警鐘の音
物心ついたときから、佐々木國男は常人では見えない何かが見えていた。
―――あそこに幽霊がいる。
―――こっちを見て嗤っている。
―――クネクネと蠢いている。
―――おいでおいでと手招きしてる。
何かに向け虚空を指差す幼い少年。毎日繰り返されるその行動に危機感を覚えた両親が、國男を病院へ連れて行ったのは当然の帰結であった。
幸いなことに、あるいは不幸なことに國男の身体に何一つ異常は見つからなかった。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
両手では数えきれない程沢山の病院を巡った。それでも、原因は分からない。見えるのだ。人ならざるものが。何も変わらない。変われない。もはや異常がないことが、異常だった。
いつしか気味が悪いと両親は國男を避けるようになった。目を合わせることもなくなり、いない存在として扱われた。まるで幽霊にでもなった気分だった。嫌悪し恐れた何ものでもない何かと同じ存在に國男はなってしまったのである。そう考えると、ざらついた空気が喉に詰まった。息ができない。誰か。誰か、助けて。そう言って、何度も救いを求め手を伸ばした。
……しかし、その手を握ってくれる者はついぞ現れなかった。
救われようとする行為自体が、何より救いようがない。世界はどうしてこうも優しくないのだろうか。怨嗟の言葉だけがこの空間に反響する。
そんな世界が國男にとって当たり前になってしまった時、ぷつん、と頭の中で何かが切れる音がした。
それからだ。怒りや悔しさ、悲しみさえ何一つ感じなくなった。きっと人として大切な何かが、手から溢れ落ちてしまったのだろう、そう國男は他人事のように思った。その事実すら心に響かない。何一つ響かない。
自分のことが分からない。
他人以上に、自分自身のことが國男には分からない。
ただひとつ確かなことは……何も見えないふりをしていれば、きっとこうはならなかった。何も信じなければ、きっと全て失うことはなかった。ただ、そう思った。
――だから、佐々木國男は見ることも信じることも止めた。
***
朱色と黄色を乱暴にかき混ぜ、ぶちまけたような空。
旧校舎の扉の前で、喜善がニヤニヤと締まりのない顔を國男に向けた。踵を翻して帰りたくなる衝動を何とか押さえ込み足を進める。一歩一歩が重い。浅くため息を吐いて、覚悟を決める。
「遅かったじゃないか」
「うるさい。こちとら心の準備が必要なんだよ」
「へぇ、意外だな」
「何がだよ?」
「佐々木も怖いものがあるんだ、と思ってさ」
「お前は人を何だと思ってるんだ。俺だって恐怖くらい感じる」
「そうは見えないけど」
見透かしたように喜善は目を細めた。その瞳は、君は恐怖なんて感じてないだろうと、語りかけて来るようだった。
「そんなことより、早く入ろうぜ。俺だって暇じゃないんだ。とっとと終わらせよう」
適当に言葉を受け流して、喜善を追い越し顔だけ振り向く。喜善はそうだったと頷く。その言葉を聞いてから、國男は前を向き旧校舎を眺めた。
二階建ての木造校舎。昭和初期に建てられた校舎は今にも崩れそうなほど頼りない面持ちだった。それなのに、何故か取り壊わされずひっそりと佇んでいる。
寂れ薄暗いその校舎内は辛うじて、ノスタルジックと表現できるのかもしれない。しかし、國男にとっては何の慰めにもならない。
玄関の扉を開けようとするが、鍵がかかっているようでびくともしない。まあ、普通そうだろう。こんな古び崩落の危険もありそうなところへ気軽に入れたら、それこそ何が起こるか分からない。さすがの折口も諦めるのでは? と、一掴みの希望を抱き尋ねてみる。
「おい。折口、鍵がかかってるぞ。諦めて帰るか?」
「ここまで来て帰るはずないだろう? こっちに来てくれ。2週間前の台風で窓ガラス割れたところがある。そこなら手を入れて、鍵が開けられそうなんだ」
「まあ、そうだよな畜生が」
國男を誘ったぐらいなのだから、潜入ルートは確保しているのも当然だろう。もう、腹を括るしかない。
喜善に連れられ、旧校舎の裏手へと廻る。喜善が言ってた通り、廊下の窓の一部が割れていた。
「じゃあ、開けるよ」
彼は割れた窓の隙間に手を突っ込み、鍵を無理やり開けた。がちゃり、と鉄の錆びた音がした。その音はどこか警鐘に似て、思わず眉をひそめる。しかし、それも長くは続かない。佐々木は一足早く窓から校舎に侵入し、急かすように声を張り上げた。
「佐々木、何をしてるんだ? 早く入ってこいよ」
「あ、ああ」
頷いて、窓に手をかけ乗り込む。廊下に足を着けた瞬間、どくりと心臓が大きく脈を打った。
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