9話
噂というものは湖面の波紋のようにそう長くは存在しないらしい。大抵は新しい話題がさらっていく。今日の風は明日にまでは吹きやしない。忘れたころに誰かが懐かしむぐらいのものだ。だからこそ過去にしがみつくのが人の性か。
あの日から一週間と少し、街では聖騎士が追放されたとかいう噂が蔓延っていた。破格の魔法使いのことなど時代錯誤も甚だしい。神学には詳しくないが、信仰対象であるエルフの忠実な戦士として神敵を滅する彼らが、殉職以外で身を退くのは希な事なのらしい。風は物知りだ。であれば任を解かれることはよっぽどなことがあったのだろう。会ったらぜひ聞いてみたいものだ。案外しょうもない理由だったりしても悪くなさそうだ。
道の悪さ由来の吐き気を紛らわすべく、そんなことを考えながらうずたかく積まれた木箱の野菜とともに馬車の中で揺られるフォス。気づけば彼がニカに居座って一ヶ月が過ぎようとしていた。厨房を任されるほど夜間の仕事に馴染んだ彼は、合間合間を縫って細々と依頼を受けていた。今日は収穫の手伝いだった。業務を終え、農家から金とそのおまけだという一抱えはある収穫物を譲られて扱いに困った彼は、ルドワに預けることにした。翌日それらは付け合わせとなって使われることになる。
まだ昼過ぎか。体感ではもう少し時間を食ったと思っていたのに。もう一仕事するほどの気力はない。だがせっかくの定休日を寝て過ごすのもいかがなものだろうか。木材の切れっ端や妙に高品質の大工道具で埋まっていた店の倉庫を片付けて手に入れた自室の寝心地は、はっきりいって好きだが、住人の目線が気になってしまう。
結局また街に繰り出したフォス。こういった時のルートは決まっている。武具屋と道具屋の値下げ品か新作に目を通した後は、その二軒先の店でチーズと野菜を挟んだパンを買う。今日も手についたパン屑を払ったところだった。しかし、それでも有り余る時間。ふと子供の頃の時間潰しが蘇った彼は、普段は行かない方向へと足を向けた。その道中。
「あなたの日々は充実していますか?漠然とした不安はありませんか?ありますよね?その悩みを解消する方法があるのです。ただその場で祈るだけ。どこでも構いませんよ。火の中水の中魔物の胃袋の中。祈り方を誰かに教わりましたか?申し遅れましたが僕」
「いや、いいです」
句読点が行方不明な怪しい勧誘を制する。教会に対して七色のステンドグラスに照らされてありがたい話を聞くという勝手なイメージを抱いていたが、改めるべきだろうか。いや八割方、着崩した司祭服から頭を出すこの男が例外なのだろうが。下三白眼に艶のある黒髪などからなる甘い顔は女性受けがよさそうだ。それを狙ってこいつを立たせているなら不純すぎやしないか。名前だけでもと追ってくるが、ノルマ達成に手を貸す気は来世まで湧かないだろう。名乗ろうものなら翌日店先に聖書を置かれそうだ。無視が一番だろう。
道行く人になすりつける形で変なのを撒いて、目的地こと図書館の前まで足を運んだフォス。
故郷にはないものがひしめいているこの街は、来てからというもの驚かされてばかりだった。その多くは自分には関わりのない世界ではあったが。だが、ここは違う。踏み込んで伝わる、カビ混じりの痛んだ紙の匂いと物語や知恵で満たされた棚が奥まで続く光景は安らぎをもたらしてくれる。本が鎖で繋げられた書見台の他には机が所狭しと並べられた小部屋があり、そこに腰を下ろした者らは必死にペンを握る手を滑らせたり、顔を埋めて夢の世界への知見を深めている。蔵書は基本的に持ち出しが禁じられているのは残念だが、それでも心躍る場所だ。
受付横の大きな分針が3目盛り分動いたころ、フォスは足を組んで物語の中に浸っていた。どの表紙を手に取るか散々迷った結果、彼は見知った著者の一冊に行き着いた。アーリーという名で通っているその物書きは、英雄譚の界隈において覇権をとっていると言っても過言ではなく、愛好者が一定数存在している。もちろんフォスもその一人。ある意味、彼にとっての道標とも福音の書とも呼べる。ゆえに自分の今後についての答えがあるのではないかと読みあさっているのかもしれない。気に入った箇所を見つけては、幾度となく往復している。そうして数時間。
気づけば木の板に突っ伏していた。慌てて上体を起こすと、反動でガタッと椅子が揺れて音が響く。軽く寝違えたようで首が思うように回らない。久方ぶりに長時間細かい文字に向き合い続けたせいか目が痛み、少し休憩をしたつもりだったが、半時ほど寝てしまっていたようだ。寝息を立てていたのか横に座っていた中年の女性からジロリと睨まれた気がして、続きが気になりながらも退散する。
趣味と巡り会えたフォスの頭は場面場面の再現に勤しんでいた。あわよくば自分もその栄光を手にできないかと。幼稚な妄想に、一人で気持ちよくなっていた彼を例の声が邪魔する。
「まぁまぁ、話だけでも打ち明けに。悩みは日の下にさらさないと膿むばかりですよ」
まだやってたのか。結構な時間が経っているはずなのに、着崩れは懲りもせず捕まえた通行人を口説いている。普段ならスルーしているところだが、気が大きい今なら柄でもないことでも出来る気がした。それにやり返したいというのもある。いけ好かない男の背を叩き、適当な方向を指さす。
「すいません、同僚の方があなたを探してましたよ?」
「おや、それはそれは手間を。ありがとうございます。そういう事なので僕はこれで。ぜひ今度の礼拝には来てくださいね!もちろんそれ以外でも構いませんよ!」
そう言い残して嘘くさい顔が、でたらめな場所に向かって消える。彼がどうなろうと知ったことではない。
ただ、残された二人の雰囲気は気まずいものだった。外を厭う住人の世間は一般の人より狭いらしい。
たぶらかされていたのはあの絵の具の女だった。今日は髪を一つにまとめ、衣服も部屋着ではなくしっかりとしたものを着ている。高まる気温に反して長袖なのが引っかかるが。いやそれはこの際どうでもいい。気取ってみたときに限ってなぜ知ってる人なんだ。穴があったら入りたい。
「あぁ、その僕も絡まれたんだ」
あぁいうの迷惑だよねと、あたかも初対面のように振る舞って事なきを得ようとするフォス。ラナーもラナーで目を泳がせている。
「そうですよね、祈るだけで消える悩みならそもそも大した悩みじゃないですよね。あはは・・・」
合わせようとして上がってしまったのか彼女は早口になっていた。自分を見ているようでムズムズしてしょうがない。早く切り上げたい。
「それじゃ、気を付けてね」
「あ、はい。ありがとうございました」
語彙力のない会話で別れる二人。だが、帰り道が同じだったのは計算外だったようで、偶然ながらもフォスの後を追うことになってしまったラナーは、彼と会うことのないようわざわざ道順を変えて帰宅することになった。その一部始終を遠目に見ていた男が蛇のように笑った。
「へぇ」