壊れた笑み
大きく脈動する胸を押さえ、視線を走らせる。ガラス張りの窓越しに夕日に染められた教室が目に入った。真っ赤な光に照らされ、机や椅子の影が長く伸びている。
「良し、教室の鍵は開いているみたいだね。」
喜善は何とも感じていないのだろう。嬉しそうにニヤリと笑い、扉を開け教室に入って行いった。心臓が炙られているような不快さを感じながらも彼の後に続く。
「……ふうん、なるほど。興味深いね」
喜善の視線を追い黒板を見る。そこには、まるで先程まで授業をしていたかのように板書が残されていた。
古文の授業だったのだろうか。文字は草書体で書かれ、内容は全く分からない。
「これ、何て書いてるんだ?」
「さあね。これだけ文字が崩されたら僕にも解読できないよ。達筆と言うべきなのか。下手と言うべきなのか。それさえも判断つかないね」
「そうかよ。まあ、別に読めなくっても俺には何の益もない」
「まあ、待てよ。興味深いのはこの板書じゃない。ほら、ここさ」
國男は彼が指差す場所に目を走らせた。崩された文字には変わらないが、先程の字よりもまだ読める。
「えっと、きゅう、こう……しゃの……かご、め、かごめ。……ま、わりに、まわって……おわ、らない……?」
うんうん、と喜善は満足気に大きく頷いた。
「旧校舎のかごめかごめ、回りに回って終わらない」
はっきりとした口調で、國男の言葉を繰り返す。
「水橋学園七不思議のひとつさ。それは僕らのお目当ての不思議だ。ワクワクさせてくれるね。本当に幸先が良い」
「何が幸先が良い、だ。どうやらお前みたいな考えなしの享楽者が、先に侵入していたみたいだな。全く物好きも居たもんだ」
「……失礼な奴だな。僕は知的好奇心を満たそうとしているだけだよ。佐々木はこの崇高な考えが分からないのか」
「分からないというより、分かっちゃいけないと思ってる」
考えることなく國男はそう答えた。即答だった。自分にも越えられぬ。いや、越えてはいけない線があるのだ。すまし顔でそう言って、肩をすくめる。喜善は心外だとばかり、口を尖らせ黒板に背を向けた。
「理解して欲しいとは、びた一文たりとも思っていない。ああ、思っていないとも。先駆者はいつだって孤独なものだ。だから、むしろ理解されては困るね」
「……変なところで意地をはる奴だな」
「意地なんてはってない。事実を言ったまでだよ」
「そうか。まぁ、なんでも良いけど。これからどうするんだ? まさか、ここで『かごめかごめ』をするなんて言わないよな」
「あー、うん。そうだね」
「……もしかしなくても、旧校舎に入ってからのことは何も考えてないのか?」
「……そんなことない。ちゃんと考えてるとも」
「言っとくが、『かごめかごめか』をするのにしても、俺とお前だけじゃ人数足りてないからな。最低、4人は要るだろ」
ぴゅーぴゅー。情けない音が喜善の口から漏れた。どうやら口笛を吹いているつもりらしい。何とも分かりやすい奴なんだ。國男は思わず天を仰いだ。
「はぁ、取りあえず校舎内を探索してみるか?」
「うん。そうだねっ! 僕も丁度そう言おうと思っていたところさ!」
嘘つけ、と罵倒しそうになる口を素早く押さえて、了解したと頷いた。もたついて時間をロスしたくなかった。早く喜善を満足させ帰りたい一心だった。
「じゃあ、行こうか」
小さな軋みを立て教室を出る喜善の後を追おうとして、気配を感じた。見られている。誰かに……いや、何かに。
泥濘のように感情が沈む。
「――――俺は何も見ない」
吐き出されたその呟きは、呪いのように國男に纏わりつく。しかし、恐ろしくも悲しくもない。苦痛すら感じない。
國男は笑みを浮かべた。朗笑や苦笑ではなく、嘲笑ですらない。そんな壊れた笑みを浮かべた。
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