3話
昨日とはうってかわって空は青く、高い。春も半ばを過ぎて存在感を増す太陽は、次の季節の到来を告げるように人々の肌を焼いていた。干された洗濯物をなびかせる風は散った花と深緑に色めき、額に汗を滲ませる青年からフードを引き剥がした。
手を荒らした水が今は恋しい。粘つく口内は潤いを求めている。それに両手が塞がっていては日差しどころか上から垂れてくる塩水だって防げやしない。
言葉にこそしなかったが、不満げな表情がフォスの心境を物語っていた。眉をすり抜けた一滴が深い緑の瞳に差され、湧いた痛みに彼は右目をつぶる。腐っても冒険者であった彼だ。パーティーにいたころには野宿も珍しくなかったし、そこで炊事を任されるのは日常茶飯事だった。しかしながら、三桁を超える枚数の皿を洗ったり、鳥がまるまる4羽入るような大鍋をかき混ぜることは経験になかったらしい。まだ日も高いというのに、目的地に向かうその足どりは重くなっていた。
やっと帰ってこれた。裏口はお世辞にも綺麗とは言えない店だが、反対に正面はこじゃれた雰囲気を醸し出している。壁にわざと這わせた蔦がそれっぽい。絶対にあの店主が装飾したわけではないだろうが。かごを下に置き、「準備中」の黒板が出されたドアを引くと、これまた歪な猫の細工を施された金色のドアチャイムが鳴る。おかえりーと今朝挨拶を交わした面々から声が飛び、最後にトングをカチカチと遊ばせてルドワが顔を覗かせた。
「おう、戻ったか。暑い中ご苦労。缶なんかは調理台の上にでも置いといてくれ。他はあっちの棚の上から2番目のとこに頼むな」
「すいません、この油を落とす薬品は売り切れでした。材料を切らしてるそうです」
買い出しのリストの中段を指さし、その分の差額を手渡す。ルドワはそれを確かめることなくポケットに滑らせた。
「マジか、この後お前に掃除してもらおうと思ってたんだがなぁ。ま、お前のせいじゃないし気にするな」
自身の作業は済んだのか、床をはわいていた肩に赤髪を乗せた女性、看板娘ことマキバに手伝いは要らないかと店主らしく呼びかけた。彼女は悩むように鮮やかな唇を指でなぞるが、すぐに若さを――18の自分よりは年上なのだが――感じさせる声で、さっきドブが臭かったからそれでいい?とこちらに問いかけてきた。大きい瞳で言われると圧迫されている気がして、了承せざるを得なかった。
「フォスがビビってるじゃないか、なぁ」
茶化したルドワの顔に汚れをたっぷりと吸った台拭きが投げつけられた。
「それも洗って片付けさせてね」
声色は優しげだが語る背中は笑っていない。初見からキツそうな人だと思っていたが、間違っていなかった。怒らせた張本人は苦笑いを浮かべながら、ドブさらいの道具と顔を濡らした返礼品を握らせると路地裏に僕を送り出す。
「じっくり時間をかけていいからな、よろしく」
中年の似合わない目配せを貰って裏口を叩いた。日が出ているおかげで昨夜の記憶ほど暗くはない。差し込む明かりを辿った先には時折人の影が通るのが見える。松明の熱にやられたのか壁は所々黒ずんでいた。その中には身に覚えのある小さな跡も。誰の耳もないと分かって、大きな欠伸を一つ溶かす。寝起きのまどろみ以来だった。
屋根と食事付きの一夜は確かに金は取られなかったが、タダではなかった。曰く、しばらく雑用を頼めるやつが欲しかったとのことだ。識字能力があって街を最低限知っているやつで。冒険者なら前者の程度に差はあれど誰もが満たす条件。ここに身を置くこと自体は悪くないと思って指紋を朱肉に乗せたが、舵がとれないこの身体は本心かどうかを見破れない。
フォスは取っ手の泥を掻き出し、側溝の蓋を間違っても自身の足に落とさないように横にずらす。色からして暴力的なヘドロが彼の嗅覚に押し寄せた。時間が慣らしてくれると判断したらしく、袖をまくってシャベルを鈍くきらめかせる。
跳ねた黒緑に汚れた姿は見せられたものではないが、心持ちは店を転々としていた時よりは穏やかだった。自然と武器を携えた集団が横を通る度背中を丸め、小柄の魔女帽子と杖のセットを避けることがないからだろう。今この瞬間も、迫り来る脅威を打ち払わんと才と時間を費やしている仲間がいることを忘れられる。名ばかりの冒険者の空が彼らの見上げるそれとはつながっていないように感じられた。何をやっているんだろう、その疑問すら羽のように抜け落ちて。
「フォス、休めたか?早速で悪いが中を手伝ってくれないか?」
明るい店内から、仕事着を纏ったルドワが休憩に行かせた新入りを呼ぶ。しかし夕暮れに無心でスコップを振るう姿は安らぎを得た様子ではない。くどい言い回しをするんじゃなかったと申し訳なさそうに、胸元から小瓶を取り出すと腐臭を放つ彼に振りかける。たちまち嘘のように腐臭は消え失せ、ほのかな柑橘系の香りが漂った。
魔法の一品だろうか。腕にも顔にも跳んでいたはずの不快な感触がない。それでも何となく顔と手を洗ってしまう。私物入れとして指定された棚を開けると、中にはサロンと所持金、折れて減った矢とひとまとめにされた弓。記憶の扉も開けてしまった気がして、半開きで必要なものだけを素早く取る。それに袖を通して表に出ると例の2人の他に知らない顔が一つあった。
「初めまして、グラズです。よろしくお願いしますね、えっとフォスさん?」
眼鏡をかけたこの少年がおそらくこの中で礼儀正しいだろう。いや待て、幼さの残る体つきは就労年齢に達しているか疑わしい。聞こうか迷っていると、ちゃんと父から許可は取っていますと囁き。
「グラズは途中で抜けるからそこんとこよろしくな」
比較的安全な街であっても子供を夜に寄越したがる親はあまり聞かない。その父親とここの店主は中々に親しいのだろう。無理矢理稼ぎ手にされているわけではないのは身なりや所作で明らかだ。田舎から来たやつに言われても皮肉か僻みととらえられるだろうが、品がある。混じりけのない白い肌なんかはとくに。
目線の高さを合わせて手を交わす両者。自虐感情を貼り付けた後輩と満面の笑みを浮かべる先輩は対照的だった。初対面ということもあって話したいこともあったが、毎晩時計が18時を打てば表は変わらず重さ形様々な足跡でごったがえす。誰が作り出したかを煙に巻く賑やかな雰囲気は扉一枚をいともたやすく跨いだ。