真実の愛の幸福な結末
私が直接婚約解消を申し出たときに、殿下はおっしゃいました。
『男爵令嬢を本当に愛しているわけではない。彼女には魅了の力があるという疑いがある。私はそれを確かめようとしているだけだ』
──と。
真っ赤な嘘だとわかっていました。
幼いころに婚約者となってから、ずっと殿下を愛してきた私なのです。
この王国の貴族子女が通う学園の入学式で、男爵令嬢と出会った殿下の瞳に宿ったものが真実の愛だと、だれよりも早く気づいていました。だからこそ父である侯爵に、男爵令嬢には魅了の力があるに違いない、調べて欲しいとお願いしていたのです。殿下は私のその言葉を逆手に取ったのです。
なにかの本で読みました。
恋は三年から五年で終わるものだと。
三年制の学園の卒業が近くなって、殿下の男爵令嬢への恋心は衰えて来ていたのかもしれません。ご自身のご学友達と男爵令嬢の不適切な関係にもお気づきだったのでしょう。
なにより聡明な殿下はご理解なさっていたに違いありません。
侯爵令嬢である私との婚約を破棄したら王太子ではいられなくなることを。
廃太子となったご自身は向上心溢れる男爵令嬢にとって魅力的な存在ではないし、ご自身も今の身分や地位を捨てた生活には満足出来ない。だったら残りの時間を好きなだけ男爵令嬢と過ごして、最後は彼女がすべて悪いことにして処刑してしまおうと。
ええ、もちろん殿下は魅了などあり得ないとお考えだったのでしょう。
嫉妬に狂った侯爵令嬢の戯言に過ぎないと思ってらしたのでしょう。
それでも冤罪で処刑して独占したいくらいに男爵令嬢を愛していらっしゃったのです。ご学友達と浮気をしていたことを忘れて側妃には迎えられないし、だからといって過去の思い出にしてほかの男性と結ばれるのを見守ることも出来ないほどに。
だけど、男爵令嬢は本当に魅了の力を持っていたのです。
ええ、ええ、最初は本当に侯爵令嬢の戯言でした。
男爵令嬢が魅了の力を持っていたならば重くて処刑、軽くても神殿送りになって殿下から引き離されると思って言ったのです。
疑いを持たれて調べられている間だけでも殿下を独占出来るかもしれないと思って言ったのです。その時間があれば殿下のお心を取り戻せるかもしれないと……
ですが男爵令嬢は本当に魅了の力を持っていました。
男爵令嬢本人も知らなかった制御出来ない力です。彼女に制御出来たならば、殿下のご学友達が廃人になる前に力を使うことをやめていたでしょう。
そう、彼らが男爵令嬢の名前を繰り返すことしか出来ない動く骸になり果てるより前に、
「……キントリヒ、キントリヒ、私のキントリヒ……」
私の愛しい殿下がご学友達と同じ姿になるよりも前に──
「ええ、男爵令嬢は、殿下の真実の愛のお相手はあそこにいらっしゃいますわ」
「私を離宮から出して、ここまで連れて来てくれてありがとう。君は……君はだれだったかな?」
殿下の光を失った瞳に私は映っていません。
いいえ、学園の入学式で男爵令嬢に出会った日から、王太子という地位の後ろ盾に必要なだけの婚約者の存在は殿下の心から消え去ったのです。
そのくせ魅了という戯言を口にするのをやめて殿下に愛されることを諦めた私が、どんなに父を通して願っても婚約解消はしてくださいませんでした。殿下の瞳は私の姿を映さないのに、殿下の声は私の名前を紡がないのに、ただご自身の王太子という立場を守るためだけに殿下は婚約者の侯爵令嬢を縛り続けたのです。
「私のことなどどうでも良いではありませんか。早く男爵令嬢のところへお行きください。彼女を救えるのは殿下だけですわ」
「そうだ、そうだったな。……キントリヒーッ!」
手に持った木の枝を振るって、殿下は王都大広場の人混みをかき分けます。
周りに油の染み込んだ薪を積まれ、本人は太い柱に縛り付けられている男爵令嬢を目指して駆けていきます。
人間の心に働きかけて、最終的には廃人にしてしまう恐ろしい魅了の力を使ったものは火刑に処される重罪なのです。
どんなにやつれ果てていても、何ヶ月も離宮に幽閉されていても、処刑の警備をする兵士達は殿下のお顔を覚えています。その尊いお体を力任せに止めることなど出来るはずがありません。
油の染み込んだ薪が燃え上がったのと、殿下が縛り付けられた男爵令嬢に抱き着いたのはほとんど同時でした。
処刑人が慌てているのが少し離れたこの場所からでもわかります。途中で炎が消えたりしないように、たっぷり油を染み込ませた薪に火を点けたのです。簡単には消火出来ません。
ああ、計算通りです。
処刑を観覧していた国王陛下ご夫妻のお顔が驚愕に歪んでいるのが見えました。
……ねえ、私は何度も申し上げましたでしょう?
殿下と男爵令嬢は真実の愛で結ばれているのだと、魅了の力があろうとなかろうと殿下が私を愛することは二度とないのだと、だから婚約を解消して欲しいと。たとえ男爵令嬢を魅了の力を使った罪で処刑したとしても、殿下の心は彼女に囚われたままだと。
おかしいとはお思いにならなかったのですか?
魅了の力で廃人となり、男爵令嬢の名前しか口にしなくなった殿下を離宮に幽閉するという話が出たときに、ずっと婚約解消を望んでいた婚約者の侯爵令嬢が世話係を申し出たことを。
私はね、殿下を真実の愛のお相手と結ばせてあげたかったのです。だって私が殿下に出来ることは、もうそれだけしかないのですもの。婚約解消を申し出ていたのもそのためだったのですもの。
「……大嫌い……」
炎の中で崩れていくふたつの影を見つめながら、私は呟きました。
殿下に抱き着かれた男爵令嬢の顔は嫌悪に歪んでいました。
猿ぐつわをされていなければ裁判のときのように、アタシはそんなつもりじゃなかった! アンタ達が勝手に熱を上げてただけよ! と叫んでいたことでしょう。裁判のときの殿下はもう魅了で心が壊れていて、怒号を放つ男爵令嬢の顔を見ても微笑んでいましたっけ。
……そんなつもりじゃなかった、ですか。
私は覚えているのですけれどね、殿下に寄り添った貴女が私に向けた嘲笑を。
婚約者のいる相手に擦り寄ってはいけないと何度注意をしても、話を聞くどころか鼻で笑い、私に苛められたと言って殿下やご学友達に泣きついていた貴女の姿を。
ああ、本当に私は貴女が大嫌いです。
私が貴女だったなら、私が殿下の真実の愛の相手だったなら、ともに炎に焼かれて燃え尽きていくことさえも幸福な結末と思えたでしょうに。
どうして貴女が殿下の真実の愛のお相手だったのでしょう。どうして殿下は魅了の力が及ぶよりも前に貴女に恋をしたのでしょう。
どうして……私ではなかったのでしょう。
真実の愛で結ばれたふたりをひとつにした炎から漂ってきた煙が目に入って、私は少しだけ涙を零しました。