4話
不細工なドアチャイムが鳴る度、踊る心臓がそこから距離をとろうと店の奥へと僕を導く。脈が静まるのは新たに席を埋めた顔が、誰ひとり自分のことを知らないと分かったとき。全くの他人であれば無愛想な給仕係として振る舞えた。相手が素手でグラスを絞め殺せそうな屈強な男であれ、虜を増やすためか肩を大きく晒す妙齢の女であれ。ボロは出さずにいられた。あくまで口を開かなければ、だが。
「ねぇちょっと新入りさん」
裾を引いた手から電流でも流されたかのようにフォスの背と声が跳ねた。腕でつながった先には、上気した頬のすっかり出来上がった中年の女。このくらい若かったらよかったのにー、などと唐突に絡まれて困惑している青年を肴に、同じテーブルに肘をつく二人の同伴者の酒はすすむ。彼女達が旦那の悪口で盛り上がりはじめてようやく、香水の檻からフォスは解放された。
「災難だったな、強烈だったろあのおばちゃんたちは。もうちょっとで帰るだろうから辛抱な」
フライパンを揺らしながら苦笑いでルドワが言う。どの口が言うんだか。まぁ見本品のようにベタベタと触られなかっただけこの店主の方がマシだとは思う。
客の入り具合は七割といったところであり、従業員がみな小走りになるぐらいの忙しさ。マキバが常連に捕まってからはひとしおで、男衆の肩は凝り固まろうとしていた。看板娘は看板娘で、トレーで腰を叩いたりつま先でテーブルの足を蹴ったりと、苦労しているようだった。
ため息。これで何度目か。役に立っているかと聞かれたら多分、まぁまぁだ。そう答えるだろう。初日だからと免罪符を与えられているが、これをほぼ毎日続けると思うと不安だった。何をするにしても、気持ちが入らない。黙々と作業をしていても聞き耳を立ててしまうし、下手に気を回せば頭の中は真っ白。さっきの冒険者御一行に料理を運んだときなんかは、何を話したか全く覚えていない。その後彼らが会話をしているのをみると、自分のことを話題にしているような気がしてしょうがなかった。矢筒より空いたジョッキの方が似合ってるぞと。
夜の八時を過ぎると、空席が目立つようになり、話し声が雑音から意味持つ文字列になった。時を同じくして、一段落ついた裏でも会話があった。
「疲れたでしょ、水曜にこんなくること滅多にないんだけどね。昨日も多かったのに」
独り言のように呟くマキバの顔は感情が不透明で、反射的に同意したがよくなかったかもしれない。言われて動く自分より、キビキビ動いていた彼女の方が疲れているだろう。話はそこで途切れ、かなり気まずい。そこへ助け船を出すように、帰り支度を済ませたグラズが割って入った。
「お先に失礼しますね、お疲れ様でした。フォスさん、また今度お話しましょう」
短く返すマキバに倣って見送る。自分を含めて彼の夜道を心配する者はいなかった。しっかりした子だ。自分なんかよりずっと芯が通っている。それゆえ気になっていたことを声に出す。
「グラズはどうしてここで?」
「社会勉強のためだって。それも自分かららしいよ、商家に生まれたらああなるのかな」
飲み干したコップに水を注ぎながらマキバが話す。なるほど合点がいった。強いられてあれだったら三年後はさぞ荒れるのだろうではないかという心配の火種は吹きとんだ。
「で、君は?冒険者なんでしょ」
彼女の疑問に乗って僕に燃え移った。変な汗が滲む。仲間から解雇通知が発行されたと、正直に伝えるべきという正義感と情けないことを漏らすなという女々しさが拮抗するが、後者が打ち勝った。
「金に困ってて、あとは成り行きで」
嘘ではない。要因の一つではある。ただ根本的なものではないだけで。それを聞いた彼女の眉が僅かに下がった。
「じゃあずっとはいないの?」
「まぁ、一応。でもしばらくはここにおいてもらうつもりです」
なら、助かるよとマキバ。相変わらず仏頂面である。流れで彼女の身の上話にも興味が湧いてきたが、昼間の静かに怒る姿がチラついて踏みとどまった。あまりに入り込むと辛いのは身をもって味わったから。聞くにしても初日である必要はない。
「今日は早くあがれそうだぞ、二人とも」
前で客と話していたルドワがひょこっと首を出す。数の割には案外はけるのが早かったらしい。面倒ごとはその日のうちに終えておきたいという思いからか、二人は腰を上げて箒や台拭きを手に、片付けに取りかかる。一日置いた油汚れとの対峙を嫌がるフォスにいたっては、営業中よりも動きがよかった。その甲斐あって照明が落ちた店内から酒臭さは感じられなかった。
「送って行かなくて平気か?」
足音の減った外は生ぬるい風が吹いていた。その中で帰路につこうとしたマキバに、疲れからか何歳か老け込んだ顔の店主が声をかける。余計なことを。予想通り怪訝そうな振り向きで断られる。心配するのは理解できるが。うら若き女性がこんな親父を尻につけることの方がよっぽど不審がられるだろう。
「じゃあこいつを連れて行くのは?」
「本当にいりませんから、じゃ」
そう言って彼女はバッグを肩に提げて去って行く。残された男2匹の小柄な方がもう一方を睨んだ。
窓や正面の扉といった戸締まりを確認して、棚から毛布を出してソファーに広げる。身体をそこに投げ出すが、中々寝付けない。カチカチと刻む振り子や鳥虫のさえずりが気になりだして、閉じていた瞳はすっかり闇に慣れてしまった。そこに浮かび上がるのは調理器具などではなく、今日や昨日、それよりずっと以前の胸をざわつかせる記憶たち。それが劇場のように頭蓋骨の中で上映されている。寝苦しさを覚えて、被っていたものを蹴り上げる。泥以外の染みが増えたブーツに足を突っ込んで裏口を目指した。屯っていた猫たちが壁を駆けて夜に散る。
あんな風に僕もどこかにサッと身を引けてしまえたらな。街の狭間で口に出した願いは空を伝って、遠くで眠っているであろう友人達への呪詛になった。僕だってやれることがあったはずだ。
夜に酔って気が大きくなったフォスの背中を、ゴミ箱の上でふんぞり返った太い猫がふてぶてしく眺めていた。