7話
示し合わせたかのように一斉に音源へと冒険者達は顔を向けた。空を仰いで角笛を咥えているのは牛か何かの頭蓋骨を被った一匹のゴブリン。人間と魔物の邂逅。鳴らす理由は一つしかない。緑色の頬が膨らみ、重低音が奏でられる。次第に混ざってくるのはジャラついた多くの足音と雄叫びと、恐慌。穏やかの一本調子だった平原の譜面は黒々と塗りつぶされていく。
避けようのない暴力の波が迫ってくる軍勢はどこか非現実的だった。前の剣士達もさきほどの威勢は何処へやら、どうすればいいと背中に浮かび上がらせたまま棒立ちしている。横目で覗く癒やし手はと言えば、本人が語るにチャームポイントらしいそばかすの上にじわじわと涙を滲ませている。辞世の句も思いついていなそうだ。
「戦闘準備!」
後方から飛ばされたセラの凜々しい声に、パーティーの面々は我に返り、武器を構えると目の前の現実に抗うべく備えた。辺りを囲む膝下まで成長した草は小柄な敵にとって、奇襲を仕掛けるには最適。不利な地形と判断した若きリーダーは、完全な平地で交えるべく後退を命じる。相手からの射線も通ってしまうが、そういった類いの武器を有していないとの報告からの行動だった。
つけられたのか?ひょっとして匂いが完全に消えていなかった?僕のせいか?前を見据えられるようにはなったが、そんな疑問を感じることも出来ないほど思考は火照っている。動揺が武器にまで伝わり、照準が定まらない。あぁ、やめてくれ。そんなに走って近づいてくるな。当たるものも当たらないだろ。練習では何も問題はなかったのに。
最初にかち合ったのはゴウの大剣と辛うじて武器と呼べる固い木片だった。結果は、真新しい剣が人のそれより黒い血を吸うというもの。剛健な彼の攻撃は受け止められなかったようだ。しかし渾身の振り下ろしは隙が大きく、そこをつくようにゴブリンは襲いかかる。
「やめろ!」
咄嗟にブラウが盾で飛び上がった一匹を殴打する。片手では尖った鼻を整形するぐらいの威力しかなかったが、その間にゴウは体勢を立て直した。カバーしあって敵を退ける二人だったが、牽制目的の軽い振りでは決定力に欠ける。特攻した仲間の末路から一対一では勝てないと理解したのか、ゴブリンも迂闊には攻めてこないこともあって、2の敵が4に4の敵が6にと、合流されて次第に囲まれていく二人。倒せるだけの力量はあるが生かせなくなっていく。
ジリ貧だ。支援魔法をかける他二人のように前衛の援護をしなくてはならないのは重々承知だが、密着されては彼らに当たりそうで中々狙いが定まらない。となれば後ろの敵を射貫くしかない。狙うのは、あの槍をもった一匹。獲物が大きすぎて動きが悪い。ずっと張り詰めていた呼気を込めて一射。頭を狙ったつもりだったが、矢が立ったのは垂れた腹。悲鳴が上がるが倒れない。距離で減衰したせいか。というかこれはマズい。
腹を押さえた槍持ちは、憎しみを露わに射手へと迫っていく。気づいたゴウが止めようとするも肉壁に阻まれて抜かれてしまう。後ずさりながらフォスが矢を放つが、浅く引いただけの攻撃では当てたところで傷をつけるだけ。怒りに燃える獣の心を折ることは出来ない。距離は縮まる一方。
来るな。来るな。その一心で矢箱に手を伸ばすが、近づいてくるのは勝利ではなく尖った木の棒。原始的でも腕力あえあれば殺傷能力は十分。アレが僕の内臓を抉るまであと数歩。避ける選択肢もあるが息の上がりようと流れる血を見れば、敵が倒れるのは時間の問題のように思えた。
何度目かの弓を引くフォス。腕に力を溜める彼にもう時間はない。回避の動作はとれないだろう。成否にかかわらず次の一撃が復讐に唇を乾かすゴブリンに与えられる最後のもの。この日一番の精度と威力を秘めた音が風に逆らって飛ぶ。覚悟に浸した矢は、迷わず腹へと深々に。
やった。今のは手応えがあった。はしゃぐようなことではないが熱いものがこみ上げてくるのを感じる。僕だって――。
奮い立った射手は次なる獲物を定めるのに意識を裂いていた。その足下で地に伏していたものが立ち上がる。あちこちに矢が突き立ったその姿は見るに堪えない。染み込んでいく鉄の色は砂時計のように、命の限りを告げる。それでも顔を上げる。腹を決めていたのはフォスだけではない。気力で起こした体の余力は油断した相手に報うに足る。暗くなっていく視界の中心にはおののく脇腹。柔らかな感触を覚える前に、その魂は吹き飛んだ。
「大丈夫ですか!」
ゴブリンの飛び散った鮮やかな臓物が全身に降りかかる。セラの魔法弾で爆裂した部位からしてほとんどが脳だろう。僕の思考もこれぐらい散っていた。上がってきた彼女に助けられたのを理解するが、遅れて前衛を支える人員が欠けてしまった、その事実が浮かび上がる。自分がヘマをしたばかりに。避ければもっと安全2確実に仕留める機会を作れたのかも知れないのに。恩人への感謝も謝罪も出来ない事態に陥っているのは、ブラウの呻き声を耳にすれば分かった。
仲間が頭から血を流す様は、グラスに張った水のようにギリギリで保たれていた戦場のバランスを崩した。後から後に湧いて出るゴブリン達は後衛を囲み出す。パーティーは分断されつつあった。頼りの綱は必死に支援を続ける癒やし手だけ。しかし彼女も配分を考えなかったツケが回ってきている。千切れるまでは秒読みだ。絶望の色は深くなっていくその中でセラは言った。
「・・・その子を頼める?」
余裕がないせいで生返事をしてしまう。何か策があるのか、そう問い返す前に彼女は走り出した。まわりにいた小さな死神の数匹がそれを追う。致命傷を与えられるセラを脅威と感じてか。呆気に取られていたが言われた通り消耗した仲間の前に陣取る。皮肉なことに僕は後回しの烙印を押されているようだ。残ったゴブリンはたったの二匹。
誰かが囮になって敵を引き剥がすのは選択肢としては悪くないが、既に立て直せる時期は過ぎている。それに彼女が保つかどうか。いや、最悪この子を連れて街道を目指した方がいいかもしれない。少なくとも全滅は防げる。
はぐれた奴は狙い目だと野生の勘を信じた十匹ほどがセラを追い詰めた。どうにか敵を振り払ったゴウが足を引きずって名前を叫びながら向かうが、もう手遅れ。逃がすまいとした一匹に背中を刺される。囲んだ獲物に粘っこい笑みを送っていたゴブリンが我先にと一斉に飛びかかる。黄色い歯には殺意をたたえて。冒険者達は目を閉じてしまった。ある者は脳裏に浮かんだセラの姿、袋だたきにされて細い体が泥と涎に汚されていく。それが現実と重なってしまうのを恐れて。ある者は自分たちがどういたぶられるかをまざまざと見せつけられるのを患って。
フォスは劈く悲鳴に目を見開いた。受け入れる準備が済んだのか。視線の先に待ち受けていたのは――。
吹き飛ばされる肉塊。本来緑の表面は黒く炙られている。既に力をなくしたそれらを辿ると、風が焼かれ、熱が伝わってくる。円状に燃え盛る炎の中心に立っていたのは、杖を天に掲げたセラだった。一塵の汚れもない髪を揺らすその姿は、浄化の火そのものだった。