先行きのない自分の未来を暗示しているかのようだった。

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