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08. 令嬢教育

 帰宅した翌日、のんびりと旅の疲れをとる予定だった。

 しかしのんびりの予定は未定。いつ寛げる日が来るのか誰にも判らない。


「もっと静かに歩きなさい」

 アウレリアは……令嬢教育をやり直していた。


「もっと歩幅は狭く、足音を立てない!」

 頭の上に本を乗せ廊下を何往復もしている。


 数年ぶりのドレスは重いしコルセットが苦しいしで最悪だ。

 それでも靴が踵の細いものでないだけマシである。領地では新しい靴を手に入れるのが難しいから、ドレスの中は今まで履いていた靴のままだ。


 一歩ごとに挙動の一つずつを直される。

 ピンと伸びた姿勢だけは問題なかったけど、大股で歩くなとか勢いが良すぎるとか、細部にわたって注意がとぶ。

 王都に戻ったら家庭教師が付くらしい。今はお母様から徹底的に扱かれていた。


「お母様、疲れた」

 もう嫌だ、休みたい。


「疲れたではありません! 両陛下から最高の家庭教師を付けていただいたというのに、こんなにガサツになって! 申し訳ないとは思わないの!!」


「だって誰も私が淑女らしく楚々とすることなんて望まなかったもの!」

「嘆かわしいわ!」


 はあぁぁと大袈裟に溜息をつかれた。

 私も溜息をつきたい。

 でもついた途端、ものすごい勢いで駄目出しをされた挙句、謝罪の言葉を口にするまで許されなさそうな気がするので我慢だ。


 アウレリアの母は強い。か弱そうなのは見た目だけで、芯が一本通っているだけでなく、逞しい雑草根性がある。アウレリアが産まれる直前に夫を亡くして実家に帰ったことや、その後、王太子の乳母として王城に上がった時、口がさがない連中から様々な陰口を叩かれただろう。王族の覚え目出度いというのは、それだけで攻撃の対象となり、足を引っ張られ蹴落とされる存在なのだから。


「奥様、お茶の支度が整いましたので、そろそろご休憩を……」

 母付きの侍女が、そろりと言葉をかける。

 荒ぶる母には、長年仕えている侍女でさえ恐ろしい存在のようだ。


「あら、もうそんな時間かしら?」

「かれこれ二刻ほど経っております」


 (助かったのかな?)

 気付かれないように小さく溜息をついた。


「生き返る……」

 居間に用意されたお茶は私のお気に入りだった。お菓子は少し甘味が強い。疲れているときには甘いものが一番だ。料理長の気遣いに泣きそう。


 朝食の後から続く作法(マナー)の復習に倒れたら楽になると思うが、あいにく体力だけは有り余っている。普通の令嬢のように、ふらりと貧血を起こすようなことは間違ってもない。


 ほっとしたのもつかの間、休憩が終わればまた歩き方の練習だ。

 休憩中は休憩中で、言葉遣いを注意されまくって大変だった。

 それは休憩の後も続き……。


「母上」

「お母様」

「疲れた」

「疲れました」

「足が疲れました」

「そんな訳ないでしょう」

「お腹が空きました」

「気のせいです」


 疲れと空腹は気のせいではないと思うのだが、何せ付き合っている母も、アウレリアと同じように立ち、歩いている。自分が耐えられるなら、娘も耐えて当然だと考えているのかもしれない。




 晩餐の席は母の手持ちのドレスの中で、比較的若向きな物を着せられた。アウレリアのために仕立てられたドレスはまだ一枚も無いが、新たなドレスを仕立てるための布に余裕があったから、針仕事の得意な使用人が大急ぎで縫っている最中だ。

 コルセットが苦しくて食事が入らないと言えば、あまり絞らないでもらえた。


「ようやく見られるようになったわ」

 母は侍女の仕事に満足そうだ。

 私が男装姿でいるのが気に入らなかったから張り切っている。


「見違えたね」

 義父が嬉しそうにエスコートを買って出てくれた。私たちの前を行く母はディートハルトのエスコートだ。


「美人の娘で、義父としても鼻が高いな」

「ありがとう、でも苦しくて好きになれそうにない」

 男装姿であれば足捌きを考える必要はないし、身軽で苦しくもない。良いこと尽くめだ。


「アウレリア殿は何を着ても似合うね」

「ドレスは好きになれないけど、慣れるしかない」

 ディートハルトの言葉を笑みで返したけど、多分苦しそうな笑顔だったと思う。


「淑女にとってドレスは身体の一部です」

「身体の一部を毎日交換するなんて野蛮だ」

 溜息をつきながらぼやいた。


「アウラ……」

 母の腹の底から出された声に怯む。


 儚げ美人の癖に、見た目に反して気が強く怖いのだ。

 晩餐はアウレリアと母が腹の探り合いをする横で、義父がディートハルトに探りを入る、なかなかに混沌(カオス)な様相を呈していた。



 * * *


「ふうぅぅぅぅぅ…………」

 疲労困憊という体で、居間のソファに身体を預けた。


 令嬢教育五日目にして、もう身体のあちらこちらが悲鳴を上げている。

 目の前にはメイドから茶器を受け取ったディートハルトが、甲斐甲斐しくお茶の準備をしてくれているけど、手伝う気になれないくらい身体が重い。


「冷めないうちにアップルパイを食べよう」

 ふわりと林檎の酸味のある甘い香りとシナモンの香りが漂ってくる。


 領地の屋敷に戻ってほんの数日で、ディートハルトはクラルヴァイン家に馴染み、家族に受け入れられている。腹芸できない素直さに、両親は腹の中に一物を抱えたまま、家に入り込むような芸当は無理だろうと、早々に疑うのを放棄したようだ。


 荘園では厳しい目を向けていたローラでさえ、柔らかな物腰のディートハルトに絆されかけている。

 アウレリアの方は、来る日も来る日も廊下を歩き、食事とお茶の時間は社交を想定した会話と、気が休まる日がなかった。三日目からは刺繍の勉強まで追加になった。書類仕事なら得意でも、針を持つのはちょっとしたボタン付けくらいしかできない身にとって刺繍は難しい。一応、一通りは学んでいるから、全くの初心者でないところが唯一の救いだ。


「今日の夫人は伯爵と一緒にお茶を楽しむみたいだから、僕たちも気楽にパイを堪能しよう。早く食べないと添えられたアイスクリームが溶けてしまうよ」

「動きたくない。食べさせて……」


 もう指一本動かすのも面倒臭かった。

 明日は隣の領地から母方の伯母と実父方の叔母が、私の教育にと呼ばれている。会話の練習なら母と二人きりより、何人も居た方が良いだろうという心遣いだけど、そんな心遣いよりもこの苦行から解放する方向で気を配ってほしいところだ。


「アウレリア……」

 なに……? と言いかけたところに、熱いものが口に侵入した。


「美味しい……」

 熱々のアップルパイを咀嚼する回数だけ幸せを感じる。


「はい、あーん」

「自分で食べられるよ」

 まさか軽口が本当になるとは思わず、食べながら居住まいを正す。

 食べさせてもらうなんて、まるで恋人同士のようだ――と思った途端、顔に血が上った。


 (……恥ずかしすぎる)

 でもそういう関係になるのは、悪くなさそうだ。

 相手がどう思うかは判らないけど。


 もし自分たちが交際するとしたら、ディートハルトの弱みに付け込む形だろう。

 それはよろしくない。


 このおよそ貴族らしくない善良さと、高位貴族と言っても通じるほど洗練さを併せ持つ青年を、自分の我侭で縛り付けてはいけない。


「大丈夫、一口で目が覚めた」

 照れ臭さを誤魔化しながら皿を受け取った。


 大きく切り分けた一切れをぱくりと頬張る。ちょっとお行儀が悪いけどディートハルトと二人だから気にせず、自分が一番美味しいと思う食べ方でいただく。


 出されたアップルパイはまだ熱々のままだった。

 シナモンが利いていてやや甘めなのは寒い日だからだろうか。表面にたっぷり塗られた杏ジャムの酸味が、林檎の酸味を引き立てている。


 二口目はアイスクリームを乗せてぱくり。

 酸味のある甘さとコクのある甘さが口腔の中で混じり合う。


「料理長がね、良い林檎が入ったからアウレリア殿のために作ったって」

「食べ物に釣られている気になるわ」

 甘いお菓子を出すから令嬢教育を頑張れと、母が裏から手を回している気がする。


「どちらかと言うと、毎日頑張ってるご褒美じゃないかな? 夫人は少し厳し過ぎる気がするけど、愛情があるからなんだろうね」

「判ってはいるのよ。でももう少し甘くなっても良いとおもうの」


 矯正された言葉遣いは、一度身についていたからか割と慣れるのは早かった。でも歩き方だとか仕草は、およそ令嬢らしくなく、矯正されてからは(たおやか)さを醸し出すゆっくりと流れるような動きが面倒臭くて動きたくなくなった。


「男装姿も素敵だったけど、ドレス姿はもっと素敵だ。大丈夫、直ぐに慣れるよ」

「歯の浮くようなことを言ったって、何も出てこないわよっ!」


 素面でさらりとこんな言葉が出てくるなんて!


 メリサリア王国の男は気障(キザ)だなんて言われるだけのことはある。

 ようやく引いた顔の赤味が、また戻ってきたような気がした。誤魔化すようにお茶に口をつけた。

 ふわりと漂うのは花の香りだ。


 矢車菊、茉莉花、松明草……ほかは何だろう?


 何種類もの香りが複雑に絡み合って、柔らかな雰囲気に仕上がっていた。お陰で香りのあるお茶なのに、菓子の香りを邪魔せずどちらも楽しめる。


 コクのある濃いお茶にミルクを入れて飲むのが好きだけど、こういうお茶の風味だけを楽しむのも良いなと思う。

 このメリサリア風のお茶は、きっとディートハルトを気遣ったものだ。

 帰宅したその日は捨ててきたがっていた義父だけど、領主の仕事を手伝わせている中で絆されていき、たった数日で態度が軟化した。


 義父上チョロい――


 とは思わない。

 接してみれば判ることだけど、善良過ぎて反感を持ち続けるのが難しいのだ。フレーミヒ子爵家の面々は、よほど性格が歪んでいるのではと思ってしまうのだ。

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