5話
気持ちを静めるように短く吸った息をゆっくりと吐き、今まで通りに弓を構えて引き絞る。そして、放つ。風切り音を残した矢は吸い込まれるように、幹に付けられた印へと突きたった。
それを見て弦とともに張り詰めていた感情が緩んでいくのを感じた。良かった。少し時間が空いても数年かかって身につけた技術は衰えてはいないようだ。例えレードルとトングが手に馴染むようになっても身体が覚えている。日々に忙殺されそうになっていたが、本業はまだこっちだ。
腰をやった店主から束の間の休みをもらったフォスは、近辺の森に隠れて自分の腕を確かめていた。一応街中にも冒険者組合が運営している修練場があるのだが、通うのは冒険者の卵か毛も生えそろわないような孵化したばかりのそれらぐらいのもの。言ってしまえば初心者向けでしかない。別に最上位の存在が使っても文句はいわれやしないが、実績が重んじられる業界においては修練はそこそこに、あとは実践で学んでいくのが基本。その常識が、久々に武器を手にとった彼にとっては足を運びにくい要因になっていた。小一時間ほど弓を引いて満足したのか、青年は矢を回収するとそっと街道に沿って帰っていった。彼と同じように、店の面々も思い思いの休日を過ごしていた。なお、寝込んだ一名は除くものとする。
通りに面した組合の掲示板に張り出された依頼を上から下へと吟味していくフォス。先客のいかにも戦士らしい男と肩がぶつかり、頭を下げた。入れ替わり立ち替わり、幾人もが立ち止まっては去って行くそこで、彼はずっと文字列と格闘していた。
あれも、これも。ほとんどが家畜の世話やら種まきの加勢を求めるものばかりで、日頃やっていることとそう変わらない。受付と違って掲示板には比較的難易度の低いものが紹介されるとはいえ、今日に限って採取や討伐といった、いわゆる王道の依頼がない。あるにはあるがゴブリンの一団の壊滅は一人で行けるようなものではない。腕ならしと行きたかったが、無い物ねだりをしてもしょうがない。しょうがないだろう。諦めてどこかを見て回るべきか。
人の流れに身を任せようとした彼に、聞き覚えのある声がかけられた。聞こえないフリをするか迷う間もなく、それは近づいてきた。
「やっぱりフォスさんでしたか。奇遇ですね、こんにちは」
近くに駐めてあった馬車から人並みをかき分けて、グラズがその幼げな姿を見せた。後ろにはまたか、と呆れたような顔の大人達が数名、荷を手に眺めている。私生活を覗かれるようであまり良い気分ではないが出会ってしまってはもう遅い。年上としての対応を見せなければ。
「忙しそうだね、家の仕事?」
「そうです。といってもただの配達ですけどね。フォスさんはもしかして依頼を受けに?」
「そうなんだけど受けたいようなものがなくてね、どこかぶらっとしてこようかなって」
「あぁ、それは引き止めてしまってすみません。見かけたものでつい」
むしろ邪魔したのはこちらな気がする。行きたいといっても特別どこというわけではない。道具屋と武器屋を冷やかしたあとは食事をしてソファーで休むだけだろう。それならいっそのこと。
「いや、いいよ。それより迷惑じゃなければ手伝おうか」
そんな悪いですよと両手を突き出したグラズだったが、それを聞いていた配達員らに押される形でフォスを幌の中に迎えることになった。御者に叩かれて歩き出した馬は新たな搭載物に、鼻息を熱くした。そして蹄鉄を石畳に響かせて数時間、予定よりも早くその日の荷を配り終えた一行は、見上げるほど大きな屋敷の前で解散した。
商家の息子と聞いていたがまさかここまでの名家とは思わなかった。門と壁で囲まれた敷地は、地図にすれば道標になりそうなほど。個人の所有する物件ならニカで一二を争う広さだろう。手入れも隅々まで行き届いており、花壇に並ぶ色とりどりの花は今から売りに出されると言っても疑わない。庭に設置されたベンチぐらいの寝床で夜を越す自分が小汚く思え、遅れながら頭髪や衣服のシワを整える。
「これ、少ないですけど」
年下から金銭を受け取る青年。端から見れば巻き上げているように映っただろう。下心ありきの行動ではなかった旨を伝えて押し返すも、グラズは譲らずこちらが折れるしかなかった。下手な依頼主よりも金払いがいい。常人の感覚から外れているせいか。
「社会勉強にしても、わざわざこんな肉体労働をするのは似合わないんじゃないか?」
正直家業を継ぐなら、机に座り、インクを垂らして恋人のように数字と見つめ合っている方が良さそうなものだが。彼が機知に富んでいるのは周知の通り。仮にも馬車の振動で尻を痛めたり注文をとりに奔走させていいような身分ではない。
興味半分、嫌味半分で尋ねたフォスに対し、少年は恥じらいながらも笑顔で返した。
「それ、よく言われます。家に籠もっていても、遠からず家督は譲られるでしょうし」
だけど、と付け加えるグラズ。張った声からは確固たる意思が宿っていた。
「それは商家の息子だからです。僕の力でも何でもありません。怒らないで聞いて欲しいのですが、僕の立場はとても恵まれたものだと思っています。今まで飢えたこともないですし、お金で苦労したこともありません。もちろんそれ自体に不満を覚えたことも」
「でも窓からの景色だけでは地図は書けません。だからこそ、僕は色んなことを経験してみたいって思ってるんです。せっかく人より選択肢が与えられているのなら、飛び込んでみるべきだって。そうして目一杯の時間をかけ多くを知って、納得いく道を進みたいんです」
贅沢な悩みなんでしょうけどと続く彼の信条は、フォスの耳をすり抜けていった。誰を貶すこともなくただ純粋なそれは、根腐れを患うものにとっては身を焼かれるほどに眩しかった。何度目かの謝辞に加えてルドワにへと湿布を受け取って別れるまで、平静を装うのが苦痛に感じるほどには。
明日は、絶対何かしらの依頼をこなそう。何だっていい。漠然しているくせにどこか鮮明な焦燥感に襲われ、出来合いのもので満たそうとしていた空腹感も気にもならなくなっていた。詰まった胸に風を呼び込むにはその栓を抜くほかない。原因は分かっているのだから。
内に秘めたものとは裏腹に、進んでいたフォスの足が一棟の集合住宅の前で止まった。各階は三部屋が壁で仕切られ、二段重なったそれを階段で繋いでいる。壁の色から築年数の長さが分かる。何の変哲もない建物だったが、彼には見覚えがあった。一階の向かって右端の部屋前に置かれた、いや置いてきた荷はそのままだった。それに近づく普段の彼のように挙動不審な人影。次にそれがとる行動の検討はつく。この辺りの治安がよろしくないことを聞かされていてはなおさら。相手は人、普段なら関わりたくないと素通りするところだが、フォスはわざとらしく大きな咳払いをする。次の瞬間、坊主頭は弾かれたように逃げ出した。正義感ではなく、苦労して運んだものを第三者にくすねられるのが癪、というのに起因した行動だった。
さっさと中に取り込まないなら扉の前に置いてくれなんて指示するなよ。顔も知らない住人に毒づく。盗まれようがこっちが損することなどないとはいえ、関わった以上やるだけのことはしないと夢見が悪そうだ。やけに平たい包みの中身は何だっただろうか。手繰るが思い出せない。まぁ取り扱いではないならいいか。呼び鈴の紐を力強く引くが、壊れていることを悟り、徒労であったと知る。仕方なく扉をノックする。4回ワンセットで繰り返すが反応はない。不在なのか。呼びかけるまでの勇気はなかった。最後にもう一度だけ中指を折り曲げる。
諦めたフォスが下からねじ込もうとしたときだった。窺うようにゆっくりと、部屋の内部が外気に晒されていく。古い絵の具の匂いがするそこが、彼とラナーとの出会いの場であり、そして別れの場でもあった。